2015/03/04

♪上野発の夜行列車…が絶滅(その2)

で、今回定期運行が取り止めになる上野~札幌間の夜行寝台特急列車「北斗星」ですが、私は一度もその「北斗星」に乗車したことがありません。と言うか、東北方面のブルートレインには一度も乗車したことはありません。私にとってのブルートレインは、もっぱら東海道本線や山陽本線を走行するブルートレインでした。

若い頃に東北地方を旅行した時に乗車しようとしたのですが、当時は「はくつる」や「あけぼの」といったブルートレインは人気の列車だったのでなかなか指定券が購入できず、仕方ないので(料金も安かったですし)夜行急行「八甲田」(上野~青森間)や急行「十和田」(同じく上野~青森間)の寝台車や座席車を使ったように記憶しています。この夜行急行「八甲田」は常磐線経由で、急行「十和田」は東北本線直通の列車でした。当時はこのほかに奥羽本線経由の急行「津軽」といった夜行列車が幾つかありました。寝台車両だけでなく、座席車両も連結されていて、若者の列車旅は迷わずこっちって感じでした。

まぁ~、私にとって東北に向かう夜行列車と言えば、イメージ的には特急列車ブルートレインより、淡い赤色をした電気機関車に牽引された客車の夜行急行列車でしたからね。演歌の聴きすぎかもしれませんが…(^^; 実際、当時の急行「八甲田」や「十和田」といった夜行急行列車には出稼ぎ帰りと思われる大きな荷物を携えた親爺さん達が何人も乗っていて、決まってチクワやスルメをツマミにワンカップの日本酒をチビチビ飲んでいらっしゃいました。故郷で待っておられるご家族に思いを馳せていらっしゃるのでしょう。そうした親爺さん達は、たいてい優しそうな顔をなさっていました。まさにそこは私のイメージ通りの世界でした。

ただ、私は埼玉県さいたま市在住のため、朝夕の通勤途中の赤羽駅で、ピィ~ッという警笛を響かせて通過する東北本線(宇都宮線)を走行する「北斗星」や「あけぼの」といったブルートレインと遭遇する機会が時々あったので、馴染みがあります。特に、冬季の朝方に遭遇する上りの列車は、屋根に白い雪を載せ、青い客車の車体にも白い雪がこびりついて走ってくることもあり(そういう時の先頭の電気機関車の前面は真っ白です)、いやがうえにも旅情を掻き立てられました。

ブルートレイン「北斗星」が定期運行を終了するということは、そうした光景ももう見えなくなるんですね。馴染みの列車がなくなってしまうというのは、なんだかんだ言っても寂しいことですね。


【追記1】
表題の「♪上野発の夜行列車…」は、皆さんご存知のように石川さゆりさんの歌った演歌の名曲『津軽海峡・冬景色』の出だしの歌詞です。作詞は阿久悠さん、作曲・編曲は三木たかしさんという当時のヒットメーカーの御二人。発売は1977年(昭和52年)のことでした。発売から40年近くという長い時間が経っているというのに、まったく色褪せた感じをさせないところが、名曲と呼ばれる所以(ゆえん)です。歌の中に描かれている時代背景はまったく違ってきているというのに…。

今は東京と北海道との間の交通手段は飛行機利用が圧倒的なのですが、この楽曲が作られた1977年(昭和52年)当時は、鉄道・連絡船の乗り継ぎと飛行機利用がほぼ拮抗していたのではないか…と思っています。しかしながら1973年、一度に500人以上の乗客を乗せて運ぶことができる国内線仕様のボーイング747SR型機がJALに初めて導入され、同型機がANAにも1979年に導入されるとこの様相は急激に変わり始め、この曲がヒットした1977年頃くらいから飛行機利用への転移が顕著になってきます。

JAL、ANA共にボーイング747SR型機の導入が徐々に進み、東京~札幌間の飛行機の座席供給量が増えてくると、完全に勝負がついてしまいます。その象徴とも言える楽曲が世に出てきます。今でもカラオケで中年のオジサン・オバサンが好んで歌うデュエット・ソングの定番『北空港』がそれです。

札幌の夜を舞台に、北の空港(札幌千歳空港)から旅立つ男女の恋を歌ったこの楽曲ですが、この楽曲が作曲家・浜圭介さんと桂銀淑さんの師弟コンビによるデュエット曲として発売されたのは、ちょうど国鉄が分割民営化されてJRとなった1987年のことでした。その翌年の1988年に青函トンネルが開通し、青函連絡船が廃止になりました。『津軽海峡・冬景色』の大ヒットからちょうど10年。『北空港』は、北海道への人の移動の主体が鉄道と連絡船利用から飛行機利用へと完全にシフトしたことを象徴するような楽曲でした。今、こうやって振り返ってみると、『津軽海峡・冬景色』と『北空港』は、なぁ~んか、時代を象徴しているような2つの楽曲ですよね。

で、『津軽海峡・冬景色』ですが、冬の津軽海峡の荒れた海の波頭を連想させるジャジャジャジャーン♪の繰り返しでいきなり始まる印象的なイントロを含む三木たかしさんの書いた曲、伸びのある石川さゆりさんの歌唱ともに素晴らしかったのですが(彼女は私より3つ年下ですから、この楽曲の発売当時はまだ19歳の少女でした。19歳でこの楽曲を歌うとは、今思うと凄すぎます(@_@))、阿久悠さんが書いた歌詞がとにかく素晴らしかったと思っています。一編のドラマとして、映像が目に浮かぶような詞でした。それらが見事に合体しているわけで、どこにも非の打ち所のない完璧すぎるくらいに完璧な楽曲に仕上がったように、私は思っています。これが40年近く経った今も色褪せずに歌い継がれる所以(ゆえん)なのではないか…と、私は思います。

歌詞は東京の上野駅から夜行列車に乗って終着駅の青森までやって来て、雪の降りしきる青森駅で降り、ボーディング・ブリッジを渡って北海道・函館に向かう青函連絡船へと乗り継いで行くという描写で始まり、函館への到着までは描写せず、船上(すなわち、津軽海峡の上)で女性の心情を吐露させるところで終わります。前述のように、阿久悠さんがこの楽曲を作詞した当時、東京から青森への特急や急行列車は青函連絡船への接続を前提にダイヤが組まれていて、東北本線経由の夜行寝台特急「はくつる」や常磐線経由の同じく夜行寝台特急「ゆうづる」などの夜行列車が多数運転されていました。

中でも「♪上野発の夜行列車 降りた時から 青森駅は雪の中♪」という出だしの歌詞だけで、東京(上野)から青森まで一気に移動させてしまう(さりとて、非常に分かりやすい)というのが凄すぎます。いっさい余計な説明を省いて、この歌の主人公を約600kmも一気に移動させちゃうわけです。乗ってきた列車は私の勝手な想像では、おそらく夜行急行の「十和田」か「八甲田」か「津軽」、それも寝台車両ではなくて座席車。東京からの道中、一睡もせずに、真っ暗な車窓を見つめていろいろと考えていたのではないか…と想像しています。「はくつる」や「ゆうづる」といったブルートレインであったとしても、おそらく寝台には横にならず、通路に備え付けられた簡易椅子に座って、同様に過ぎ行く車窓に映る街の灯りを眺めながら物思いに耽っていたと思われます。こうした背景の部分をバッサリ省略して、いきなり「♪上野発の夜行列車 降りた時から…♪」とはじめ、その出だしの歌詞だけで一発で表現しちゃってるわけで、そのあたりが凄すぎます。さすがは天才作詞家、阿久悠さんです。

この楽曲が発表された1977年といえば、私は大学3年生。フォークソングに夢中になっていた頃です。作詞も幾つか手掛けていたのですが、鉄道マニアだったので、山本コータローとウィークエンドの『岬めぐり』(作詞:山上路夫さん、作曲:山本厚太郎さん)のような“旅もの”を得意(?)として、多少イキがっているような部分もありました。そうした時、この『津軽海峡・冬景色』を聴いたわけです。初めて聴いた時の衝撃はあまりに大きかったですね。不遜にも、「なんじゃこりゃ!(@_@) プロには絶対にかなわない!」…って本気で思っちゃいました。

この文章もそうですが、私のブログの文章を読んでいただくと、私の文章には本筋とは若干かけ離れた余談と言うか説明の部分があまりに多いという致命的な弱点があります。まぁ~これは論理的でないと納得がいかない理系特有の悲しい性(サガ)のようなもので、仕方がないことと、私は思っています。なので、反対にその余談や説明の部分をいかに面白く見せるか(読ませるか)…を私の文章の基本スタイルにしているところがあります(時々依頼される講演のスタイルもこんな感じですね)。こういう背景もあって、私にとってはこの『津軽海峡・冬景色』を作詞した阿久悠さんに強い憧れを抱いてしまうんです。確か、この『津軽海峡・冬景色』を聴いて以来、私は1曲も新たに作詞してはいません。だから今でも私の中では『津軽海峡・冬景色』は日本歌謡曲史上に燦然と輝く名曲中の名曲なんです(^^)d



………(その3)に続きます。

執筆者

株式会社ハレックス前代表取締役社長 越智正昭

株式会社ハレックス
前代表取締役社長

越智正昭

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