2014/10/29

新潟県中越地震から10年(その1)

今から10年前の2004年(平成16年)10月23日17時56分、新潟県中越地方を震源としてマグニチュード6.8、震源の深さ13kmの直下型の地震が発生しました。『新潟県中越地震』です。

この地震では、山間部でおよそ3,800ヶ所に及ぶ大規模な土砂災害が相次ぎ、高齢者や子供を中心に68人(うち家屋の倒壊や土砂崩れによる直接死が16人)の尊い命が失われたほか、重軽傷者は約4,800人、住宅の全壊3,175棟、半壊13,810棟、一部損壊105,682棟…と、住宅の被害は12万棟余りに上りました。

また、山崩れや土砂崩れなどで鉄道と道路は至る所で分断されました。この年、2004年(平成16年)は、7月13日に新潟県地方で大雨による大規模な水害が起こり(平成16年7月新潟・福島豪雨)、また夏から秋にかけて台風が過去最多の10個も上陸するという例年にない多雨に見舞われた年でもありました。もともと地滑りの発生しやすい地形であったところに、7月の豪雨と度重なる台風の襲来による降雨によって地盤が相当緩んでいて、それにより地震が発生した際におよそ3,800ヶ所という途方もなく多くの土砂崩れを引き起こしたと考えられています。

地震発生当時、新潟県を流れる日本を代表する大河、信濃川は幸いにも水位が低かったために被害は発生しませんでしたが、もし信濃川の堤防が決壊でもしていたら、それこそ新潟県全県が壊滅的な大惨事に見舞われるところでした。

電気・ガス・水道・電話・携帯電話・インターネット等のライフラインが各地で寸断されたほか、新潟県への電話が集中したため、交換機が輻輳し、発信規制がかけられました。山間部へ続く通信ケーブルや、その迂回路も寸断され、被害状況の把握に大きく手間取ったほか、外部からの情報にも孤立する自治体が幾つも出ました。特に阪神・淡路大震災以降、災害に強いと思われてきた携帯電話も、震源地周辺では中継局の設備の損壊や停電などが相次ぎ、広い範囲で長時間通話不能となりました。

鉄道は、上越新幹線で走行中の東京発新潟行き「とき325号」が震源にほど近い浦佐駅~長岡駅間で脱線しました。幸い1人の犠牲者も出さずに済んだものの、国内の新幹線の営業運転中の脱線事故は1964年の東海道新幹線の開業以来初めてのことでした。地震発生当時、「とき325号」は長岡駅への停車のため徐々に減速を開始したところでしたが、早期地震検知警報システム「ユレダス」による非常ブレーキが作動し、緊急減速。10両編成のうち8両が脱線したものの軌道を大きく逸脱することはなく、約1.6km滑走し、長岡駅の東京寄り約5kmの地点でなんとか停車し、大惨事を免れました。①脱線した車輪が上下線の間にある豪雪地帯特有の排雪溝にうまくはまり込んだまま滑走したことで、横転や転覆、高架橋からの転落を免れたこと、また、②脱線地点がトンネルや高架橋の支柱などに被害が生じた区間ではなく、ほぼ直線の区間であったこと、③対向列車がなく二次事故が起きなかったこと、④脱線現場付近の高架橋は阪神・淡路大震災での教訓を活かして支柱の強化工事が進められていたために地震による崩壊を免れていたこと…などの幸運が重なり、乗客乗員155人に対し、死者・負傷者を1人も出さずに済みました。

上越線・信越本線・飯山線・只見線・越後線といった在来線も路盤の崩壊や橋脚の損壊など、甚大な被害を受け、地震発生後、長い期間にわたる運休を余儀なくされました。影響は震源地周辺だけではなく、長野新幹線や首都圏の私鉄や地下鉄にも及び、運転を見合わせたり、遅れが発生したりしました。また、首都圏のJR各路線で使用する電力の約半分は被災地周辺の水力発電所で賄われており、小千谷市から川西町に跨がるところにあるJR東日本所有の信濃川発電所(44万9,000kw)に大きな被害が発生したため発電不能となり、急遽、他の発電所の発電量を増やしたり、東京電力から電気を購入するなどの対応が必要になりました。

道路も、北陸自動車道や関越自動車道などの高速道路や、国道17号線や国道8号線などの多くの一般国道、県道や生活道路までも亀裂や陥没、土砂崩れ・崖崩れ等によって至るところで寸断されました。このため山間部の集落の一部は全ての通信・輸送手段を失って孤立。とりわけ古志郡山古志村(現長岡市山古志地区)は村域に通じる全ての道路が寸断されたため、ほぼ全村民が村内に取り残され、自衛隊のヘリコプターにより隣接する長岡市や小千谷市等へ緊急避難させる作業が行われました。また山古志村や小千谷市では、数ヶ所で発生した土砂崩れによって河川の閉塞が発生し、複数の集落で大規模な浸水の被害が出ました。

被災地周辺の産業も大きな影響を受けました。被災地周辺の基幹産業は農業、それも、全国的に有名なコシヒカリの生産地なのですが、川口町や小千谷市では地震の影響で水田が液状化したり、棚田が崩壊するなどの大きな被害を受けました。これにより、翌年の米の収穫に大きな影響が出ました。

この『新潟県中越地震』で今も鮮明に思い出されるのが、土砂崩れに巻き込まれた乗用車の中からの当時2歳の男の子の救出劇です。この救出劇は長岡市妙見町で、発生から4日後の10月27日にありました。土砂崩れに巻き込まれた家族3人が乗った乗用車の中から、当時2歳の男の子の生存が確認され、その奇跡の救出劇がテレビで生中継されました。直下型の巨大地震の凄まじさと、それがもたらした被害の大きさに全ての人が茫然とせざるを得なかった中にあって、この救出劇は将来に希望を感じさせる明るい話題でした。

10年前のことですので、既に私は当社ハレックスの代表取締役社長(当時は非常勤)に就任していました。就任後、最初に経験した大きな自然災害が『平成16年7月新潟・福島豪雨』と、この『新潟県中越地震』でしたので、よく覚えています。

現在、弊社ハレックスの相談役を務めていただいている元気象庁長官の山本孝二さん(当時は弊社取締役会長)が、コメンテイターとしてその救出劇を生中継しているテレビ朝日様の報道番組に出演していて、素晴らしいコメントを連発しておられました。身近な方だけに、その山本相談役のコメントを通して私達の仕事の意味のようなものを、私も再確認したことが、つい昨日のことのように思い出されます。

あの時、救出された男の子も現在12歳。新聞で現在の様子が載っていましたが、柔道部に所属する中学生になっていました。『新潟県中越地震』でお母さんとお姉さんを亡くし、今は稲作農家の祖父母と3人で暮らしているようですが、立派に大きくなっている様子を見て、私もホッと安心しました。「将来は、人の命を救う仕事に就きたい」と言っているようです。素晴らしい!


その『新潟県中越地震』から10年、震源地にほど近い新潟県長岡市で、日本災害情報学会の第16回大会が10月23日(木)~26日(日)に開催されましたので、私も参加してきました(弊社ハレックスは日本災害情報学会の賛助会員です)。



災害情報学会立て看板

今年の日本災害情報学会の学会大会は、今年が2004年の『新潟県中越地震』から10年、また来年1月には『阪神・淡路大震災』の発生から20年と言う節目の年を迎えるということから、初めて日本災害復興学会との共同開催となりました。両学会の目的と言うか目指しているところは微妙に異なるのですが、自然災害と正面から向き合うという点では共通しており、うまく化学反応を起こして、これまでの研究の深化に加えて、新たな研究課題の展開等も期待できる、大変に意義のある共同開催ではないかと思っています。(時間軸で言うと、平時から発災直前・直後のフェーズまでが日本災害情報学会、災害からの復興フェーズが日本災害復興学会ということにでもなるのでしょうか…)

私はせっかくだから、この際、“被災地の今”を少しでも見ておこうと思い、今回、上越新幹線を途中の越後湯沢駅で降りて、そこで在来線のJR上越線の普通電車に乗り換えて長岡に入りました。在来線の場合、高架線を高速で駆け抜ける新幹線と違い、地形を忠実になぞりながら、“生活者目線”で人々が暮らす街と街とをトコトコ繋いで走るので、乗っているだけでいろいろと見えてくるものもありますから (特に、上越新幹線の高崎駅~長岡駅の間はトンネルの区間が長くて、車窓の景色をゆっくりと楽しめるようなところがほとんどありません。まるで地下鉄のような区間ですからね)。

また、長岡で日本災害情報学会に出席する以上、『新潟県中越地震』の被災地の話題は必ず出てきますので、地名や風景を含め、事前にそのあたりの土地勘をある程度掴んでおくことは重要なことですからね。

と言っても、越後湯沢~長岡間は普通電車でもほんの1時間ちょっとの距離です(新幹線だと25分前後)。国境の長いトンネルを抜けると、山の木々はすっかり色づいていました(^^)d 左右の車窓にはコメどころ中越平野の豊かな田園風景が広がっていましたが、どの田圃も既に稲刈りが終わっていました。冬になると、一面真っ白の銀世界になるのでしょうね。


上越新幹線

上越線
車窓1

車窓2
車窓1





降り立ったJR長岡駅前はすっかり震災からの復興が成って、すっかり近代的な街に変わっていて、10年前の『新潟県中越地震』の傷跡のようなものはどこにも見受けられません。まだまだ人々の心の中に、また市内各所に震災の傷跡は残っているのだとは思いますが、表面上は元城下町らしく華やかな中にも落ち着いた雰囲気が漂うこの地方の中核都市にしか見えません。

私はこの10年の間にも、特に娘の“脱ペーパー特訓ドライブ”に付き合って何度か長岡には来たことがあるのですが(日本海の海産物や越後平野のコメや野菜の買い出しも兼ねて…)、今回は『新潟県中越地震』から10年という節目の年に当地で開催される日本災害情報学会に出席するということで、意識して見たところもあり、この長岡駅前の風景もこれまでとは少し違った見え方で見えました。



長岡駅前

新潟県長岡市は長岡地方中核都市圏を形成する、新潟県中越地方の中心都市です。都市圏人口は約30万人。平成の大合併の結果、周辺4市町村を編入合併し、かつての古志郡、三島郡の大部分を占めるほか、蒲原郡、魚沼郡、刈羽郡にも跨る広大な市域を持つ都市となっています(『新潟県中越地震』からの復興は、この平成の大合併の過程の中で行われたという大きな特徴を持ちます)。旧長岡市は、江戸時代には長岡藩の城下町として栄えました。戊辰戦争と第二次世界大戦(長岡空襲)の二度にわたって市街は壊滅的な被害を受けたのですが、旧長岡藩から続く“不撓不屈の精神”により復興を遂げ、現在に至っています。それに因み、市の紋章は不死鳥をイメージして、「長」の文字を図案化したものになっているのだそうです。『新潟県中越地震』でも、その“不撓不屈の精神”で見事に復興を遂げつつあると言えるのではないかと思っています。

執筆者

株式会社ハレックス前代表取締役社長 越智正昭

株式会社ハレックス
前代表取締役社長

越智正昭

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