2014/07/04

天気晴朗なれども波高し

その昔、気象に関する情報は軍事上の重要な機密情報でした。当社にもありますが、太平洋戦争中の天気図を見ると、確かに“軍事機密”とか“大本営発表”の赤いハンコが押されていたりもします。

軍隊が作戦行動を指示するために使った暗号電文にも気象に関する電文が多く使われていました。

暗号電文と言えば、1941年12月の真珠湾攻撃の際、攻撃決行を命じた「ニイタカヤマ ノボレ」や、奇襲成功を示す「トラトラトラ」が知られていますが、このほかに攻撃中止・急ぎ日本に帰投せよ…を命じる暗号電文があったのをご存知でしょうか? その暗号は「ツクバヤマ ハレ(筑波山 晴 れ)」だったそうです。

また、海外に展開する在外公館や軍関係者、海外居留民向けに日米や日英関係の緊迫状況を知らせる暗号も、海外向けのラジオ放送に乗せて気象情報を装った暗号で伝えられていたとのことのようです。

例えば、「ヒガシノカゼ、アメ」が日米関係が緊急事態に陥った際に放送される暗号だったことは、米側の資料などで示されているのだそうです(すなわち、暗号が解読されていたってことです)。また、「ニシノカゼ、ハレ」は日英関係に特に大きな動きがないことだったようです。

そう言えば、日露戦争における日本海海戦(明治38年(1905年)5月27日~28日)において、東郷平八郎司令長官率いる日本の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を捕捉した際に、艦隊参謀の秋山真之中佐(当時)が東京の連合艦隊司令部に向けて打電をした内容が次のようなものでした。

「敵艦見ユトノ警報ニ接シ 連合艦隊ハ直チニ出動 コレヲ撃滅セントス、本日天気晴朗ナレドモ波高シ」

「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」…ここでも最後に補足のように、敢えて気象に関する情報が加えられています。

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これに関しては「名文中の名文」だとか、いや「戦況を伝えるには、前半の部分のみで十分。要らないものをつけたのでは簡潔さが失われるため、後半の部分は蛇足以外の何物でもない」…とか諸説いろいろあるのですが、秋山真之は同郷(愛媛県松山市)の俳人・正岡子規と親友で、文学に憧憬が深かったこともあって、このような文章を咄嗟に付け加えたのだと私は理解しています。

私が大好きな司馬遼太郎先生の書かれた小説『坂の上の雲』によると、秋山真之参謀が東郷平八郎司令長官に見せて作戦行動開始を知らせる電報の発信許可を貰う前に、大本営の気象部から送られてきた気象予報「天気晴朗ナルモ浪高カルベシ」をもとに、咄嗟に付け加えた文章のようです。

確かに「コレヲ撃滅セントス」で終わる文章だけでは、あまりに事務的で、文章としての色気のようなものはまったくと言っていいほどないですからねぇ~。後に付け加えられたこの一言のおかげで、この短い文章全体が実に生き生きとしてきます。この電文を受け取ったほうは、晴れた波の高い海を切り裂いて戦場となる対馬沖へ向けてまっしぐらに突き進む旗艦三笠と連合艦隊の諸艦の威風堂々たる姿が、頭に思い浮かべられたのではないでしょうか。

もしかすると、「天気晴朗」は見通しがいいから敵を逃すことはない。「浪高シ」は艦の動揺が激しいから砲撃戦の練度の高い日本が有利だ…と秋山真之参謀は東京の大本営に伝えたかったのかもしれません。

私はこの秋山真之参謀が書いた電文は、名文中の名文だと思っています。

太平洋戦争中も海軍の艦隊は、敵航空機や潜水艦に発見されることを恐れて、敢えて荒れた低気圧の中の海を選んで航海することもあったようです。連合艦隊が穏やかな大海原を大艦隊で威風堂々と航海していくとイメージは、勝手な妄想の世界にすぎなく、実際は荒れた海に上下左右に大きく揺られながらの航海のほうが多かったようです。ここでも、気象情報は極めて重要な情報でした。

その例として、真珠湾攻撃に話を戻します。

1941年11月1日、当時の東條英機内閣は大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領を決定し、要領は11月5日の御前会議において承認されました。以降陸海軍は12月8日を開戦予定日として、真珠湾攻撃を含む対米英蘭戦争の準備を本格化したわけです。南雲忠一中将指揮下の旗艦「赤城」および「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」を基幹とする日本海軍空母機動部隊は、11月22日に択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾に集結。そして11月26日午前8時、南雲機動部隊は一路ハワイに向けて単冠湾を出港したわけです。

日米の圧倒的な戦力差を考えると、開戦の緒戦でハワイ真珠湾を基地として、そこに終結していることが分かっていた米太平洋艦隊、特に空母艦隊を徹底的に叩きのめしておく以外に日本軍に勝ち目はなく、そのため、奇襲攻撃はこれしか方法は残されていないとさえ思われる乾坤一擲の作戦でした。

この奇襲攻撃を成功させるためには、隠密行動が必要で、いかに敵に発見されることなく、空母を発艦した零式艦上戦闘機(零戦)をはじめ、爆弾を搭載した九十九式艦上爆撃機、魚雷を搭載した九十七式艦上攻撃機が目的地のハワイ真珠湾を攻撃して戻って来られる距離までこの大艦隊を接近させることができるかという航路を選定する必要がありました。航路選定が作戦の成否の鍵を決定的に握っていたと言えます。

で、残されているその航路の記録を眺めていると、日本海軍の明確な意図と、その航海の苦労の跡が十分に読み取ることができます。

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11月26日午前8時に択捉島の単冠湾を出港した日本海軍空母機動部隊は真っ直ぐにハワイを目指したのではなく、北緯40度以北の北太平洋を航行して、一旦、アリューシャン列島を目指すような航路をとります。このあたりはまだ米軍の制空権、制海権下に完全には置かれていなかったので、米軍の偵察機や潜水艦から発見される可能性が低く、もし、発見されたとしても、「艦隊の練習航海のためにアリューシャン列島沖まで航海しているのだが、なにか?」…と申し開きができますからね。

あれだけの大艦隊、民間の商船や漁船に見つかるのではないか…という声もあるでしょうが、当時、その危険性は現実的にはほとんどなかったのではないか…と私は思っています。

弊社は海外航路の船舶向けに航路ナビゲーションを行うウェザー・ルーティング・サービス(WRS)を長く担当させていただいているのですが、11月末から12月にかけての北緯40度以北の北太平洋は非常に発達した低気圧が幾つも発生して通過する影響で大荒れの海域が広がっていて、船長はじめ乗組員や推奨航路を提供する弊社の気象予報士泣かせの海域です(反対に気象予報士の腕の見せどころであるとも言えます)。

日本から北米大陸の西海岸に向かう航路の場合、一番最短距離のコースは北緯40度以北の北太平洋を通り、アリューシャン列島やカムチャッカ半島をかすめるように進む大圏航路と呼ばれるコースです。比較的海が穏やかな夏場ではほとんどこのコースを船舶は航海するのですが、前述のように冬場はそうはいきません。非常に大荒れの荒天海域が広大に広がり、危険なためよっぽどのことがない限りこのコースを航海することはありません。

船舶が大型化・高速化し、造船技術が発達した現代でもそんな状況なのですから、今より船舶の大きさがはるかに小さく、性能も劣る70年前ならなおのことです。11月末から12月にかけてのその時期、北緯40度以北のその付近の海域を航海する商戦はまず皆無に等しかったのではないかと思われます。

と言うことで、民間の商船や漁船に発見される可能性も極めて低かったわけです。それで、択捉島の単冠湾を出港した大艦隊の日本海軍空母機動部隊は一路アリューシャン列島近海を目指すこのコースをとったと思われます。

記録によると、北緯40度以北の危険な北方航路を選択した日本海軍空母機動部隊ですが、幸いと言うか、この時期のこの海域とすれば奇跡的と言うべき穏やかな天候に恵まれ、まっすぐ東へ極めて順調に航海を進めていたのですが、出港から6日目の12月2日17時30分(日本時間)、大本営作戦司令部より運命の暗号電文を受信します。それが前述の「ニイタカヤマ ノボレ 一二〇八(ひとふたまるは ち)」です。

ニイタカヤマ(新高山)は当時日本領であった台湾の山の名(現・玉山)で、当時の日本の最高峰、一二〇八とは12月8日のことで、「X(エックス)日を12月8日(日本時間)と定める」の意味の電文でした。

実際に真珠湾を攻撃し、日米開戦の火蓋を切ったのは12月8日で、これは皆さんよくご存知の日ではあるのですが、私は日米開戦に踏み切る最終的な決断をした12月2日、それも「ニイタカヤマ ノボレ」の暗号電文を送信した 12月2日17時30分(日本時間)こそが本当の意味での運命の日、運命の時刻であると思っています。もう引き返せない決断を下したわけですから。

私はその決断の場にいたわけではないので、これはあくまでも私の推測に過ぎないのですが、その最終的な運命の決断を下す上で、おそらく気象情報が極めて重要な役割を果たしたのではないか…と私は思っています。

実は記録によると、それまで奇跡的なまでに穏やかな航海を続けてきた日本海軍空母機動部隊は12月1日の午後5時に日付変更線を越えて西半球に入りました。ここからはいつ米軍に発見されてもおかしくない米軍の予想哨戒圏です。ここで、作戦遂行に関するある“天佑”が訪れます。

12月1日に日付変更線を越えた頃から急に天気が変わり、部隊周辺の海域も白波が立つようになってきたのです。日本海軍空母機動部隊の後ろを徐々に発達しながら追いかけるように進んできた低気圧が、ついに機動部隊に追い付いてきたのでした。「ニイタカヤマ ノボレ 一二〇八」という暗号電文を受信して一路ハワイに向けて針路を変え た12月2日17時30分から先の航海は、かなりの荒れ狂う海を進む航海に変わったと記録には残されています。作戦遂行にあたっては、これは“天佑”と言ってもいい状況になった…と大本営作戦司令部は判断したのではないか…と私は推察します。

アリューシャン列島近海まで進み、ここから真っ直ぐ南に針路を変えて南下すればハワイに辿り着けるというところまでは来ていたのですが、実はここからハワイまでの航海が一番の難関でした。ここまでは幸いなことに米軍に発見されることもなく隠密に大艦隊を進めてくることができたのですが、ここからハワイまで南下する航路は米軍の制空権、制海権を有する圏内を突っ切る形になります。

空からは何機もの偵察機が、海中からは何隻もの潜水艦が、不審な船舶の往来を常に監視していて、こんな大艦隊を発見されないままハワイ近海まで進めることはほぼ不可能に近いと考えられていたからです。そこに大型の低気圧の接近という“天佑”が起きたわけです。

厚く垂れ込める雨雲により、上空から(偵察機から)は発見されにくくなりますし、強い風雨と高い波にかき混ぜられることから、潜水艦のソナーも潜望鏡もその索敵機能を発揮できなくなりますからね。

この大型の低気圧の接近による大荒れの海域の中を進めば、米軍に発見されることなく、ハワイ近海に辿り着けることに成功するかもしれない。しかも、12月7日の夜(日本時間)までにこの大型の低気圧が東に通過するというその予想が当たれば、当初の計画通りに米軍に発見されることなくハワイ近海まで大艦隊を進めることができ、12月8日にハワイ真珠湾の奇襲攻撃に成功して、真珠湾に停泊中の米軍の太平洋艦隊に緒戦にして壊滅的なダメージを与えることになります。この判断が、日本国にとって運命の決断を下すことの最終的な後押しになったと、私は推察しています。

いずれにせよ、12月2日17時30分(日本時間)、「ニイタカヤマ ノボレ」という作戦決行の暗号電報を受信した南雲忠一中将率いる日本海軍空母機動部隊の大艦隊は針路を真っ直ぐ南に変え、ハワイ真珠湾に向かってほぼ真っ直ぐの航路で全速力で南下を始めます。

排水量36,500t、全長260.67m、全幅31.32m、機関133,000hp、最大速力30.2ノット の旗艦、空母「赤城」をはじめ、部隊の大部分が3~4万tクラスの大型の航空母艦(空母)とは言え、大型の低気圧が産む大荒れの荒天海域を突き進むのには相当の苦労があったのではないでしょうか。おそらく高さ5メートルを越えそうな高い波の海域が船の行く手を遮るように広がっていたのではないでしゅうか。

艦艇は絶えず上下左右に大きく揺れての航海だったと想像します。しかも、積んでいるのはハワイ真珠湾攻撃のために運んできた戦闘機や爆撃機、攻撃機といった航空機。一機でも多く搭載するため隙間なく並べられていたのではないか…と思われます。それら航空機を作戦開始前にぶつけて壊してしまったのでは元も子もありません。

南雲忠一中将はじめ、日本海軍空母機動部隊の隊員の皆さんのご苦労はいかばかりか…と思われます。が、しかし、日本海軍空母機動部隊はこの困難な航海を乗り越え、予定通り12月8日に日付が変わる頃にハワイ近海にまで辿り着くことが出来ました。それも、米軍にまったく気付かれることなく隠密に。

12月6日には大型の低気圧がこの海域を通り過ぎ、そこからは天候は回復して穏やかな航海になったのですが、依然として雲は低く垂れ込め、視界不良の中での航海でした。これも日本海軍空母機動部隊にとっては好都合でした。

あとは出撃して真珠湾を攻撃するまでですが、ここで気になるのが攻撃対象となるハワイ真珠湾の天気。このように低く雨雲が垂れ込めた状況では、上空から攻撃目標となる米海軍太平洋艦隊の艦艇を発見することができず、せっかくの奇襲攻撃が最後の最後に不発に終わってしまいます。6日までは低気圧の影響で大荒れの海の中を進む航海でした。低気圧が通り過ぎたことで、天気は徐々に回復に向かうと予想はされていたのですが、通り過ぎた直後だけにそれがどのくらいで回復するのかは分かりません。

そこで、日本海軍空母機動部隊では通信士がある弱い電波を耳をすませて傍受していました。それが現地ハワイのラジオ放送。それもラジオの天気予報でした。12月4日に入ったあたりからホノルルのラジオ放送が受信できるようになり、ハワイのの気象に関する情報がきちんと入手できるようになっていました。当時の航空機は、悪天候で飛行することは困難でしたし、目視で爆撃するので、悪天候では大きな戦果は望めませんでしたから、このラジオ放送から得られる気象に関する情報はとても有益でした。

そして12月7日、ラジオで真珠湾のあるハワイ、オワフ島の周辺の翌日(12月8日)の天気予報は曇りという情報を入手したことで、最終的な出撃命令が下されたということのようです。そして、その後の結果については皆さんよくご存知の通りですので、ここでの詳細な説明は省かせていただきます。

日本軍の奇襲作戦は成功し、米太平洋艦隊の主力艦である戦艦8隻を撃沈または損傷により行動不能とする大戦果を挙げることができた一方で、最大の攻撃対象であった米空母艦隊が一隻も真珠湾に停泊しておらず、全隻、湾の外に練習航海に出ていたので撃ちもらすという結果になってしまいました。米空母艦隊は危うく難を逃れたということになっていますが、これは、もしかしたら、大型の低気圧の接近による被害を避けるためだったのではないか…とも推察されます。空母は喫水から上の構造物が比較的高く、復元力が他の艦船よりも低いので、低気圧が通過するまで湾の外へ避難させたのではないでしょうか。でないと、全隻、湾の外に出ていたという説明がつきません。もしこの私の推察が当たっていたとしたら、ここでも気象情報が大きな役割を果たしたことになります。

日本で初めて天気予報が発表されたのは明治17年(1884年)6月1日のことです。この日の朝6時に発表された天気予報は「全国一般風ノ向キハ定リナシ 天気ハ変リ易シ 但シ雨天勝チ」という内容だったそ うです。

この日を境に天気予報が始まったわけですが、明治17年の開始から今日まで毎日ずっと続いているというわけではありません。実はある日突然なくなってしまったことがありました。

その日が昭和16年(1941年)12月8日、そう、日本海軍の空母機動部隊が真珠湾に奇襲攻撃をかけ、日米での戦争が始まったちょうどその日です。その日を境に、新聞やラジオから突然天気予報がなくなってしまいました。真珠湾攻撃とほぼ同時に気象情報が軍事機密情報となってしまい、お天気に関する一切の情報が発表されなくなったわけです。

その後、一般向けの天気予報が再開されたのは、終戦から6日後の昭和20年(1945年)8月21日のことでした。実に3年半以上もの間、日本では天気予報がなかったわけです。

天気に関する情報が一切提供されなくなると、例えば台風が近づいていることも知ることができませんし、大雨や大雪が降りそうだ…ということも知ることができません。これでは防災もへったくれもあったもんじゃあありません。農業だってそうです。寒気で霜が降りそうだという予測を立てることもできなくなり、農作物に甚大な被害をもたらすことになりました。文字通り死活問題になっていました。でも、それらを犠牲にしてまで、機密にしなくてはならないほど、軍隊にとって気象情報は作戦行動に活用するための重要な軍事機密情報だったということです。言葉を換えると、気象情報というのは、昔から極めて「戦略的、戦術的に価値が高い情報」だったということです。

ということは、今の厳しい「ビジネス戦線」を勝ち抜くためにも、気象情報は十分に活用できるものであるということを意味しています。

弊社は「HalexDream!」をはじめ「ビジネスにおける戦略的な価値が高い情報」を、その活用ノウハウを含め、幾つもご提供しています。

日本のあらゆる業種業態の8割はなんらかの形で気象の影響を受けていると言われています。また、ビジネス上の課題は「しっかり守りたい」「もっと儲けたい」「無駄を省きたい」の三点に集約できると私は考えています。

ビジネス用途に特化した気象情報を活用して「しっかり守りたい」「もっと儲けたい」「無駄を省きたい」という課題の解決を考えてみませんか?

さぁて、ここは知恵の絞りどころですね(^^)d

弊社は単なる気象情報の提供だけではなく、ソリューション提供企業として、その知恵を絞る段階から、お客様のお手伝いをさせていただきたいと思っています。


【追記】
日本で一番最初に作られた天気図は、明治16年(1883年)2月16日、ドイツ人の気象学者エリヴィン・クニッピングの指導により作成された天気図で、同年3月1日からは、毎日、天気図が発行されるようになり、それらはすべて現代に残されています。

明治16年(1883年)と言えば今から約130年も前のことです。その過去約130年分の天気図や気象データも“宝の山”とも言うべき貴重な戦略的情報です。こんなに古くから毎日の気象情報を記録として残している国は、世界中探してもあまりありません。実は弊社もこの130年分の天気図と気象情報の写しを保有しております。

ちなみに、弊社のサービスの1つに『思い出の天気図』というものがあります。これは大切な方への誕生日や記念日の贈り物として、お生まれになったその日や、なにかの記念日のその日の天気図のプレゼントをサポートするものです(^^)d この サービスにも弊社が保有する約130年分の天気図をはじめとした気象情報資料を活用しています。

この貴重な情報は、この他にも、様々な活用分野があろうかと思います。それを考えるのが、今は楽しいですね(^-^)v

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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越智正昭

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