2016/05/09

大人の修学旅行2016 in城崎温泉(その8)

この周囲に橋以外なぁ~んにもないちっぽけな無人駅に降り立ったのは何故か。それはそこに餘部鉄橋があるからです。丹後・但馬地方には、ここまで書いてきた中にも舞鶴線や京都丹後鉄道(北近畿タンゴ鉄道)など鉄道マニアの好奇心を揺さぶりそうな見どころ、鉄道名所が幾つもあるのですが、時間が限られている中で私とココさんが唯一選んだところが『餘部鉄橋』でした。それにはそれなりの理由があるのです。

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『餘部橋梁(あまるべきょうりょう)』は、JR西日本の山陰本線、鎧駅~餘部駅間にある橋梁(単線鉄道橋)のことです。『餘部橋梁』は2代存在し、特に初代の旧橋梁は鋼製トレッスル橋と言われる鉄骨で組み上げられた独特の構造の“鉄橋”で、『餘部鉄橋』の通称で鉄道マニアの間で知られています(^-^)

この『餘部鉄橋』は1912年(明治45年)3月1日に開通し、2010年(平成22年)7月16日夜に運用を終了しました。現在はその初代の橋梁のすぐ隣に建設された2代目の橋梁が使用されていて、エクストラドーズドPC橋と呼ばれるコンクリート製の橋梁になっています。この現在の橋梁は2007年3月からの架け替え工事を経て、2010年8月12日に供用が開始されました。新旧の橋梁とも全長は310.6メートル、下を流れる長谷川の河床からレール面までの高さは41.5メートルと非常に高い橋梁で、橋梁下には長谷川と国道178号が通じ、餘部の集落もそこにあります。

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初代の『餘部鉄橋』はあまりに人気があったため、2010年(平成22年)に新しい橋梁に切り替えたのち、保存すべきかどうかについての議論が行われ、その結果、維持費や落下物の危険性などが少ない餘部駅側の橋脚3本を残す方針が決定され、今に至っています。これが兵庫県が主体となって整備した展望施設「空の駅」で、全体が残された3本の橋脚のほかにも一部の橋脚の低層部だけが残されて、保存されています。

この『餘部鉄橋』、単純に河川を渡るために架けられたよく見掛ける通常の鉄橋とは幾分性格が異なります。前述のように、橋梁の下には長谷川という川は流れていますが、さして川幅もない細い河川です。なので、単純にこの長谷川を渡るだけならここまで長大な橋梁は必要ありません。そこには建設当時の時代背景から来る必然性のようなものがあるのです。

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初代の『餘部鉄橋』の建設は、当時日本の国有鉄道網を管轄していた鉄道院によってなされたのですが、この背景にはロシアからの脅威に備えるという国家防衛上の必要性があったように思われます。建設が始まった当時は日露戦争が終結した直後で、戦争が終わったとはいえ、依然ロシアは国家防衛上の脅威であることにかわりはありませんでした。山陰本線が全通するまで、山陰地方の交通は日本海の船舶輸送が中心で、舞鶴港と鳥取県の境港を結ぶ航路が一大幹線でした。しかし、船舶輸送では時間がかかることに加え、輸送量も限られるため、有事には心もとない状況でした。そこで、特に山陰本線の東側の区間を速やかに全通させること目的に、残されていた和田山~ 米子間を建設することが計画され、初代の『餘部鉄橋』が建設されることになったわけです。

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山陰本線は兵庫県の和田山側から建設を進めた山陰東線と、鳥取県の米子側から建設を進めた山陰西線があり、最後に残った余部橋梁を含む山陰西線の香住~浜坂間(17.9km)の開通によって両者が繋がり、京都から米子、その先の出雲今市(現在の出雲市駅)までが開通することになるのですが、この最後に残った香住~浜坂間をどうやって繋げるかが、実は山陰本線建設における最大の難問でした。地図をご覧になるとお分かりいただけますが、香住~浜坂間は、山が海に迫る厳しい地形であるため、海岸沿いに線路を通すことは絶対に不可能で、この区間にどのようにして線路を建設するかは、関係した技師の間でも一大論争が巻き起こったほどでした。

香住駅と浜坂駅はともに標高は約7メートルとほぼ同じ高さなのですが、その間を高い山が日本海に張り出すように遮っているので、その駅間にどのようにして線路を通すかが山陰本線開通に向けての最大の問題でした。当初は餘部で日本海に注ぐ長谷川の上流部分までいったん遡って、内陸部を大きく迂回しようという案が有力でした。ですが、それを実現するにはその当時の土木技術では極めて難しい長大なトンネルを建設することが必要となるため、最終的にはそれを避けて、かつ最短距離となる今の経路を選択したわけです。そして、できるだけ山を登って標高の高いところに行き、短いトンネルを幾つも掘ってその高い山を抜けるという建設計画が立てられました。

(山は三角形をしていますから、標高が高いほど貫くトンネルの長さは短くて済みます。トンネル掘削技術が進んだ今ならシールド工法を用いて長大なトンネルを一気に掘削しちゃうのでしょうが、明治の時代は苦肉の策と言うか、この方法がその当時の最新工法と言えました。)

現在の山陰本線で東側(香住駅側)から行くと、香住駅を出ると列車はすぐに最大12.5パーミル(1,000メートル進むと12.5メートル登る)という急勾配で登っていき(途中の鎧駅の標高は39.5メートル)、そこからは短いトンネルを幾つか連続して通り、次に長谷川を余部橋梁を通って渡り(途中の餘部駅の標高は43.9メートル)、そこからもさらに15.2パーミルというさらに急な勾配を登って標高約80メートルの地点で桃観峠真下を通る桃観トンネルに入り、そこから今度は15.2パーミルの急勾配を一気に下って浜坂駅に至るというルートになっています。このように香住駅と浜坂駅の両方から桃観峠を頂点として登っていく線形を採用したわけです。しかし、その途中にある餘部付近においては長谷川が形づくる幅300メートルあまりの長く深い谷間が横たわっていました。その長くて深い谷間をどうしても回避するわけにはいかず、そこに高い橋梁を建設して通すという無謀とも思える案が採用されたわけです。こうして建設されたのが『餘部鉄橋』というわけです。

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橋梁を建設すると言っても、このあたりは日本海から吹き付ける強い潮風で建設後の保守作業が困難となることが当初から予想され、鉄骨を用いた鉄橋ではすぐに錆びて鉄が脆くなってしまうため、どういう材質を用いた橋梁にするかが次の大きな問題でした。今なら鉄筋コンクリート製のアーチ橋が最適と考えるのがふつうですが、当時は鉄筋コンクリート製の橋梁の建設経験が日本国内ではもとより、まだ世界的にも少ない時代でしたから、結局のところは保守作業は難しくても当初の建設費が安くかつ早く建設することの可能な鋼製トレッスル橋梁で建設することになった‥‥と『餘部鉄橋記念館』に書かれていました。

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前述のように、当時は日露戦争直後で、本土防衛上の意味からも、できるだけ早期の鉄道輸送網の建設が求められていましたから、おそらくそういう結論になったのではないかと推測します。でないと、そんなに急いで山陰本線を開通させなくてはならない必要性が説明つきません。今でも山陰地方の人とモノの流れは山陰から瀬戸内という南北方向の流れが主体で、東西方向の流れはさして多くはありません。それは明治の時代だって同じことで、鉄道を建設するだけなら日本中でもっと優先度が高いところがいっぱいあったわけで、無謀とも思える建設方法をとってまでして、大急ぎで山陰本線を開通させる必要はなかったわけですから。

鋼製トレッスル橋梁の詳しい説明は土木工学の専門家ではないので私には出来ませんが、一言で言うと、H型鋼の鋼材を組み上げて橋脚を作る構造の橋梁です。鋼材同士の接続にはリベットが用いられ、その鋼材とリベットで出来た11基の橋脚と23連の橋桁は実に美しい構造美を作り出し、土木学会による技術評価では近代土木遺産のAランクに指定されていました。その独特な構造と錆び止めに塗られた鮮やかな朱色の塗装がもたらす餘部の風景は、単に鉄道ファンのみならず、山陰地方を訪れる観光客にも絶大な人気がありました。


……(その9)に続きます。

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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