2016/06/15

中山道六十九次・街道歩き【第1回:日本橋→板橋】(その2)

 まぁ〜こんな感じで「京都の三条大橋に辿り着くぞぉ~!」「おぉ~~~っ!」という掛け声を発して日本橋を出発し、中山道最初の宿場町・板橋に向かいました。第1回目の日本橋→板橋の区間の距離は約9kmです。繰り返しになりますが、西の京都の三条大橋を目指すのにいったん北に向かうというのは、頭では分かっていても、さすがに違和感があります。

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中山道は、現在の国道で言うと、日本橋から群馬県高崎市の君が代橋東交差点までが基本的に国道17号線のことで、君が代橋東交差点で西方向(左)に分岐し、国道18号線に入ります。東京都内は東京都の通称道路名称で言うと、日本橋から万世橋交差点までが中央通り、万世橋交差点から昌平橋交差点までが外堀通り、昌平橋からちょこっと北側に入って、すぐの神田明神下交差点からは本郷通りに入ります。東大農学部前から千石駅前までは旧白山通り、千石駅前からは白山通りを通ります。巣鴨のとげぬき地蔵入口で白山通りから分岐し、旧中山道に入ります。実は“お婆ちゃんの原宿”として有名な巣鴨のとげぬき地蔵尊(高岩寺)の前の参道は巣鴨地蔵通りとも呼ばれていますが、ここが旧中山道なのです。現在「中山道」と呼ばれている国道17号線はとげぬき地蔵入口で旧中山道と分岐し、旧中山道と並行するように延び、板橋区の清水町交番前で再び旧中山道と合流します。東京都の道路地図をご覧になるとお分りいただけると思いますが、このように中山道は日本橋を出ると、北西方向にほぼ真っ直ぐ一直線に延びています。

江戸時代、全国各地に向かう道路の始点であった日本橋の界隈には早くから商店が軒を連ねていました。現在も三越や高島屋などの百貨店の本店がこの日本橋界隈にあるのも、その名残です。また、日本橋の北詰の東側に「日本橋魚市場発祥地碑」が建っています。東京の魚市場と言えば築地が有名で、今年(2016年)11月には豊洲に移転することになっているのですが、江戸時代から大正時代にかけての期間、この日本橋から北(現在の三越百貨店の東側一帯)にかけて大きな魚市場が広がっていました。昔から 東京湾でとれる魚を売りさばくために、日本橋に魚河岸ができていました。その当時は市場と言っても漁師が自分が獲った魚を直接販売する形態のところでした。その後、徳川家康が江戸に幕府を開いた際、摂津の佃村と大和田村から数十名の漁民を江戸に移り住ませて、江戸城で消費する魚を獲らせました。幕府に納めた残りの魚を一般庶民にも販売するために、魚を獲る人と商う人が分離された本格的な魚市場の形態に変更になり、また、五街道を使って諸国からの海産物も入荷するようになって大いに賑わいました。なんと言っても、当時の江戸は人口100万人という世界最大の都市だったので、その賑わい振りは半端なかったと思います。私も大好きな古典落語を聴いていると、話の中に出てくる魚市場は築地ではなくこの日本橋の魚市場です。魚市場が登場してくる噺では、「昔は江戸の魚市場てぇと、今のように築地ではなく、日本橋の北側のたもとにありました」…と解説を入れる噺家さんがほとんどです。この日本橋の魚市場の賑わいは明治・大正時代まで 300年余り続いたのですが、1923年(大正12年)に起きた関東大震災により大きな被害を受け、魚市場は築地への移転を余儀なくされました。

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また、日本橋のたもとの魚市場跡地の裏あたりに三浦按針の屋敷跡があります。イングランド人の航海士である三浦按針(ウィリアム・アダムス)はオランダの商船リーフデ号の航海長として極東を目指していたのですが大変な航海の後、関ヶ原の戦いが起こる直前の1600年に豊後国(今の大分県)臼杵に漂着しました。その後、同僚のオランダ人ヤン・ヨーステンとともに徳川家康に徴用され、外国使節との対面や外交交渉に際しての通訳を務めたほか、当時の国際情勢や造船・航海術、天文学や数学等を家康以下の側近に指導しました。その功績により旗本に取り立てられ、帯刀を許されたのみならず、現在の日本橋室町1丁目あたり(それがこの日本橋の北側のたもとにある屋敷跡です)に屋敷を与えられたほか、相模国逸見に領地も与えられました。また、三浦按針(姓の”三浦”は領地のある三浦半島に因み、”按針”の名は、彼の職業である水先案内人の意味)の名乗りを与えられ、異国人でありながら日本の武士として生きるという数奇な境遇を得たのでした。ちなみに、三浦按針とともに徳川家康に徴用されたオランダ人のヤン・ヨーステンも江戸城の内堀内に屋敷を与えられ、日本人女性と結婚しました。屋敷のあった場所は現在の東京駅の東側にある八重洲のあたりで、この“八重洲”の地名は彼の名前ヤン・ヨーステンに由来すると言われています。すなわち、ヤン・ヨーステンが訛った日本名“耶楊子(やようす)”が後に“八代洲(やよす)”となり、さらに“八重洲(やえす)”になったとされています。

勇躍、日本橋を出発したというのに、なかなか前に進みません。見どころスポットに着くたびにウォーキングリーダーからの説明が入ります。中山道が五街道の1つとして日本の主要幹線だった江戸時代の話が中心なのですが、それを聞いていて「あぁ~、そういうことか」…と気がつきました。この「街道歩き」ってツアー、単に昔の街道をただひたすら歩くという企画ではないのですね。街道を自分の足で歩きながら、街道が栄えた時代を偲ぶ歴史探訪の旅って側面が大きい企画なんですね。現在土曜日の19時30分から放送されているNHK総合テレビの紀行・バラエティ番組『ブラタモリ』のリアル版だと捉えればよろしいかと思います。『ブラタモリ』は、街歩きを趣味とするタモリさんが、江戸時代・明治時代などの古地図を片手に、毎回、実際に日本各地の街を練り歩き、その街に古くから残る、建造物・神社・公園・坂道・通り・観光スポット・飲食店・駅・川・橋等々をタモリさん独自の視点で楽しむという番組です。毎回、ゲストとして各分野の専門家やその街(土地)に詳しい人物を招き、古地図を頼りに、タモリさんが独自の視点・目線で現代の街並みから何げなく発見した歴史の痕跡を発見したり、街の変化を空想・推測したりして、その街のエピソードを探るのが人気の番組です。私もこの番組が大好きで、ほとんど毎回観ているのですが(オンタイムで観えない時は録画してまで観ています)、そのリアル版と捉えればいいのです。

なるほどぉ~。これが「街道歩き」ツアーの人気の秘密なんですね。番組ではゲストとして各分野の専門家やその街(土地)に詳しい人物を招いているのですが、我々素人ではなかなかそういうことができないので、旅行会社がパッケージ商品の企画として招いたり、添乗員が専門家に代わって説明したりするわけです。ということは、私もタモリさんになりきって、楽しめばいいというわけです。タモリさんも私も同じ鉄道マニアで、タモリさんは地図マニア、地形マニア。私も世の中の最底辺のインフラは“地形”と“気象”…をこのところの信条としているので嗜好として非常によく似たところがあります。歴史好きというのも共通です。タモリさんになりきって楽しむ…、そう捉えることができたので、この「街道歩き」、メチャメチャ面白くなってきました。

そういう視点で眺めてみると、見慣れた東京中心部の景色も一味も二味も違った雰囲気で見えてきます。

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室町3丁目の交差点が「日光道中追分」です。“追分”とは分岐点のこと。私達は中央通りを真っ直ぐに直進するのですが、この室町3丁目交差点(日光道中追分)を右折すると国道4号線(江戸通り)、昔の街道名称で言うと五街道に数えられている日光街道と奥州街道に入ります(この日光街道と奥州街道、日本橋から宇都宮までの道程は共通になっています)。

中央通りを日本橋から北に進み、日本橋室町を過ぎたところに「今川橋」交差点があります。今川橋といっても、現在ここには橋は架かっていません。今川橋交差点の一本手前の細い通りにかつて竜閑川(神田堀とも言います)という川が流れていて、そこに今川橋という橋が架かっていました。日本橋を出発して最初に渡る橋で、ここまでの地名が日本橋で、その今川橋から先は地名は神田に変わります。かつて今川橋のたもとであったあたりに小さな石碑が建てられているのですが、その碑によると、この今川橋が架設されたのは天和年間(1681年~1683年)で、橋の名前の由来は、この橋の架設に尽力した当時地元町人の代表であった名主・今川善右衛門の姓から今川橋と名付けられたのだそうです。

JR神田駅北口のガードをくぐり、さらに北西方向に進みます。すると右手からJR中央線と総武線の高架の線路が迫ってきて、旧万世橋駅跡にでます。現在、鉄道博物館と言えば我が家の近所のさいたま市大宮区にあるのですが、かつてこの地に鉄道博物館がありました。私は広島の大学を卒業して就職のために東京に出てきたのですが、かつてここにあった鉄道博物館を何度も訪れたものです。今は往時を偲ぶレリーフが飾られています。

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その初代鉄道博物館跡地のすぐ裏にあるのが、旧万世橋駅の跡地です。万世橋駅は中央線の神田駅と御茶ノ水駅の間にかつてあった駅で、今は建物は完全に取り壊され、ホームの跡だけが微かに残るだけの廃駅ですが、かつてはここが中央本線の終着駅(ターミナル駅)でした。駅舎は日本銀行本店や東京駅の駅舎と同様、著名な建築家・辰野金吾の設計による赤煉瓦造りの豪華な建物で、1912年(明治45年)4月に完成、営業を開始しました。駅前には広場が設けられ、日露戦争の英雄である廣瀬武夫と杉野孫七の銅像も建てられました。東京市電が走り、多くの人で賑わい、大正時代に最盛期を迎えました。しかし万世橋駅の開業後に、東京駅が完成。さらに1919年(大正8年)3月、中央本線の万世橋駅~東京駅間が開通して、中央本線のターミナル駅としての役目は僅か7年で終了しました。同年、神田駅が開業。1925年(大正14年)11月には、上野駅~神田駅間の総武線の高架線が完成。秋葉原駅が旅客営業を始めました。一方、万世橋駅は1923年(大正12年)の関東大震災で駅舎が焼失し、遺体安置所に利用された後、簡素な駅舎として再建されました。しかし、徒歩で行ける距離に神田駅及び秋葉原駅ができたこと、さらに山手線の上野駅~神田駅間の路線が開通したことで東京駅以南から上野・浅草方面への市電乗り換え駅としての地位をも失ったため、乗客数は急減していきました。1936年(昭和11年)4月、東京駅から鉄道博物館がこの地に移転。駅舎は解体縮小され、博物館に併設された事務所小屋のような状態となりました。そしてついに1943年(昭和18年)11月、駅は休止(実質上廃止)となり、駅舎は交通博物館部分を除いて取り壊されました。現在、万世橋駅の旧構内には中央本線が走っており、プラットホームの遺構は中央線の神田駅~御茶ノ水駅間の車窓から確認することができます。中央本線の上り線と下り線が離れた間の線路より幾分高い所にあって、雑草が茂っているので、すぐに分かります。2012年(平成24年)7月から旧万世橋駅遺構の整備工事が始まり、2013年(平成25年)9月には「mAAch ecute(マーチエキュート) 神田万世橋」が開業しました。この「mAAch ecute 神田万世橋」にはガラス張りのすぐ横両サイドを中央線の電車が行き交うお洒落なカフェがあるようなので、いつか行ってみたいと思っています。

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万世橋交差点から昌平橋交差点まで外堀通りをほんの少し歩きます。ここからしばらくは「日光御成道」と一緒になります。日光御成道(にっこうおなりどう)は江戸時代に五街道と同様に整備された街道の1つで、中山道の本郷追分を分岐点として岩淵宿、川口宿から岩槻宿を経て幸手宿手前で日光街道に合流する脇街道のことです。歴代将軍が江戸城大手門を出て神田橋門を通り、上野寛永寺や日光東照宮に出向く時に使用した道路のことで、日光御成街道や、途中岩槻を通ることから「日光道中岩槻通り」や「岩槻道」とも呼ばれていました。万世橋付近には江戸城三十六見附の1つ「筋違門」が設置されていました(ちなみに、見附とは主に城の外郭に位置し、外敵の侵攻、侵入を発見するために設けられた警備のための城門のことです)。

神田川に架かる昌平橋の前後でJR中央線と総武線の高架線路をくぐり抜けます。このすぐ西がJR御茶ノ水駅で神田駅からやって来た中央線と、秋葉原駅からやって来た総武線が合流するところがよく見えます。また、その先には神田川を鉄橋で渡る東京メトロ丸ノ内線の地下鉄車両も見えます。そういうことで、ここは都会の鉄道風景として、“撮り鉄”がよく撮影に来る人気スポットになっています。

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昌平橋を過ぎると、すぐ左手に湯島聖堂が見え、神田神社に到着です。ここでしばしの休憩です。

神田神社は天平2年(730年)に出雲氏族で大己貴命(おおなむちのみこと)の子孫・真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村(現在の東京都千代田区大手町の将門塚周辺)に創建された神社です。その後、平将門を葬った墳墓(将門塚)周辺で天変地異が頻発し、それが将門の御神威(祟り)として人々を恐れさせたため、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く将門の御霊を慰め、さらに延慶2年(1309年)、神田明神に祀られました。慶長5年(1600年)、天下分け目の合戦と言われた関ヶ原の戦いが起きると、徳川家康が合戦に赴く際にここで必勝の祈祷を行い、見事に勝利し、天下統一を果たしました。それにより、神田明神は幕府の尊崇する神社となり、元和2年(1616年)に江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在の場所に遷座し、幕府により社殿が造営されました。明治時代に入り、社名を神田明神から神田神社に改称したのですが、今でも一般的には神田明神と呼ばれていて、東京の守護神となっています。

ちょっと疲れも出てきたので、当分補給も兼ねて神田明神名物の甘酒をいただきました。神田神社の参道には『麹』の看板を掲げた甘酒が飲めるお店が幾つか並んでいます。

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しばしの休憩の後、再び歩き出しました。とは言え、東京医科歯科大学、順天堂大学の横を通り過ぎたところで、すぐに昼食場所に到着しました。昼食場所は『東京都水道歴史館』の大会議室です。なるほどね。今日だけで約300名が参加する「街道歩き」ツアーです。最大の難問は昼食場所の確保なのでしょうが、一度に約100名は収容できようかというこの大会議室ならば十分です。私達は第4班なのですが、先に昼食を済ませた第1班や第2班の方々と途中ですれ違いました。これまたなるほどぉ~です。なんでこの昼食会場とさほど距離の離れていない神田神社でしばしの休憩をしたのかというと、昼食会場の時間調整が本当の目的だったのですね。納得しました。

昼食のお弁当を早々に食べ終え、東京都水道歴史館の館内を見て回りました。東京都水道歴史館は江戸から東京にわたる約400年間の大切な水道の歴史と、安全でおいしい水をお届けするための水道の技術・設備に関わる展示を、無料で公開している東京都水道局PR館の1つです。神田上水や玉川上水などの江戸時代の上水から、近代水道の創設、現在、規模・水質ともに世界有数のレベルに達した東京水道の歴史や技術を実物資料や再現模型、映像資料などでわかりやすく紹介しています。あわせて、江戸時代の水道の記録『上水記』(東京都指定有形文化財[古文書])をはじめとした貴重な水道に関する資料を保存・公開しています。前述のように、江戸時代、江戸は人口100万人を抱える世界最大の都市でした。その江戸の町に住む人々の生活用水を確保することが最重要課題であると考えた徳川家康は、江戸入国にあたって、家臣の大久保藤五郎に上水をつくるように命じ、藤五郎は小石川上水を造ったといわれています。小石川上水の水源や配水方法、経路等についての具体的なことは現在もわかっていませんが、小石川上水は江戸における最初の水道となり、その後の江戸の発展とともに神田上水へと発展していきました。また、赤坂の溜池を水源とする溜池上水も江戸の町の西南部に給水されていました。

江戸の町づくり及び城づくりは3代将軍家光の時代(元和9年(1623年)~慶安4年(1651年)に完成します。天守閣に金の鯱(しゃちほこ)が光り輝く江戸城の周辺には、豪華な大名屋敷が幾つも建ち並び、日本橋・京橋・新橋方面の下町も大いに賑わいをみせることになります。この下町に水を給水するため、井ノ頭池を水源とする神田川の水を、関口村(現在の文京区)に築いた大洗堰で塞き上げた後、水戸藩邸(現在の後楽園一帯)まで開削路で導水し、神田川を懸かけ樋(ひ)で渡して、神田・日本橋方面に給水するという神田上水が、江戸の町づくりと軌を一にして、完成しました。その神田上水で実際に使われていた石樋が、東京都水道歴史館の裏に移設・復元されて展示されています。この東京都水道歴史館、特にインフラ系のエンジニアにとっては、なかなかに興味深いところです。

■ 東京都水道歴史館HP

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……(その3)に続きます。