2015/06/22

歴史の捉え方(その1)

私は、仕事で私の郷里愛媛県と関係するようになった2年ほど前から、愛媛県出身など愛媛県と縁の深い首都圏在住の企業経営者等で作る『東京・愛媛クラブ』に入会させていただいています。この『東京・愛媛クラブ』では毎月例会が行われていて、昼食を摂りながら毎回愛媛県と縁のあるゲストをお招きしてご講演をしていただくのですが、これまで幾多の方のご講演を聴かせていただいた中で、もっとも印象に残っているのは元NHKのアナウンサーの松平定知さんの講演でした。

私が改めてご紹介するまでもありませんが、松平さんは昭和19年11月生まれの70歳。元NHKの理事待遇アナウンサーで、「新シルクロード」、「マネー資本主義」、「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」等、NHKスペシャルを100本以上担当されているほか、2000年4月に始まった「その時歴史が動いた」は9年間の長寿番組になりました。現在も「世界遺産100」のナレーションを担当されています。元松山藩主・松平(久松)家に繋がるお家柄で、今も本籍地は愛媛県松山市三番町(松山城の真下と言うか真ん前で、愛媛県庁や松山市役所があるあたり)のままなのだそうです。

司会の方からの、

「我々愛媛県人にとっては、本来なら、『皆の者、控えおろう! ここにおわすお方をどなたと心得る!』、  『はっ、はぁ~~っ!m(__)m』…ってな感じで始めないといけないですし、“まつだいら”さんという呼び方にしても、本来なら最初の“ま”に強いアクセントを付けた呼び方でお呼びしないといけないお方なのですが、ここは敢えて一般的にNHKの番組の中でお使いになられている真ん中の“だ”にアクセントを付けた呼び方でお呼びしたいと思います。松平定知さんです(笑)」

という軽妙な笑いを誘うご紹介でご登場された松平定知さん、小柄な方なのですが、めちゃめちゃオーラがありました。今も時折テレビでお見掛けするあのまんまです。

でも、さすが“松平家”です、歴史に学者先生以上に深い造詣をお持ちで、この日の講演のタイトルも『歴史の捉え方』と題したものでした。

1時間ちょうどの講演だったのですが、まるであの9年間も続いた人気番組「その時歴史が動いた」を観ているようで、講演の開始からすぐに話に惹き込まれ、あっという間に終わった感じでした。もちろん、これまでよく耳にしてきたあの語り口調です。無駄なところはいっさいなく、非常に聴きやすい素晴らしい講演でした。

最後に松平さんが腕時計をチラッと見て、「あっ!、10秒残っちゃいましたね(笑)」っていう終わり方でした。さすが多くの経験を積んでこられた大ベテランのアナウンサーさんです。とってもお洒落な終わり方でした。

冒頭、前述のように司会の方から“まつだいら”のネタで紹介を受けたので、導入部分はその“松平家”ネタから入られました。題名を付けるとすると、「なぜ松平家康は“徳川”姓に変えたのか?」

さすがにご自身の家系の話です。お詳しいし、メモなど見ずとも年号や戦国武将の名称がスラスラ出てきます。この「なぜ松平家康は“徳川”姓に変えたのか?」はあまりにも畏れ多くて、松平家の方でしか語れないような内容も含まれていましたが、まさに「その時歴史が動いた」って感じでした。なるほどな…と私は納得しました。

テレビで観るのと同じあの語り口調でスラスラとご説明されましたが、この「なぜ松平家康は“徳川”姓に変えたのか?」については、時代背景や徳川家のルーツ、豊臣秀吉との関係など、書きはじめるとメチャメチャ長く説明しないととても正確に伝わりそうにないので、私からは詳しくは書くのを控えます。

ただ、滅ぼされた小田原の北条家に縁を持つ者が多く残る関東の武士達を束ねていくためには、どうしても「自分は新田義貞に繋がる家柄である」という家柄の正統性をアピールするしかなく、家系図を書き換えた、と言うか“創作”した…というのが真相のようです。

“徳川”とはその新田義貞に繋がる家系の調査の中でちょこって出てきた“得川”なるほとんど無名の小者の武将の苗字を拝借し、そこから9代に渡る壮大な物語を勝手に創作して“徳川”になった…ってことのようです。ほとんど無名の小者の武将というのがミソで、誰でも知ってるような武将なら「いやいや、我こそが正統な◯◯の血筋を引く者」なんてのが出てきて、ややこしいことになるのですが、小者ならそういう面倒もない。なにより、誰も知らないので、「それは違う!」と否定のしようもない(笑)。

腕力と胆力で成り上がった戦国時代の武将の家系図なんて、ほとんどこのようにして自らが都合のいいように作ったもののようです。

しかし、それって、ある目的を果たすために敢えて大変な労力を使ってそうしたわけで、そこからその武将が置かれていた様々な課題を読み解くことができる…とは松平さん。

まさにこれが『歴史の捉え方』なのだな…と、ただそれだけで十分理解ができました。こんな話、教科書には載ってないし、学校の先生は誰も教えてくれません。

でも、確かによくよく考えてみると、「なぜ徳川は“徳川(とくがわ)”なのだろう?」…って疑問が湧きそうな歴史への登場の仕方ではありますよね。

この「なぜ松平家康は“徳川”姓に変えたのか?」の話もそうでしたが、その後、松平さんが講演の中で述べられたのは次の2点でした。

①今、学校で習うような歴史は、あくまでも“勝者”の側から書いた歴史である。

②“結果”から歴史を見ようとすると、捉え方を間違える危険性が高い。

まず、①に関しては次のような例を挙げて、話をされました。松平さんの講演を思い出しながら、私なりにまとめてみます。


①今、学校で習うような歴史は、あくまでも“勝者”の側から書いた歴史。

たった1人の“勝者”の影で、頂点に立って“勝者”になれなかったその10倍、100倍、いや10万倍、100万倍の“敗者”がいたわけで、その“敗者”の側から見た歴史もおもんばかってあげないと、本当のことは何も見えてこない。むしろ“敗者”の歴史の中にこそ真実が隠れていることのほうが多い。

たとえば織田信長。この方は、これまでになかったような新しく斬新なアイデアを打ち出したことから、よく稀代の『クリエイター』のような人物だったと言われていますが、これは大きな間違い。むしろ、感性豊かな『アレンジャー』だったと見たほうが、より事実に辿り着きやすいのではないかと私(松平さん)は思っています。

同じく戦国時代の武将で近江の守護大名だった人で六角定頼という武将がいます。この六角定頼の嫡男の六角義賢(六角承禎と呼ばれることのほうが多い)が織田信長に滅ぼされていますから、織田信長より1世代前の戦国武将と捉えていただければよろしいです。

実は織田信長は見事なまでにこの六角定頼のコピー、真似をやっているんですね。

この六角定頼という武将、当時としては非常に先進的な考え方の持ち主で、主に内政に目覚ましい手腕を発揮しました。日本の文献上では初めてという家臣団を本拠である観音寺城に集めるための「城割」なる制度を作ったのですが、これは後世の「一国一城令」の基になったと言われています。

織田信長が最初に行ったと歴史の教科書では習う「楽市楽座」を創始したのも、実はこの六角定頼。定頼は、経済発展のために楽市令を出して商人を城下に集め、本拠・観音寺を一大商業都市にまで成長させました。信長は後にこの手法を踏襲して、楽市を拡大しただけのことです。

(織田信長は今川義元を真似て楽市楽座を始めたと言われていますが、これはどうも間違いのようで、桶狭間での憐れな最期の名誉回復のための後世の人の創作かもしれません)

ちなみに、六角定頼の居城観音寺城とは今の滋賀県近江八幡市安土町にあります。“安土町”というキーワードで気づかれた方も多いと思いますが、これが事実です(^^)d

織田信長の始めた楽市楽座なんて、観音寺(その後の“安土”)という土地そのものを武力で力ずくで奪っただけのことです。本当に発案して、そして命じて、始めたのは六角定頼です。

また、六角定頼の居城・観音寺城は今の近江八幡市安土町の標高400メートルを越える山の山上に城郭が築かれ、南腹の斜面に曲輪を展開し、家臣や国人領主の屋敷を配するなど、それまでの城にはない先駆的な城の構造、考え方を取り入れていました。総石垣造りで、これは安土城構築以前の中世城郭においては他にほとんど例を見ない特異な点です。

六角定頼の死後、六角家を滅ぼし、同じ今の滋賀県近江八幡市安土町で観音寺城とは別の安土山という山に城を構えたのが織田信長で、ここで造られた城が安土城。総石垣造りで城郭建築の革命のように言われ、その後各地で造られる城郭の手本となった安土城ですが、実は観音寺城の建造方法を極力模倣して、それをより絢爛豪華にしたり、天守の高さを高くしたり…と、グレードアップしたものなんです。

でないと、いくら織田信長という人がスーパーマンのような人だったとしても、あんな短期間であそこまでのことはできません。

そうした織田信長にとって目障りなのが六角定頼という先駆者の存在。人々を驚かす先駆的な取り組みのほとんどが六角定頼のパクり、コピーだったとなれば、織田信長の天下に対する威光に翳りが出てきます。なので、徹底的に六角定頼の存在を消すことをやるわけです。

なので、現代を含め後世の人は、六角定頼という非常に先進的な考え方を持った優れた戦国武将がいたことを知らないわけです。織田信長に歴史書から消されたから。時として可哀想に“極悪非道”の悪役のようにすり替えられてしまったりもします。

要は、“勝者”の側は自分の都合のいいようにいくらでも歴史を書き換えることができる…ってことなんです。

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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