2016/04/18

別府−島原地溝帯

4月16日未明の午前1時25分、熊本県熊本地方
を震源としたマグニチュード 7.3、震源の深さ約10kmの非常に強い地震があり、熊本市西区 、熊本市東区、熊本市中央区、合志市、宇城市、大津町、菊池市、南阿蘇村で震度6強、大分県別府市、熊本県天草市、上天草市、熊本市北区 熊本市南区、和水町、氷川町、山都町、熊本美里町、御船町、菊陽町、玉名市、八代市、阿蘇市で震度6弱の非常に強い揺れを観測しました。

私はこの日、四国の愛媛県松山市に出張中で、松山市のはずれにある実家に戻っていて、その時間は既に布団に入って就寝中でした。突然、枕元に置いてあったスマートフォンから緊急地震速報を知らせる不快音が鳴り響き、目が覚めました。寝惚け眼の中でしたが、「ここは松山だよな」とか「あの熊本の大きな地震の関係か?」‥‥とか、いろいろなことが一瞬に頭の中を駆け巡り、すぐに立ち上がって電灯を点け、周囲を見回し、あたりに危険な物はないかを確認しながら身構えました。後で確認すると、松山気象台による公式発表では愛媛県松山市も震度4の揺れを観測したようなのですが、幸い市内のはずれにある私の実家はほんの微かに揺れを感じたくらいで、体感震度は1か2程度のものではなかったかと思います。同じ愛媛県でも九州に近い南予の八幡浜市では震度5弱の強い揺れを観測したようです。

夜明けとともに、テレビ局各社はヘリコプターから撮影したこの地震の被災地の様子を中継で映し出していましたが、この未明に襲った激震の爪痕はあまりにも生々しいものでした。

特にこの地震で最大震度の震度6強を観測した熊本県南阿蘇村の上空からの中継は、想像を絶するようなものでした。東海大学阿蘇キャンパス近くでは学生アパートの1階部分が押し潰されるようにめちゃくちゃに壊れ、消防隊員が2階から出入りして救助活動にあたっている様子が確認できました。周辺は特に被害が激しいようで、上空から撮影された映像を確認しただけでも建っているほとんどの建物が倒壊。屋根だけを残してぺしゃんこになったり、崩れ落ちたりした家が幾つも幾つも連なっていました。土砂崩れに巻き込まれ、1階部分が土砂に埋まった家も多数確認できました。地盤が崩れて傾いた家は数え切れません。

近くの山の斜面は、大きく抉(えぐれ)ように削られ、その土砂にのみ込まれた国道が崖の淵で切れ、その先にあった阿蘇大橋は崩落し、残骸すら確認できません。並行して走るJR豊肥本線の線路も各所で線路が曲がり、土砂崩れで寸断されている箇所が幾つもあります。他の道路も無数の亀裂や土砂崩れによりいたるところで寸断されています。これは酷いです。大勢の住民が学校のグラウンドと思われる場所で、身を寄せ合って救助を待つ姿もありました。

この南阿蘇村だけでなく、熊本市内や益城町をはじめとした震源の周辺地域からの中継映像でも、うまく表現ができないほどのあまりに悲惨な被災地の様子が映し出されていました。阿蘇市にある国の重要文化財である阿蘇神社の拝殿や楼門も大きく倒壊しています。14日の午後9時26分頃に発生したマグニチュード6.5の大きな地震の後も最大震度6強や6弱、5強、5弱といった規模の大きな余震が相次ぎ、そこにこの4月16日未明に起きたマグニチュード 7.3の地震が重なったわけで、その悲惨さに関しては言葉になりません。言葉にならないと言えば、5年前に起きた東日本大震災の時と同じです。人工の構造物を全て破壊してしまうほどの圧倒的な破壊力を持つ自然の脅威の凄まじいまでの姿を目の当たりにして、私達としていったい何ができるのだろうか‥‥と思っていました。

それにしても、マグニチュード 7.3ですか‥‥。マグニチュード 7.3と言えば、1995年(平成7年)1月17日に発生した阪神・淡路大震災を引き起こした兵庫県南部地震と同じです。活断層が動いたことによる直下型の地震であるということも同じです。阪神・淡路大震災が神戸市という大都市の直下で起きた地震であったことに対して、今回の熊本県熊本地方を震源とした地震では震源近くに政令指定都市の熊本市はありますが、必ずしもその中心部の直下というわけではなく、犠牲者の数だけは阪神・淡路大震災より圧倒的に少なくて済みそうですが、復旧・復興に向けては、また別の種類の問題がいろいろと表面化してきそうです。

阪神・淡路大震災も東日本大震災もマグニチュード7.3とか9.0といった非常に規模の大きな地震が引き起こした大規模な自然災害ですが、その被害の“質”は全く異なります。阪神・淡路大震災や今回の熊本の地震による災害は直下に潜んでいた活断層が動いたことによる「直下型の地震」で、地震そのものの揺れが大きな被害を引き起こしました。いっぽう、東日本大震災は海底にある大陸プレートの接合面が崩壊したことによる「海溝型の地震」で、地震そのものの揺れというよりも、地震により引き起こされた津波が大きな被害を引き起こしました。また、同じ「直下型の地震」と言っても、阪神・淡路大震災と今回の熊本の地震では、動いた活断層の長さや幅、ズレた大きさ等が異なるほか、被害を受けた都市の都市構造も大きく異なります。例えば、家屋を喪失した住民の皆様のために今後多くの仮設住宅が建設されることになるのでしょうが、熊本の場合はその仮設住宅を一体どこに建設すればいいのかも、今後すぐに大きな問題になってくると思います。

それにとどまらず、防災や災害後の復旧・復興を考えるにあたっては地域の特性というものを十分に考慮する必要があり、どこも一律というわけではありませんから。まだまだ被害の全貌が見えない段階ですが、今、私が少ない情報の中で判断するだけでも、熊本の今回の地震災害ならではの問題が幾つも出てきます。まだ余震が続いているので、復旧・復興に手がつけられるのはまだまだ先のことになりそうですが、いずれにせよ、この先10年20年といった長い時間スパンでの闘いになりそうです。とにかく、被災地の方々には頑張って乗り越えていただきたいと思っています。

被災地のあたりでは16日(土)の夕方から前線を伴った低気圧が急速に発達しながら通過し、翌17日(日)の明け方にかけて雷と暴風を伴った激しい雨が降りました。被災地にお住まいの方々にとっては追い討ちをかけるような自然の脅威の来襲で、私も気になって見守っていました。

地震で強い揺れを観測した地域では地盤が弛んでいることから、気象庁は16日のうちに熊本、大分、福岡、佐賀、長崎、宮崎の6県の震度5強以上を観測した市町村の土砂災害警戒情報の発表基準を引き下げ、また、この地域の大雨警報・注意報の基準も引き下げ、斜面の近くなど危険な地域の住民の早期避難を呼び掛けました。さらに、最大瞬間風速が35メートル/hと暴風雨になる可能性もあったことから、被災住宅のブルーシートの固定などを呼び掛けました。

幸いこの雨の雨量は多いところでも40ミリ程度で済み、この雨による新たな土砂災害や人的被害の発生は確認できていないようなので、ひとまずは安心しました。ですが、この地盤の弛みはすぐには元に戻りません。この先もかなり長い期間、少しの雨でも土砂崩れが起きる危険性が高いまま続くものと思われます。心配です。被災地周辺にお住まいの方は、余震だけでなく、雨や風にも、くれぐれもご注意ください。

16日午前7時11分頃には大分県の中部を震源としたマグニチュード 5.3、震源の深さ10kmの大きな地震があり、大分県由布市で震度5弱、別府市で震度4の強い揺れを観測しました。その後もこのあたりを震源とする強い揺れを伴う余震が相次いでいます。震源が徐々に東に移動しているようで、これも不安です。

このあたりには『別府−島原地溝帯』と呼ばれる九州を東西に横切る地殻の断裂帯(活断層の集合体)があり、今回の一連の地震の震源もこの『別府−島原地溝帯』周辺にあるように思えます。14日の午後9時26分頃に発生したマグニチュード6.5の大きな地震は、国土地理院がGPSを用いて調査したところ、「布田川・日奈久(ふたがわ・ひなぐ)断層帯」の一部が最大で97cmも左右方向にズレ動いたとみられていますが、この「布田川・日奈久断層帯」は阿蘇山付近で『別府−島原地溝帯』から分岐して南西方向に延びる断層帯です。

『別府−島原地溝帯』は、九州を西から島原半島、熊本、阿蘇火山 、九重火山群 、由布 鶴見火山群 、別府‥‥と東西に連続して横切るように延びる約150km、幅20~30kmの地殻の断裂帯(活断層の集合体)のことで、別府湾の先で日本列島の背骨とも言える日本最大の断層帯である『中央構造線』に繋がります。

慶長年間の地震と今回の地震

大分県地方で発生した大きな地震というと、慶長年間の西暦1596年(慶長元年)9月4日に発生した慶長豊後地震が思い出されます。この慶長豊後地震の推定マグニチュードは7.0〜7.8。震源は別府湾口で、『別府−島原地溝帯』と『中央構造線』の分岐点あたりで発生した直下型の地震です。この地震では高崎山と由布岳の一部で山崩れが発生したほか、震源が豊後水道から別府湾入り口の海底だったこともあり津波も発生して、800名ほどの犠牲者が出たという記録が残っています。

この慶長豊後地震が発生した3日前の西暦1596年9月1日には、豊後水道を挟んだ対岸の四国・愛媛県でも『中央構造線』が動いたと推定される推定マグニチュード7.0の慶長伊予地震が発生しました。この地震により現在の松山市や西条市といった『中央構造線』に沿った地域では大きな神社の本殿や寺院の本堂が倒壊したという記録が残っていますが、被害の詳細は記録が乏しく分かっていません。

さらに、慶長豊後地震の翌日の西暦1596年9月5日には現在の京都市の伏見付近を震源とした推定マグニチュード7.0〜7.1の慶長伏見地震が発生しました。この慶長伏見地震では完成したばかりの伏見城天守閣が倒壊し、城内にいた約600人が圧死したと言われています。そのほか、京都では東寺、天龍寺、大覚寺等の多くの有名寺院が倒壊し、大阪・堺・兵庫(神戸)でも多くの家が倒壊して、あわせて1,000人以上の死者が出たとされています。

(余談ですが、この慶長伏見地震発生時、伏見城には豊臣秀吉が滞在していて、それを加藤清正が救出したという話もありますが、確かではありません。その加藤清正が築城(正しくは改築)した平山城が、今回の熊本の地震で壊滅的とも言える大きなダメージを受けた熊本城です。街のシンボルともいえる熊本城の惨状を見て、熊本市民、そして熊本にゆかりの方々の受けたショックの大きさはいかほどのものか‥‥と思っています。少なくとも、私にとって郷里の松山城があのような姿になることは、とても堪えられるものではありません。)

この慶長伊予地震、慶長豊後地震、慶長伏見地震は、今回の熊本で発生した地震のように、『中央構造線』という巨大な断層が上下方向に動いたことにより起きた一連の地震(3連動地震)のように見做されています。

たまたま出張で松山市に滞在中だったこともあり、この慶長年間に起きた3連動地震のことを思い出し、気持ちの中ではいつ何があっても対応できるように、ずっと身構えていました。東京に戻る前には、年老いた両親を残すため、実家の中の耐震補強の確認をしました。気になるところがあったので、今回は取り敢えずの応急措置をして、次回帰省した折に器具を用いての補強工事をやることに決めました。

世の中の最底辺のインフラは地形と気象であり、地形と気象が変わらない以上、過去に一度でも起きた災害は必ずいつか繰り返されます。その土地で過去に起きた自然災害のことを知ることが、防災の第一歩だと私は思っています。とにかく、日本列島に住む以上、私達は常に圧倒的な破壊力を持つ自然の脅威の来襲に備えておかないといけないってことです。


【追記1】
報道によりますと、現時点で今回の一連の地震により41名の方の尊い命が犠牲になられたそうです。つつしんでお悔やみを申し上げます。
合掌‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥。

また、被災地では20万人近い人達が不自由な避難生活を送られているようです。心よりお見舞い申し上げます。

被災地の皆さん、いろいろとご不自由で大変でしょうが、今はまだ災害からご自身とご家族の身の安全を守ることが一番大事なことです(自助・共助)。まだまだ危険な状態は続いています。

関連自治体の皆さん、警察・消防の皆さん、そして、特に自衛隊の皆さん、頑張ってください。今は皆さんの力が一番必要とされる時期です(公助)。

私のブログなどお読みになっていないと思いますが、気持ちだけでもお届けできたらと思います。


【追記2】
今、私のスマホのメールフォルダには地震の発生を知らせる無数の速報メールが溢れています。これだけの速報メールが次から次に届くことって、あの5年前の東日本大震災の時以来のことです。あの時私が使っていたのは2台前のガラケーでした。その時のガラケーは今もその時の無数の速報メールともども大事に保管しています。この無数の速報メールの列を見るだけでも、起こっている事態の深刻さが伝わってきます。

執筆者

株式会社ハレックス前代表取締役社長 越智正昭

株式会社ハレックス
前代表取締役社長

越智正昭

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