2014/09/05

えっ!『四国遷都説』

以前の『熟田津に舟乗りせむと月待てば…』の稿では、斉明天皇による『九州遷都説』について書きました。これを書いているうちに、ある疑問が生じ、さらに妄想を膨らませてみました。

斉明天皇の愛媛県朝倉滞在に関しては、一般に伝わっている日本の歴史の中ではいっさい触れられてはいません。

現在、歴史学者の間で一般に認識されているこの当時の年譜は以下の通りです。

斉明天皇自らが率いる大船団は朝鮮半島の百済救済のため斉明天皇7年(661年)1月6日に難波(大阪)を出港。まず、1月8日に備前の大伯(おおく:現在の岡山県瀬戸内市、平成の大合併の前の地名は邑久(おく)郡)の沖に停泊します。その地で同行していた中大兄皇子(後の天智天皇)の后、大田皇女(おおたのひめみこ)が大来皇女(おおくのひめみこ:大伯皇女とも書く。万葉歌人)を出産しました。

1月14日には船団が伊予の熟田津(現在の松山市)に寄港。その際に前述のように額田王が「熟田津の…」の歌を詠んだとされています。

斉明天皇の船団が筑紫の那の大津(福岡県の博多港)に到着したのは3月25日のことで、斉明天皇が朝倉宮(現在の福岡県朝倉市)に布陣したのは5月9日。周辺の神社を壊し、その材木を使って急ピッチで宮殿を建てはじめるのですが、そのやさかの7月24日、斉明天皇は突然ご崩御なさいます(もしかして暗殺か?)。

この年譜の中に、伊予の国の朝倉の地名も、そこに3ヶ月間もの長きに渡り滞在したという記録もいっさい残ってはいません。しかし、斉明天皇と所縁の深い“朝倉”という地名。その朝倉に今も残る“斉明”という集落(字)名。発掘調査もされないまま葬り去られたらしい古墳群や遺構群。そしてなによりも斉明天皇の墓に付けられた“越智”という驚くべき文字…。これらを総合的に考えると、絶対にこの地には隠された何かの謎があるような気がしてなりません。

もしかしたら、斉明天皇はその朝鮮出兵の以前に、この伊予の国の朝倉の地を訪れたのかもしれませんが、ネットでいろいろと調べた限りではそうした記録はいっさい見つかりません。

ここで、『九州遷都』ではなくて、『四国遷都』ってこれまで誰も言わなかった(知らなかった)一大計画があった。そのための調査に訪れた候補地の1つが現在の愛媛県今治市朝倉???…という仮説を置いてそれ以前の歴史を眺めてみると、面白いことがあります。

記録に残る限り、斉明天皇が飛鳥・大和の地を離れたのは、斉明天皇4年(658年)10月15日より翌年1月3日にかけて紀温湯(きのいでゆ:和歌山県南紀白浜温泉)に湯治に行ったことくらいなのですが、果たしてそうだったのでしょうか。

実は斉明天皇が即位した斉明天皇元年(655年)に御所である飛鳥板蓋宮が火災に遭い焼失。仮御所である飛鳥川原宮に遷幸しました。翌656年に飛鳥の岡本の地に新たな宮殿を造り、そこに遷幸し、後飛鳥岡本宮と名付けるのですが、その後飛鳥岡本宮が完成直後に再び火災に遭って焼失(おそらく雷が原因でしょう)。そこで、斉明天皇は飛鳥の地を諦め、新たに吉野の地に吉野宮を建造します。

そうしたドタバタの一時期、斉明天皇が新しい宮殿が完成するまでの間かもしれませんが、(落雷による火災が相次ぎ)呪われたような近畿の地を離れて、四国は伊予朝倉の地に移り住んでおられたとしてもおかしくはありません。もしそれが事実であったとすると、一時期ではあっても『四国遷都』というものがあったということです。そして、その時に都が置かれていた場所が伊予の国の朝倉。今の愛媛県今治市朝倉、私の本籍のあるところというのが、私のさらなる仮説です。ドンドン妄想が広がります。

まぁ、1300年も前のことなんて現代人は誰も実際に見たことがないわけで、なにが真実かは誰も分からないということです。今、こうだと言われている(思われている)歴史にしても、教科書に書かれている歴史にしても、どれも現代まで残されている数少ない“断片的な事実”から後世の学者先生や小説家達が勝手に“妄想”して「こうだ!」と主張してきたもの。正しくは「たぶん、こうだったのではないか…」という“仮説”の1つに過ぎないわけです。同じ“断片的な事実”から、これまでとはまったく違った見方をして、独自の仮説を立ててみたとしても、なにもおかしくはありません。これまでとは違った一面が発見されるかもしれないわけで、それで歴史研究が進むというものです。私は理系の工学部電子工学科出身でITエンジニアあがりですが、そういう人間なりの歴史の見方(論理的なものの見方)ってものもありますから。

このあたり、『日本史の謎は「地形」で解ける』の著者、竹村公太郎さんの影響を大きく受けています。竹村さんも工学部出身で、国土交通省の河川局長まで務められた土木エンジニアです。あの『日本史の謎は「地形」で解ける』は土木エンジニアの視点で日本の歴史を改めて眺め直してみたもので、そうすることにより、これまで一般に言われている歴史とはまったく違った歴史の一面が見えてきます。ホント、目から鱗が剥がれ落ちました。

田家康さんの書かれた『気候で読み解く日本の歴史』にも大いに刺激を受けました。田家さんは大学は理系の学部出身の方ではなく、直接的なお仕事も理系の仕事ではありませんが、なんと言っても気象予報士で気象の専門家。なので、著書も気象、気候の側面(すなわち、理系の側面)から日本の歴史を眺め直してみたものになっています。

どちらも極めて論理的で、私には大いに納得のいくものでした。社会の最底辺のインフラである“地形”と“気象(気候)”。それにその土地に埋蔵されている“資源(エネルギー)”、さらには気候に大きく左右されますが“食糧”。これら自然環境と呼ばれるものは人々の気持ちや社会情勢に極めて大きな影響を与えるものであり、暴動や革命、戦争…等、様々な社会的な出来事を引き起こす重要な要因となると思います。なので、その方面の視点から眺めてみて分析するほうが論理的で、腑に落ちる部分が多く、もっともらしいと思っています。

(これまで歴史研究と言うと、あくまでも文系の学者先生や小説家が研究してきたものがほとんどなので、こういう理系の論理的な視点が抜け落ちていたように思います。だから、申し訳ないけど、どうしても分析が表面的と言うか情緒的になりすぎていて、イマイチ納得感が得られなかったようなところがあると、私は思っています。歴史の研究とはその時代その時代の社会そのものの分析と解明です。文系でもなく理系でもない、総合的な学問として捉えないと解明はできない…と私は思っています。)

なので、私もこのお二方に倣って、あくまでも理系の、それもITエンジニアの視点で、歴史を眺めてみたいと思っています。論理的という意味ではITエンジニアは一番ですから。論理がしっかりしていないと、コンピュータは思ったように動かず、まったく仕事になりませんのでね(^^)d

ついにこれまで誰も言ってこなかった仮説、『四国遷都説』にまで行き着いてしまいました。ほんとメチャメチャ面白くなってきました(^^)d

で、この仮説をもとに実際にいろいろと調べてみると、もっと面白いことが分かってくるような気がしています。で、この仮説の検証過程において、これまでの常識を根底から覆すようななにか大きな発見でもしたら、博士論文の1つでも書けそうですね。この仮説を立証するためにフィールドワークの時間が早く欲しい( ̄^ ̄)

地元愛媛の大学の先生か学生さんで、この私の仮説にご興味を持たれた方がいらっしゃったら、是非ご一緒に研究をしたいものです(^.^)

まぁ~、仮説自体が現在の学会の常識とは異なるものなので、その論文が認められて博士号をいただける可能性は極めて低いとは思いますけどね(^^;


【追記】
『空海はすごい!(越智の大胆仮説編)』で書かせていただいた仮説の発端になった天然由来の水銀が検出されたことも含め、私の本籍地、愛媛県今治市朝倉には間違いなくなにかがあります。“長く歴史の陰に隠されてきたなにか”…が(^^)d

俄然面白くなってきました。もともとは田家康さんの書かれた『気候で読み解く日本の歴史』を読んで、古気象学に興味を持ったのが発端だったのですが、それを勉強するうちに、いろいろと横道にそれて、こんなことまで思いつくようになってしまいました。

歴史を研究するのって楽しいですね。高校時代、あれだけ歴史が苦手な科目だったのに…。