2016/07/11

中山道六十九次・街道歩き【第2回: 板橋→蕨】(その4)

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 いよいよ荒川を渡ります。関東地方を代表する一級河川の1つである荒川(あらかわ)は、埼玉県および東京都を流れ東京湾に注ぐ荒川水系の本流のことを指します。埼玉県、山梨県、長野県の三県が県境を接する奥秩父の甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)に源を発し、まずは東方向に流れ、秩父盆地で周囲の秩父山地から湧き出る水を集めながら徐々に大きな河川となり、秩父盆地から長瀞渓谷まではいったん北に、その後東方向に流れを変えて、大里郡寄居町で関東平野に出ます。その後は標高差の少ない関東平野を東西南北にクネクネと大きく蛇行を繰り返しながら東京湾へと流れ下ります。熊谷市付近で南南東に向きを変え、川越市と上尾市の境あたりで飯能市の旧名栗村に源を発する入間川と合流します。戸田市付近で再び東方向に流れを変え、埼玉・東京の都県境を流れ、北区の新岩淵水門で隅田川を分けます。その後、足立区で向きを変えて再び南方向に流れを変え、江東区と江戸川区の区境で東京湾に注ぎます。水系としての流路延長は約173 km、流域面積2,940平方キロメートル。川幅(両岸の堤防間の距離)は御成橋(埼玉県鴻巣市・吉見町)付近で2,537 mになり、これは日本最大の川幅です。

 荒川は古くは利根川の支流で、関東平野に出た後、熊谷市近辺で利根川と合流していました。利根川の中下流(荒川との合流後)は5000年前頃までは現在の荒川の流路を通っていたのですが、3000年前頃からは加須市方向へ向った後、南方向に流れを変えて東京湾へ注ぐようになっていました。標高差の少ない関東平野を流れるため、この利根川と荒川は河道が安定せず、特に下流域では何度も氾濫を繰り返す大変な暴れ川でした。荒川の名も暴れ川を意味し、何度も氾濫を繰り返したことから、有史以来、下流域の開発も遅れていました。このため、徳川家康の入府以来、徳川幕府は江戸の町を大河の洪水から守ることと、関東平野の水田面積を一気に広げることを目的として、利根川と荒川の川筋を変更するという一大土木工事を繰り返し何度も行っています。

 荒川の川筋も、江戸時代を通じて数回付け替えられています。まずは寛永6年(1629年)に関東郡代の伊奈忠治らが幕府に命じられて秩父山中から流れ出た荒川を現在の熊谷市のJR熊谷駅のすぐ西あたりで河道を締切り、河道を付け替えて入間川筋に落ちるように瀬替えをしたことに始まり、延宝8年(1680年)、享保8年(1723年)と荒川の水量確保のためさらに流路変更をされて、現在の川筋になっています。ちなみに、寛永6年に伊奈忠治らが入間川への瀬替えをする前の元の河道は、熊谷市で荒川から離れて鴻巣、蓮田、岩槻、越谷…と埼玉県内を流れ、吉川市で中川と合流する元荒川となっています。また、同時期の工事で利根川は東に瀬替えが行われ、古利根川流路から江戸川へ注ぐ流路を流れるようになりました。

 この瀬替えによって水量が増えたことにより、舟運により物資の大量輸送が可能となり、荒川は交通路としての重要性を高めることになりました。また、地図を眺めるとすぐにお分かりいただけると思いますが、中山道はこの瀬替え後の新しい荒川と、瀬替え前の元の荒川(元荒川)の間を通っています。この荒川と元荒川の間の土地には、大きな河川が流れていないため、街道も整備しやすかったのではないかと思います。ちなみに、寛永6年(1629年)の瀬替え前は中山道(当時は東山道)は荒川の西側に沿って通っていたのが、瀬替え後は新しい荒川の東側に沿って通るように変わりました。ここから推測するに、中山道(東山道)は荒川によって削られた河岸段丘の上の周囲より少し標高の高いところを南北に辿るように通っていたと思われます。

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 今日では荒川の一部となっていますが、荒川流域のこの志村から船渡にかけて流れていた川は、その昔は「戸田川」と呼ばれていて、多くの往来があったにもかかわらず、おそらく江戸幕府の戦略的な事情(防衛上の理由)から橋は架かっておらず、「戸田の渡し」と呼ばれる渡し船により行き来が行われていました。 江戸方から板橋宿、志村の一里塚を過ぎた中山道はこの渡し船に乗らなければ次の宿場である蕨宿に辿り着けませんでした。ちなみに、中山道に初代の戸田橋が架けられたのは1875年(明治8年)のことです。木製の橋で、通行料を徴収していました。

 戸田川は平時は現在と同じくらいの川幅が55間(約100m)程度のものだったのですが、ひとたび大水が出ると川幅は1里(約4km)近くにも広がって、いくら渡し船を使っても渡河は不可能になりました。 私は通勤にはこの旧中山道に沿ったJR埼京線を利用しているのですが、台風の時期の大雨の時などは広い河川敷いっぱいになって流れるこのあたりの荒川の様子を何度も見ているので、この1里にもなる川幅というのがよぉ〜く分かります。高い堤防が作られた今でさえこのような状況です。この堤防のなかった江戸時代には、おそらく先ほど歩いてきた(河岸段丘に登る)清水坂の坂下あたりまで水に浸かることもあったのではないでしょうか。

 そのような時は当然ながら“川留め”という通行止めが発生しますし、また平時でも夕刻以降は危険と見なされて“川留め”が行われていました。 となれば、旅人は渡し場の一歩手前にある宿場に逗留せざるを得なくなります。大水が出た時など数日間の逗留が必要になります。そういう時、江戸から京都方面に向かう旅人は出発を遅らせるように調整すればなんとかなりましたが、逆に江戸へ向かう旅人は水嵩が安全な水位にまで下がり川幅が元に戻るまで、渡し場の一歩手前にある蕨宿に逗留せざるを得なくなります。 そのため蕨宿もそれなりの規模であったのですが、それでも収容人員には限界があります。次の浦和宿、大宮宿‥‥と宿場での足留めの連鎖は後ろへ後ろへと拡がっていったものと思われます。このように、昔の街道でも“渋滞”はつきものだったようです。ただ、現在の道路の渋滞とは発生原因がまるで異なりますが‥‥。

 中山道で「戸田の渡し」の運行が始まったのは16世紀末頃(安土桃山時代)のことであったと伝えられています。それまでのこのあたり一帯は、荒川が複雑に屈曲し、葦や萱が鬱蒼と生い茂る低湿地の原野でした。1602年(慶長7年)、徳川家康の命令により中山道の整備が開始され、この時期に、「戸田の渡し」の渡船場が整備されたと考えられています。また、1772年(安永元年)、荒川舟運の拠点として戸田河岸場が設置されます。この戸田河岸場の設置により、物資の中継地としてもこの「戸田の渡し」は江戸幕府にとって極めて重要な位置を占めるようになります。

 このあたりには、この「戸田の渡し」に由来した地名が幾つか残されています。旧中山道とほぼ並行して延びるJR埼京線には「浮間舟渡」という駅があります。この浮間舟渡駅、JRでは東京都最北の位置する駅で、北区浮間と板橋区舟渡にまたがった位置にあるため、両者を合わせた駅名とされました。この“舟渡”など、渡し船そのものと言ってもいい地名です。

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 もう1つ、忘れてはならないのが新河岸川です。板橋から向かうと、荒川に架かる戸田橋の手前で新河岸川を渡ります。新河岸川は一級河川・荒川水系の支流の1つで、埼玉県川越市を源流として、本流である荒川の右岸(すなわち、東京側)をほぼ並行して流れ、戸田の付近でいったん荒川と合流した後、すぐに分岐して隅田川となる河川です。この新河岸川は江戸時代初期から昭和の始めまでの約300年間、川越と江戸を結ぶ物流の大動脈で、この流れを数多くの舟が行き来していました。新河岸川の舟運は、人や物資を載せて運んだだけではなく、川越と江戸を強く結びつける役目を果たし、今でも「小江戸」と呼ばれるように川越の街に深く根付いた江戸の文化は、この舟運によってもたらされたといっても過言ではありません。

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 寛永15年(1638年)、川越は未曾有の大火に見舞われ、喜多院や仙波東照宮一帯も火の渦に巻き込まれました。その時、江戸幕府三代将軍・徳川家光の命により、喜多院や仙波東照宮再建のための資材を江戸から新河岸川を使って運び込んだのが舟運のはじまりとされています。舟運は、知恵伊豆と呼ばれた老中・松平伊豆守信綱が川越藩主になってから本格的に開かれました。新河岸川は、この頃“内川”と呼ばれていましたが、舟の運行に適するように伊佐沼から水を引き、“九十九曲り”と称せられるほどの多くの屈曲をつけ、水量を保持するなどの大改修工事が行われました。すなわち、基本的に交通インフラとして人工的に作られた河川です。

 当初は年貢米の輸送を主としましたが、時代が進むにつれて人や物資が行き交うようになります。舟の種類は並船、早船、急船、飛切船などがありました。並船は終着地の浅草花川戸まで1往復7日から20日かかる不定期の荷船、早船は乗客を主として運ぶ屋形船。急船は1往復3日かかる荷船。飛切船は今日下って明日には上がる特急便でした。川越方面からは俵物(米・麦・穀物)やサツマイモといった農産物、木材などを運び、江戸からは肥料類をはじめ、主に日用雑貨を運搬しました。

 新河岸川の“新河岸”とは江戸中期(1700年以降)に成立した新しい河岸(かし:河川流域の物資輸送基地として舟運を中心に発展した集落)のことを指します。従来の河岸は幕府が設立認可し、主に年貢米の輸送で発展したのに対して、新河岸は民間資本によって設立され、新しいルート(水運)を開拓し、より迅速な物流を展開しました。その最盛ぶりから、外川(荒川の舟運)に対して、新河岸川は内川とも称されました。もともと内川と呼ばれていた河川が、新河岸の興隆によって栄えたために後に新河岸川と呼ばれるようになったとの説もあります。新河岸川には、仙波、扇、下新河岸、福岡、伊佐島、引又、新倉など20以上もの河岸場があり、河岸場が置かれた場所は支川の合流地点の付近が多く、2つの川が物流の結節点となっていたようです。戸田の河岸場も本流である荒川(外川)と新河岸川(内川)の合流地点に位置し、江戸の町を支える物資の集積地(中継地)として大いに栄えました。

 幕末から明治初年頃が新河岸川の舟運の全盛期で、その後は川越鉄道(後の西武鉄道新宿線)、東上鉄道(後の東武鉄道東上線)、川越電気鉄道(後の西武鉄道大宮線:1941年に廃止)、省線川越線(後のJR川越線)といった鉄道が相次いで開通し、また洪水防止のための河川改修により水量が不足するなどして舟の運航が妨げられ、舟運は昭和6年(1931年)に終わりを告げました。

 ちなみに、現在の新河岸川は、明治末期から昭和の初期にかけて荒川放水路(現在の荒川)が建設された際に荒川からの分離が実施され、埼玉県朝霞市の朝霞水門から東京都北区赤羽にある岩淵水門までの現在の新河岸川の流路(約10km)は、この改修工事の際に開削された人工の水路です。この人工の水路により、新河岸川は隅田川と直結され、主として埼玉県区間が新河岸川、東京都区間が隅田川と呼ばれるようになりました。また、この際、埼玉県区間では“九十九曲り”と称された新河岸川の蛇行部分の大半を直線化し、併せて築堤が施されました。

 また、川越に築かれた川越城は江戸に近い支城として江戸幕府から重要視され、川越街道や新河岸川といった特別な交通インフラが整備されたほか、川越藩には歴代幕府の重臣(譜代大名)が配置されました。酒井忠勝や松平信綱、柳沢吉保など幕府の要職についた歴代藩主が多く(老中の輩出数7名は全国でも最多の藩の1つ)、特に江戸時代中期までは「老中の居城」と言われました(中期以降は親藩)。

 そうそう川越と言えば‥‥、サツマイモのことを「栗よりうまい十三里」ということがあります。これは正しくは「九里四里(くりより)うまい十三里」で、江戸の日本橋から川越札の辻までの川越街道の距離約13里をもじったものです。すなわち、「九里+四里=十三里」ってことです。味の良さを謳われたサツマイモは、今でも川越周辺の特産品の1つです。埼玉県で栽培されるようになったのは、今から約250年前、8代将軍徳川吉宗がサツマイモの栽培を奨励したのがきっかけです。そして、当時の川越藩主・松平大和守斉典が、10代将軍徳川家治に川越でとれたサツマイモを献上したところ、色の美しさと味の良さから絶賛され、“川越イモ”というブランドが起こりました。以後、“川越イモ”は埼玉県産サツマイモの代名詞として使われるようになっています。

 余談ですが、前述のように明治末期から昭和初期にかけて、洪水を防ぐために現在の岩淵水門から河口までの荒川放水路が建設され、1965年に出された政令によってこの荒川放水路が荒川の本流となり、分岐点である岩淵水門より下流の元の荒川は、それまで千住大橋付近から下流部の俗称であった「隅田川」に改称されました。荒川に面せず隅田川に面している荒川区が「荒川」の名を持つのは、こうした歴史的な事情によるものです。

 また、江戸時代、隅田川の吾妻橋周辺より下流の区間は大川(おおかわ)とも呼ばれていました。古典落語などではよくこの“大川”の地名が出てきます。また、大川右岸、特に吾妻橋周辺から佃周辺までのあたりは大川端(おおかわばた)と呼ばれました。これも古典落語でよく出てくる地名です。


【追記】
 川越鉄道(後の西武鉄道新宿線)、東上鉄道(後の東武鉄道東上線)、川越電気鉄道(後の西武鉄道大宮線:1941年に廃止)、省線川越線(後のJR川越線)…、川越に向けてこれだけの鉄道路線が引かれたということは、明治以降もそれだけ川越という町は重要な町で、人や物の行き来が多かったということです。この「中山道六十九次・街道歩き」の第2回で旧川越街道や新河岸川に触れて、また小江戸・川越に行ってみたくなりました。以前に観た『ブラタモリ』の川越編の内容が鮮明に蘇ってきて、いろいろなことが繋がり始めてきましたし。こういう歴史的背景を主体とした基礎的な知識を持って川越に行ってみると、何度も行ったことのある川越の町も、これまでとはまるで違った景色の見え方がしてくるかもしれない‥‥と思い、ワクワクしてきました。


……(その5)に続きます。

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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