2014/12/22

世界の年間平均気温観測史上最高の可能性

先日、次のような報道記事が出ていました。


『世界の年間平均気温 観測史上最高の可能性』

南米のペルーで開かれている地球温暖化対策を話し合う国連の会議、COP20(気候変動枠組み条約 第20回締結国会議)にあわせて、WMO(世界気象機関)は、今年の世界の年間平均気温が観測史上、最も高くなる可能性が高いとする分析結果を発表し、今回の会議で議論を進展させる必要があるとの認識を示しました。

温暖化対策の新たな枠組みを巡ってペルーの首都、リマで開かれているCOP20の会場で12月3日、WMOが会見を開きました。

この中でWMOは、今年1月から10月までの世界の平均気温は1990年までの30年間の年間平均気温を0.57℃上回っているとしたうえで、今年の年間平均気温は1850年に観測を始めて以来、最も高くなる可能性が高いと指摘しました。

WMOは海面水温の平均が過去最高を記録したことが主な要因だとしていて、温暖化が各地で豪雨や洪水などの災害を引き起こし、人々の生活を脅かしていると警鐘を鳴らしています。

会見でWMOのレンゴアサ事務局次長は「分析結果は温暖化の事態が深刻なことを各国の交渉官に伝えるうえで非常に重要な情報だ」と述べ、各国は今回のCOP20で議論を進展させる必要があるとの認識を示しました。

平均気温や海面水温が高かったことを巡っては、今年、日本各地で相次いだ豪雨災害や台風の急速な発達に影響を及ぼしたという専門家の指摘もあります。
(NHKニュース&スポーツ 12/04 04:19)



確かに世界の年間平均気温は緩やかに上昇を続けています。観測史上最高かもしれません。ただ、ここで気を付けて読まなければならないのは、これはあくまでも1850年に観測を始めて以来最高という意味に過ぎず、それ以前のことについてはいっさい触れられていないということです(^^)d

日本に『三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)』という今から5000年ほど前の縄文時代前期中頃から中期にかけての大規模集落跡の遺跡があります。この『三内丸山遺跡』がどこにあるか、皆さん、御存知ですか? ……… なんとなんと、東北は津軽地方の青森県青森市大字三内字丸山にあります。

三内丸山遺跡公式HP

八甲田山から北に続く緩やかな丘陵の先端付近、沖館川右岸の河岸段丘上に位置し、標高は約20メートル。集落の遺跡は約40ヘクタールの広大な範囲に広がっていて、住居、墓、ゴミ捨て場、貯蔵穴、道路などが計画的に配置された大規模な集落の跡であったことが判っています。

この地に古代人の遺跡が存在することは江戸時代から既に知られていて、多量の土偶が出土したりしていたわけですが、本格的な調査が行われたのは1992年から。新しい県営野球場を建設する事前調査として行われたものですが、その結果、この遺跡が大規模な集落跡とみられることが分かり、さらに1994年には直径約1メートルもの太さの栗の木でできた柱が6本も検出されて、ここにそれまでの定説を超えた大型建物まで建てられていたことが判明し、日本中が大騒ぎになりました。このため青森県では既に着工していた県営野球場の建設を即時中止し、遺跡の保存を決定したのです。その後、2000年に国の特別史跡に指定されています。

調査の結果、この遺跡には、通常の縄文時代や弥生時代の遺跡でも見られる竪穴式住居や高床式倉庫のほかに、10棟以上の大型竪穴住居を含む総計約780軒にもおよぶ住居跡があることが判明しました。さらには、出土した太い栗の柱からの推測により、祭祀用に使われたと思われる大規模な掘立柱式の建物が存在したと想定されています。(現在、現地には3層の大きな掘立柱建物が再現され、遺跡のシンボルとなっています。)

また、出土される土偶の数が他の遺跡に比べて多く、しかもその土偶が板のように薄く造られていて(板状土偶)、他の遺跡で出土される縄文時代後期や晩期の立体的に体の各部を表現した土偶とは大きく異なる形状なのも特徴です。

ちなみに、縄文時代に作られた土偶として有名な遮光器土偶。東京の国立博物館に所蔵されていて、一般に「土偶」といえばこの型のものが連想されるほど有名な形の土偶ですが、この遮光器土偶が出土したのも、三内丸山遺跡に程近い青森県つがる市木造亀ヶ岡にある亀ヶ岡遺跡です。

北海道・北東北の縄文遺跡群HP
亀ヶ岡石器時代遺跡公式HP

遺跡から出土した栗をDNA鑑定したところ、それが栽培されていたものであることなども分かり、多数の堅果類(栗・クルミ・トチなど)の殻、さらには一年草のエゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、豆などといった栽培植物の痕跡も出土しています。

これから推察するに、今から5000年ほど前の縄文時代に青森県の三内丸山の周辺に住んでいた人達は、自然の恵みのみに依存した採取活動ではなく、集落の周辺に堅果類の樹木を多数植栽しており、一年草を栽培していたと考えられているわけです。

暖房に必要な石炭や石油といった化石燃料がまだ発見されていない5000年前の縄文時代に、冬は一面の雪に閉ざされる青森県の津軽地方に大規模集落があり、そこで農耕を行うといった都市文明が栄えていたということです。これって驚くべき事実だと思いませんか?

で、これはいったい何を意味しているのかと言うと、5000年前のあのあたりは今よりもずっと気温が高かったということです(^^)d

別の調査によると、5000年前は地球規模で今よりも年平均気温が5℃ほど高かったと推測されています。そうなんですよね、確かに世界の年間平均気温は緩やかに上昇を続けていて、観測史上最高を観測したのかもしれませんが、もっと昔はもっと気温が高かったということです(^^)d

すなわち、現在は亜寒帯に属する青森県から北海道にかけての北日本が人類が住むには極めて適温の温帯の気候帯で、それより南は亜熱帯から熱帯。もしかしたら日本列島も関東地方から以南は一面の熱帯のジャングルだったかもしれないということです。

この事実を知った上で上記の記事を読むと、これまでとはまったく違った解釈が出来ると思いませんか?

これは以前にも書きましたが、近年、“異常気象”という言葉をマスコミ等で多く耳にします。私はそもそも“異常気象”という言葉自体、おかしいのではないか…と、常々思っています。“異常”の定義をどう設定するかにかかってくるとは思いますが、そもそも“気象は異常なもの”なのです。“異常”の定義を“これまでの自分達の経験からでは予想しがたいもの”とするならば、人間1人1人の人生なんて長くて100年。また、今に残っている正確な気象の観測データに関しても、日本ですら最近の130年ほどのデータに過ぎません。100年なんて何十億年という地球の歴史からするとほんの一瞬のことです。しかも、我々人間社会を取り囲む自然の様々なメカニズムには、まだまだ人類がいくら叡智を集めても解明できていないことがたくさんたくさん残っています。なので、気象はそもそもが人間の想像の域を遥かに超えた“異常”なものですから。


【参考】
縄文時代は年代でいうと(旧石器時代が終わりを告げた)今から約1万6,500年前(紀元前145世紀)から約3,000年前(紀元前10世紀)にかけて日本列島で発展した時代のことで、一口に縄文時代といっても1万年以上という非常に長い長い期間のことを指します(なので、縄文時代のことを奈良時代や平安時代などと同じように捉えることはナンセンスと言えます)。このため、縄文時代は、土器の型式上の区分(縄文土器編年区分)から、「草創期」・「早期」・「前期」・「中期」・「後期」・「晩期」の6期に分けられます。

このように1万年以上という長い期間だったということで、その間、大規模な気候変動を何度も何度も経験しているようです。また今もそうですが、日本列島は南北に極めて長く、地形も変化に富んでいて、現在と同じように縄文時代においても気候や植生の地域差は大きかったと考えられています。結果として、縄文時代の文化形式は歴史的にも地域的にも一様ではなく、多様な形式を持つものとなっています。

今から約2万年前に最終氷河期が終わって旧石器時代が終わりを告げてから6,000年前頃までは、地球の気温は徐々に温暖化していった時期でした。この間に日本列島は100メートル以上もの海面上昇を経験したと言われています。縄文土器編年区分においてはこれは縄文草創期から縄文前期に相当します(1万3,000年前~6,000年前)。また、約6,000年前には海面が現在より4~5メートルも高く、これは“縄文海進”と呼ばれています。(海面が今より4~5メートルも高いということは、現在は広大な関東平野も低地の部分はすべて海面下にあったというわけです。)

縄文草創期当時の日本列島の植生は冷涼で乾燥した草原が中心でしたが、落葉樹の森林も一部で出現していました。また地学的に見ても、北海道と樺太は繋がっていて、津軽海峡は冬には結氷して北海道と現在の本州が繋がっていました。この頃、瀬戸内海はまだ存在しておらず、本州、四国、九州、種子島、屋久島、対馬は一つの大きな島となっていたと考えられています。この大きな島と朝鮮半島の間は幅15km程度の水路で隔たれているだけでした。

その後、太陽活動が強くなり、気候が温暖化したことで前述のように海面が100メートル以上も上昇しました。その結果、先に述べた対馬と朝鮮半島との間の水路の幅が広がって朝鮮海峡となり、温かい対馬暖流が日本海に流れ込むこととなりました。これにより日本列島の日本海側に豪雪地帯が出現し、その豊富な雪解け水によって日本海側にはブナなどの森林が形成されるようになったと考えられています。

縄文早期には定住集落が登場したほか、本格的な漁業が開始され、関東における外洋航行の開始など新たな文化要素が付け加わりました。最も古い定住集落が発見されているのが九州南部の上野原遺跡や金峰町の遺跡で、およそ1万1,000年前に季節的な定住が始まり、1万年ほど前には通年における定住も開始されていたと推測されています。

この時期の土器は北東アジア系、華北・華中系、華南系の3系統に分けられており、分布面から見ると北東アジア系は北海道から東日本に、華北・華中系は西日本、華南系は南日本から出土しています。植生面から見ると、縄文早期前半は照葉樹林帯は九州や四国の沿岸部および関東以西の太平洋沿岸部に限られており、それ以外の地域では落葉樹が優勢であったと考えられています。

縄文時代の前期から中期にかけての期間は最も典型的な“縄文文化”が栄えた時期であり、現在は「三内丸山遺跡」と呼ばれる場所に起居していた縄文人達が保持していたのも、主にこの時期の文化形式であると考えられています。この時期には日本列島に大きく分けて9つの文化圏が成立していたと考えられています。前述のように、海水面は縄文前期の中頃には現在より4~5メートルほど高く、気候も現在より年平均気温で5℃以上も温暖でした。この時期のいわゆる“縄文海進”によって沿岸部には好漁場が増え、海産物の入手が容易だったと考えられています。植生面では関ヶ原より西の西日本一帯は概ね照葉樹林帯でした。

縄文時代の後期に入ると気候は再び寒冷化に向かい、“弥生海退”と呼ばれる海水面の低下が起きることになります。関東地方では従来の貝類の好漁場であった干潟が一気に縮小し、貝塚も消えていくこととなりました(縄文時代全体が温暖であったと思われていますがこれは間違いで、現在より寒い時期もあったわけです。なんと言っても縄文時代は1万年という非常に長い期間ですから)。

一方、西日本や東北地方では新たに低湿地が増加したため、低湿地に適した文化形式が発達していきました。中部地方や関東地方では主に取れる堅果類がクリからトチノキに急激に変化し、その他にも、青森県の亀ヶ岡石器時代遺跡では花粉の分析により、トチノキからソバへと栽培の中心が変化したことが明らかになっています。その結果、食料生産も低下し、縄文人の人口は停滞あるいは減少に転じるわけです。

縄文前期から中期にかけて9つあった文化圏は大きく4つに集約され、この4つの文化圏の枠組みは弥生時代にも引き継がれ、「東日本」・「西日本」・「九州」・「沖縄」という現代に至る日本文化の地域的枠組みの根底をなしているとも言われています。

このように、気候変動のことを考える上において、縄文時代を研究することは大きな意味を持つと考えています。

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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越智正昭

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