2016/03/25

「放浪記」「東京物語」そして「尾道三部作」

尾道1
尾道2


先週の17日(木)、出張で広島県の尾道市をお邪魔してきました。農業者の方々の団体『中国四国 土を考える会』(事務局:スガノ農機)の総会・研修会にご招待を受けて、農業向け気象情報提供について講演をさせていただいたのですが、私にとっては久々の尾道でした。

私は広島大学の卒業ということもありますが、今から35年ほど前、父の転勤の関係で、3年間ほど帰省先が芸予諸島(広島県と愛媛県の間の瀬戸内海に浮かぶ島々)の1つの伯方島だったことがあり、帰省にあたっては東京から東海道・山陽新幹線で福山まで行き、そこで在来線の山陽本線に乗り換えて尾道、尾道からは(愛媛県の)今治行きの高速艇かフェリーに乗り換えて両親が暮らしていた伯方島へ…というのが帰省ルートでしたので、その乗り換えの時間待ちで尾道の街を何度か散策したことがありましたから。

この日(17日)もよく晴れて、瀬戸内海の景色が眩く見えました。同じ瀬戸内海と言っても、私の生まれ故郷である四国地方(愛媛県・香川県)側から眺める瀬戸内海の景色と、尾道のある中国地方(本州:広島県、岡山県、山口県)側から眺める瀬戸内海の景色はまるで異なります。四国地方側からは背中に太陽の光を受けて北側に海を見ることになりますから“順光”での瀬戸内海の景色となり、中国地方側からは、反対に、南側の太陽の方向を向いて海を見ることになるので“逆光”での瀬戸内海の景色となります。東京都内でも瀬戸内海を写した観光ポスターを時々目にすることがありますが、私はそのポスターを一目見ただけで、その写真が四国地方側から見た瀬戸内海なのか、中国地方側から見た瀬戸内海なのかの区別はつけられます。人それぞれ好みはあろうかと思いますが、私は四国地方側から見た“順光”の瀬戸内海の景色のほうが好きです。

東京から東海道・山陽新幹線を乗り継いで降り立った新尾道駅の駅前には「光る海 輝く島々」という観光案内看板が出ていましたが、この日の尾道はまさにそんな感じで、麗らかな春の陽射しに照らされて、目を細めないと見えないくらいの眩しい光景でした。『中国四国 土を考える会』の総会・研修会会場となった千光寺山荘は尾道市街を真下に見下ろす小高い山の上にありますので、眼下には尾道港と対岸の向島の間を頻繁に往復する小さなフェリーボートの姿が見えました。尾道と向島の間は川かと見間違えてしまうほどの細い海峡(その狭さから尾道水道と呼ばれています)になっていて、そこを小さなフェリーボートが結んでいます。尾道と向島の間は橋でも結ばれているのですが、市内中心部からは少し離れたところに架かっているので、今でも便利な市民の生活の足になっています。

広島県尾道市は広島市と岡山市という2つの政令指定都市のほぼ中間、山陽地方(中国地方の瀬戸内海に面した地域)のほぼ中間に位置する落ち着いた雰囲気の地方都市です。尾道を中心に三原、福山といった広島県東部地域はかつては「備後の国」と呼ばれていました。同じ広島県にあっても、広島市の周辺は「安芸の国」で、また岡山県の岡山市周辺は「備前の国」、この尾道付近の「備後の国」は地理的に「安芸の国」と「備前の国」両地域の「緩衝地帯」のようなところともいえ、また、芸予諸島の島々を辿ると対岸の四国(愛媛県)今治市と結ばれることもあり、“水軍文化”とでも言うべき独自の文化を育んできました。

瀬戸内海に面した港町で、古くから海運(内航海運)による物流の集散地として繁栄しました。明治時代には山陽鉄道(現JR山陽本線)が開通し、鉄道と海運の接点となり広島県東部(備後地方)で最大の人口を有する中心都市となりましたが、平野の少ない地形から発展には限界があり、昭和40年代の初頭には旧城下町で平地に恵まれているため工業都市化で急速に発展した福山市に備後地方の中心都市の座を明け渡しました。

1999年(平成11年)5月、「しまなみ海道(西瀬戸自動車道)」の開通によって四国(愛媛県)の今治市と陸路で結ばれたことで、物流面での利便性が高まり、2015年(平成27年)3月には中国横断自動車道(尾道松江線)が全線開通し、「瀬戸内の十字路」として更なる利便性の向上が見込まれて、新たな発展が期待されています。

尾道3
尾道4


また、尾道は「坂の街」「文学の街」「映画の街」として全国的に有名です。

まず、「坂の街」ですが、この尾道周辺の地域は、地形的に北側の山と南側の海に挟まれているため、平地の部分が極めて少なく、北側に迫る山肌に住宅や寺が密集して建っています。このため道路も狭隘で傾斜するものが多く、「坂の街」と言われる所以となっています。前述のように川かと勘違いするような狭い海峡である「尾道水道」を挟んだ対岸の向島まで市街地は発達しているのですが、それでも都市としての発展には限界があり、近代化が遅れて福山市に備後地方の中心地の座を明け渡したのですが、このような独特の景観と、古い歴史から実に味わい雰囲気が漂う街になっていて、続く「文学の街」「映画の街」に結び付きます。

「文学の街」では林芙美子、志賀直哉といった文壇の巨匠と呼ばれる作家達が居を構え、ここ尾道を舞台とした作品を幾つも発表しました。特に有名な作品が、森光子さん主演で舞台化され、2,000回を超えるロングラン公演でギネスブックにも載った林芙美子の自伝的小説『放浪記』。その『放浪記』に次のような一節があります。

「海が見えた。海が見える。五年振りに見る尾道の海はなつかしい。汽車が尾道の海にさしかかると煤けた小さい町の屋根が提灯のように拡がってくる。赤い千光寺の塔が見える。山は爽やかな若葉だ。緑色の海の向こうにドックの赤い船が帆柱を空に突きさしている。私は涙があふれていた。」(放浪記より)

まさに、この『放浪記』に景色が今も広がっています。この光景が好まれて、幾多の映画やテレビドラマの舞台になったり、撮影のロケーションになったりしています。

一番有名なところでは、巨匠・小津安二郎監督の傑作『東京物語』。1953年(昭和28年)の作品で、主演は笠智衆さんと原節子さん。尾道から子供達を訪ねて上京した年老いた両親とその家族たちの姿を通して、家族の絆、夫婦と子供、老いと死、人間の一生などを冷徹なまでの視線で描いた昭和映画の傑作です。私が生まれる前に作られた作品なので、もちろん私はオンタイムでは観てはいませんが、後年テレビで放映されたものを観ました。また、昭和映画の傑作と書きましたが、その後何度もテレビドラマとしてリメイクされていることからも、その傑作具合がお分かりいただけるかと思います。

私の世代で尾道が舞台となった映画と言えば、大林宣彦監督が発表した3本の映画作品、いわゆる「尾道三部作」ですね。「尾道三部作」とは、大林宣彦監督がご自身の出身地である尾道を舞台に郷愁を込めて発表した『転校生』、『時をかける少女』、『さびしんぼう』という3本の映画作品の総称です。

『転校生』は1982年の公開で、主演は尾美としのりさんと小林聡美さん。ふとしたことで「男性と女性の身体が入れ替わる」という荒唐無稽なストーリーの最初の映画ではないでしょうか。

『時をかける少女』は1983年の公開で、主演は原田知世さん。ふとしたことでテレポーテーションとタイムトラベルを一緒にしたタイムリープという能力を持ってしまった少女の苦悩を描いたこれまた荒唐無稽なストーリーの作品でした。

『さびしんぼう』は、1985年の公開で、主演は富田靖子さんと尾美としのりさん。尾道を舞台に少年の恋をノスタルジックに描いた作品で、主人公を監督自身の分身として描き、大林宣彦監督の自伝的色彩が強い作品といわれています。公開時のポスターに、「尾道三部作 完結編」と記されたことで、この3作品のことが総称として「尾道三部作」と呼ばれるようになったと私は理解しています。

この「尾道三部作」は公開直後から多くの若者の熱狂的な支持を集め、ロケ地巡りのファンが尾道を大挙して訪れるという現象を引き起こしました。また、「尾道三部作」の製作にあたっては地元尾道を中心とした多くの賛同者の協力があり、それが観光客誘致に有効に結び付くということを示したということで、近年全国的に拡がるフィルム・コミッションの先駆けとしても評価されています。

ちなみに、「尾道三部作」で主役を務められた4人の俳優さん、小林聡美さん、原田知世さん、冨田靖子さん、そして尾身としのりさん(第2作の『時をかける少女』でも、主人公の幼馴染みの重要な役を演じました)は、どなたも「尾道三部作」が映画初主演で、その作品に出るまではほぼ無名に近かったのですが、この「尾道三部作」の作品に出演したことで大ブレイクし、現在もテレビや映画で活躍をなさっています。『転校生』で主演した小林聡美さんは劇作家で脚本家の三谷幸喜さんの元奥様です。

このように尾道は優れた文化人や俳優や歌手等を輩出する街としても秘かに知られています。

文化人では、前述の大林宣彦監督に加えて、脚本家の故・石堂淑朗さん、漫画家のかわぐちかいじさん、小説家で脚本家の高橋玄洋さん、日本画の巨匠の故・平山郁夫さん(旧瀬戸田町)、政治評論家の故・藤原弘達さん、小説家の湊かなえさん(旧因島市)などが尾道市の出身です。俳優では女優の東ちづるさん(旧因島市)、歌手ではロックバンド、ポルノグラフィティ(旧因島市)のメンバー、フジテレビの西山喜久恵アナウンサーなどが尾道市の出身です。

このような尾道市ですが、今回は出張で訪れたので、楽しめたのは移動途中のクルマから眺める車窓の景色や、講演会場&宿泊場所であった千光寺山荘からの景色、それと名物の「尾道ラーメン」くらいでしたが、それでも尾道の味わい深い街の雰囲気は十分に味わえました。千光寺山荘の周囲からは(発声練習を終えて随分と美声になった)ウグイスの鳴き声があちこちから聞こえていました。

尾道は気持ちに余裕のある時に、ゆっくり訪れてみたい街です。私の本籍地である愛媛県今治市とは“しまなみ海道(西瀬戸自動車道)”で繋がっているので、次回は是非“しまなみ海道”を渡って訪れてみたいな…と思っています。


【追記】
今、尾道名物と言われている「尾道ラーメン」とは、尾道を中心とした備後地方のご当地ラーメンのことです。私が広島大学の学生だった時代(40年ほど前)には「尾道ラーメン」なんてネーミングでは呼ばれておらず、単に尾道周辺で食されていた地元の“中華ソバ”だったようです(私達は“支那ソバ”と呼んでいました)。それが1988年に山陽新幹線の新尾道駅が開業したことや、前述の大林宣彦監督の「尾道三部作」の人気などで尾道の観光客が多数押し寄せてくるようになると、幾つかの老舗中華ソバ屋さんが注目され、行列が出来るようになりました。それで“特別に”「尾道ラーメン」と呼ばれるようになったとのことのようです。

従って、一口に「尾道ラーメン」と言っても店ごとの独創性があり、厳密な定義は難しいのですが、宿泊した千光寺山荘のフロント係の方の解説によると、しいて挙げれば下記のような特徴が多く見られるようです。

①スープは瀬戸内海の小魚によるイリコ(煮干し)による出汁(だし)を加えた醤油味の鶏ガラスープ。

②麺は、細麺であるにも関わらず歯ごたえがあり、独特の食感のある平打ち麺(非常に伸びやすい)。

③具材はチャーシューとメンマのみを使用、薬味も青ネギのみのシンプルなもの。

④比較的大き目の豚の背脂のミンチをスープに浮かべる。

ということらしいです。せっかく遠路はるばる尾道に来たのだから…ということで、翌日(18日)、東京に戻る前に山陽新幹線の新尾道駅前のラーメン屋さんでこの「尾道ラーメン」をいただいたのですが、なかなか美味しかったです(^^)d 私は瀬戸内育ちですので、イリコ出汁が気に入りました。

執筆者

株式会社ハレックス前代表取締役社長 越智正昭

株式会社ハレックス
前代表取締役社長

越智正昭

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