2014/09/03

熟田津に舟乗りせむと月待てば…

「熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜 (熟田津に舟乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな)」

これは万葉歌1巻8に載っている額田王(ぬかだのおおきみ)の有名な和歌です。この時代にしては分かりやすいなんとも勇壮で颯爽とした和歌で、よく知られているのですが、特に愛媛県の松山市の人なら知らない人はいないというくらいに知られた和歌です。と言うのも、“熟田津(にきたつ)”とは現在の愛媛県松山市のことだからです。“熟田津”の“津”とは港のことですから、松山市にある古くからある港、堀江港、和気港、三津港のうちのどれかだとされています。

この額田王の和歌は道後温泉で詠まれたという説があり、道後温泉にはこの和歌が刻まれた石碑も建っています。ちなみに、日本書紀によると、道後温泉には舒明天皇・斉明天皇御夫妻の入浴記録(日本書紀)が残っているほか、万葉集にもこの額田王のほか山部赤人の来浴記録も残っているくらいで、古くから栄えていたことが偲ばれます。

すなわち、前回の『おちゃめ日記』で触れた第37代・斉明天皇(第35代・皇極天皇でもある)は夫である第34代・舒明天皇が存命中からこの伊予の国(現在の愛媛県)を訪れていたわけで、朝倉の存在は随分前から知っていたとしてもおかしくはありません。おそらく、前日に述べた約3ヶ月間の愛媛県朝倉滞在は、朝倉を直轄領にしようとしていたのかもしれません。

で、この和歌に話を戻します。この和歌を現代文に訳すと、

「熟田津で船を出そうと月を待っていると、いよいよ潮(しお)の流れも良くなってきました。さあ、いまこそ出航するのです!」

となります。ねっ、なんとも勇壮で、颯爽とした和歌でしょ。

このなんとも勇壮で颯爽とした和歌が詠まれた背景を知るには、作者である額田王(ぬかだのおおきみ)とはいったい何者であるかを知る必要があります。なんとこの額田王、“王”とはなっていますが、実は女性。それも斉明天皇の息子である大海人皇子(後の第40代・天武天皇)の妃(皇后)なんです。で、熟田津(松山)を出港して船で向かった先は九州の博多港です。

ここまで書くと、勘のいい方ならお分かりいただけますよね(^^)d。この和歌は斉明天皇の朝鮮半島出兵(百済救済)の時に詠まれた和歌なのです。

でも、ここで疑問が湧いてくるのですが、これって本当に朝鮮半島への出兵だったのでしょうか。額田王の和歌には軍事上の出兵と言う悲壮感がほとんど感じ取れないんですよね。戦争に行くのなら、必ず人は死ぬのだから、もうちょっと悲壮感が漂ってもよさそうなものなのですが、そういう部分があまり感じられず、反対に、どことなく明るい未来に向けた希望のようなものを感じられるのには、ちょっと違和感があります。

そうなると、百済救済を名目とした朝廷の“集団移転”、すなわち“遷都”ではなかったか…という仮説が芽生えてきます。昔はそれが当たり前だったのかもしれませんが、戦争に行くのに指揮官や上層部が夫婦連れというのはあまりにも不自然です。ふつうは万が一のことを考えて、後を継ぐべき子孫や婦女子は安全なところに残して、男だけで出兵するのが、世界中どこでも当たり前にやられていることです。さらに途中、愛媛県の朝倉に約3ヶ月も滞在したというのも不自然。救済に行こうとしているのなら、一刻も早く戦場に向かわないといけません。なのに3ヶ月なんて長い時間、四国のド田舎に留まったわけです。そこになんらかの意図があると考えないといけません。

まずそこで考えられるのは、これって天皇家をはじめとした国を挙げての集団移転、すなわち“遷都”、『九州遷都』だったのではないか…ということです。

今でこそ首都を移転させる“遷都”というとメチャメチャ大変そうな印象を持ちますが、実は昔は頻繁に軽~い感じで行われていたようです。調べてみると、奈良に都(平城京)が置かれる以前の7世紀半ばから8世紀にかけての150年間に、現在判っているだけでも実に13回もの遷都が行われているのです。単純平均すると、10年少々で遷都を繰り返したことになります。

一般にはこの時代のことを飛鳥・大和時代と呼び、奈良の南、樫原神宮を中心とした飛鳥・大和の地(今の奈良県)にずっと朝廷が置かれていたかのように誤解されがちですが、決してそういうわけではありませんでした。

まず、斉明天皇の夫である第34代舒明天皇が難波長柄豊崎宮(今の大阪府)に都を移し、次の第35代皇極天皇(斉明天皇)もその地で即位し、執政も行ったのですが、次の第36代孝徳天皇の時代には飛鳥の地(同じ飛鳥と言っても微妙に位置は異なっています)に戻ってきています。第37代斉明天皇も飛鳥の地にいたことになっているのですが、雷を原因とした火災で宮殿が焼失し、近隣で何度か宮殿を建て直し、最後は吉野に遷都しています。

次の第38代天智天皇は琵琶湖のほとりの近江大津宮(今の滋賀県)に遷都しています。第39代弘文天皇が再び飛鳥の地に戻し(これまた微妙に以前の位置とは異なります)、第40代の天武天皇もその地で執政をしますが、第41代の持統天皇が藤原京に遷都し、第42代の元明天皇がついに奈良(平城京)に遷都するわけです。それが710年のことです。その奈良の平城京も一時期繁栄を極めたのですが、その期間はさほど長くはなく、桓武天皇の時代の784年に長岡京に、さらに794年には平安京(京都市)に遷都することになります。

これだけ頻繁に首都を引越しした理由は、『気候で読み解く日本の歴史』の著者・田家康さんの説によると、木材資源の枯渇。建築資材としての木材もさることながら、エネルギー資源としての木材の枯渇が原因だと思われます。首都ともなるとそうとうに大勢の人がその地に住むわけですから、エネルギー源の確保は重要な問題で、石油や石炭と言った化石燃料まだ発見されていなかったこの時代には木材、特に炭の原料となる広葉樹が大量に必要になったわけで、それを求めて首都の引越しを繰り返したのではないかと思っています。

そういう背景があるので、第37代の斉明天皇が思い切って近畿の地を捨てて、遠い九州の地への遷都を企てたと考えても、決しておかしくはないと、私は思っています。当時は高句麗・百済・新羅といった朝鮮半島や唐との外交上も重要な問題を抱えていたこともあって、少しでもそうした地域と近いところの九州筑紫の地(今の福岡県)に首都を置くのもいいのではないかと考えた…ということもあったかもしれません。これが『九州遷都説』です。

くわえて、第37代の斉明天皇が661年に崩御なされ、次に息子の中大兄皇子が第38代の天智天皇になられるですが、その天智天皇の即位はなんと7年後の668年。この7年という長期にわたる空位も謎で、なんらかの理由があるように思えます。この第37代斉明天皇の崩御から次の第38代天智天皇の即位までの間に7年間も謎の空白期間がある理由も、『九州遷都説』を持ち出すと、なんとか説明がつきます。

斉明天皇が崩御なさった後、天智天皇は斉明天皇の後を継いでいったんは“九州朝廷”の天皇(リーダー)の座についたのですが、それとは別に近畿地方に残留した人達が打ち立てた別の(非公認の)天皇(リーダー)がいたのではないか…と私は勝手に推察しています。で、その近畿勢力が徐々に力を持ってきて、無視できない存在になってきたので、九州の天智天皇が武力でもってこれを制圧し、再び彼等を抑え込むために近畿の地に戻ってきて、近江大津宮に首都を構え、晴れて正式に日本国全体の(統一の)第38代天皇となったというシナリオです。

なんと言っても1300年以上も前のことですので、何が本当のことなのかは分かりませんが、こういう仮説も立てられるということです。

ちなみに、斉明天皇が都を置いたと思われる福岡県の朝倉市ですが、隣接する甘木・朝倉地方を中心とした周辺地域には、奈良・大和地方を中心とした周辺地域の地名と酷似した地名が多いことから、邪馬台国の中心は甘木・朝倉地方にあり、後に奈良・大和地方に移って大和朝廷になったとする説があります(邪馬台国九州説)。もし、そうなら、斉明天皇は元々の地に戻って、朝廷としての再起を図りたかったのかもしれません。

また、7世紀後半に九州方面の地方行政機関として設置された「大宰府」も朝倉市の近傍にあるというのも、ちょっと気になるところです。なんらかの関係があるのでしょうか?

いずれにせよ、愛媛県今治市朝倉上にある無量寺の若い住職が発した「斉明天皇」というたった一言のキーワードから、点としての“状況証拠”をただ単に繋ぎ合わせるだけで、こうした壮大な『九州遷都説』にまで行きついてしまいました。これって単なる私の妄想なのかもしれませんが、このような仮説を立ててこの当時の歴史を眺めてみると、私としては、なぁ~んかしっくりと腑に落ちるんですよね。