2016/07/20

中山道六十九次・街道歩き【第3回: 蕨→大宮】(その1)

 『中山道六十九次・街道歩き』の第3回に参加して来ました。第3回は中山道2番目の宿場町・蕨宿から3番目の宿場町・浦和宿を通り、4番目の宿場町・大宮宿までの約9kmの区間を歩きます。この区間はほぼ埼玉県さいたま市の市内。いわば私の地元です。私はさいたま市中央区(元の与野市)に住んで28年になります。なので、土地勘は十分にあるのですが、その歴史に関してはほとんど知らないので、リアル版『ブラタモリ』で歩く今回の「中山道六十九次・街道歩き」の第3回を楽しみにしていました。

 第3回のスタートは前回第2回のゴールだった蕨宿近くの蕨城址公園でした。この日も大勢の方が参加しています。スタッフの方に聞くとこの日の参加者も約150名なのだそうです。まだ“脱落組”は少ないようです。例によって入念なストレッチ体操で体をほぐした後、25人ほどのグループになって出発しました。この日は梅雨の合間の快晴で、最高気温は30℃を超える真夏日。さいたま市の日中の最高気温は33℃まで上がりました。この炎天下を寄り道部分を含めると13km以上も歩くということなので、熱中症対策が重要です。まぁ~、飲料水の自動販売機は沿道に幾つも並んでいるでしょうから、こまめに水分補給をしながら歩くように…という指示がウォーキングリーダーさんから出ました。了解です。

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 蕨城址公園は旧中山道から少し外れるので、いったん蕨市立歴史民俗資料館近くの蕨宿交差点のところまで戻り、街道歩きを再開しました。第3回は蕨宿を出て、旧中山道を北北西方向にほぼ真っ直ぐに進みます。

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 道路の右側に「中仙道蕨宿まちづくり憲章」立札が立っています。同じく右側のせんべいの「萬壽屋」は、昔は茶屋だったところで、江戸時代から10代続く老舗なのだそうです。今度、その老舗の味というものを買って食べてみようと思います。

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 その角には「地蔵の小径」の碑が立っています。右折すると小路は三学院への道で、突当りに総門があります。総門の前右側に、寛永12年(1800年)に建立された「馬頭観世音」を梵字で陰刻した三学院梵字馬頭観世音塔があり、総門の先、右側建屋内には左から地蔵石仏(目疾地蔵)、六地蔵、子育て地蔵が鎮座する地蔵堂があります。

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 三学院の地蔵堂には数体のお地蔵様が安置され、その中に通称「目疾(めやみ)地蔵」と呼ばれるお地蔵様が安置されています。蕨市の指定文化財に指定されている目疾地蔵は、万治元年(1658年)に念仏講を結んだ13人によって、「この世」と「あの世」の安楽を願って造られたのだそうです。目疾地蔵の顔を見ると、目に味噌が塗ってあり、驚かされます。この日は特にタップリと塗られていました。なぜ味噌を目に塗るようになったのかは不明ですが、江戸時代の頃からこの目疾地蔵を参拝する際に、眼病平癒の願いを込めながら地蔵の目に味噌を塗ると目の病気が回復したり、目の病気に罹らないという都市伝説(?)が生まれた‥‥と伝えられています。その風習は現代も残され、地元の方はもとより、眼科を受診される人々も目疾地蔵の参拝に訪れているのだとか。地蔵堂には、この目疾地蔵のほかにも高さ2.4mの火伏せと子育てにご利益のある「子育地蔵」、民衆の苦悩を救済する姿が現わされた「六地蔵石仏」が安置されています。また毎月4日は地蔵堂の縁日が行われ、8月24日は盛大な法要(大護摩)が執り行われ、大勢の参拝客で賑わうのだそうです。

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 三学院は、京都の真言宗智山派総本山智積院(ちしゃくいん)の末寺で、正式名称を金亀山(こんきさん)極楽寺三学院といいます。創立年代は不明ですが、本尊の木造十一面観音菩薩立像が平安時代後期の作であることや、他に現存する資料から中世以前の創建と考えられています。天正19年(1591年)には、徳川家康より寺領20石を寄進する旨の朱印状が授与されており、以後徳川歴代将軍からも同様の朱印状が与えられています。 また、三学院は、足立坂東三十三観音霊場の20番、北足立八十八霊場の30番にあたる札所としても知られているそうです。また、江戸時代には「関東七ヶ寺」の一つとして、僧侶の教育機関でもあったようです。ビックリするような立派な寺院で、こんなに立派な寺院が蕨市にあったことを初めて知りました。

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 徳丸家の「跳ね橋」です。前回第2回の一番最後で、蕨宿の特徴として、宿場をぐるりと取り囲む用水路のことを少し触れました。この用水路は防犯上のために設置されたと言われていますが、もう1つには飯盛女や助郷、明治の時代になると紡績工場の女工が逃げ出さないように、夜になると用水路に架かる橋を跳ね上げて渡れないようにした‥と言われています。昔は蕨宿を取り囲むように幾つも設置されていた「跳ね橋」ですが、現在はこの徳丸家の「跳ね橋」を残すのみとなっています。この橋も数年前に火事で焼けてしまい、当時を再現して新調したものです。家の前の石畳の部分の下に用水路が流れています。今見ると、助走をつけて「えいやっ!」と跳べば渡れちゃいそうな川幅の用水路なのですが、当時の着物を着た女性にとっては難しいことだったのでしょうね。跳ね橋の幅も約30cmほどしかなく、ここを渡るのもちょっと勇気が要ることだったように思えます。蕨宿に入る旅人は、皆さんこの細い「跳ね橋」を渡ったということなのですね。

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 宿場出口には入口と同様な木製ゲートが両側に立ち、ゲート左側の北町交番に隣接して、「中山道ふれあい広場」の碑が立ち、大名行列壁画が描かれています。

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 蕨宿を出て錦町3丁目信号交差点の現在の中山道である国道17号線を斜めに横断し、県道79号線を西へ進みます。蕨市立第二中学校を過ぎて少し北向きにカーブし、現在の中山道である国道17号線と並行するように道なりに進みます。錦町5丁目交差点から少し行ったところの、小さな橋のかかる用水路が蕨市とさいたま市(旧浦和市)との市の境界線で、ここで蕨市からさいたま市南区に入ります。このあたりでは1と6の付く日に“市”が立ったところで、ここにあった小さな橋は「一六橋」と呼ばれ、右側にはそれを示す木製の碑が建っています。

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 この「一六橋」をはじめ、このあたりの橋の下を流れる川は、基本的に見沼代用水です。見沼代用水(みぬまだいようすい)は、江戸時代の1728年(享保13年)に幕府の役人であった井沢弥惣兵衛為永が新田開発のために、武蔵国(現在の埼玉県)に普請した灌漑農業用水のことで、名前の通り、灌漑用溜池であった見沼溜井の代替用の水路でした。流路は、現在の埼玉県行田市付近の利根川より取水され、東縁代用水路は東京都足立区、西縁代用水路は埼玉県さいたま市南区に至ります。この見沼代用水は、埼玉県・東京都の葛西用水路、愛知県の明治用水と並び、日本三大農業用水と称されています。

 江戸時代初期、関東郡代であった伊奈忠治は荒川下流の治水や新田開発を目的として、現在の元荒川を流れていた荒川を入間川へ付け替える大工事を行いました。同時期に、利根川も流路を太平洋へと付け替える利根川東遷事業が行われており、これらの川の付け替えは、元の流域周辺の水不足を招く恐れがありました。そこで、周囲の灌漑用水を確保するため、1629年、伊奈忠治は、天領であった浦和領内の川筋を堰き止める形で、長さ約870mの八丁堤(現・埼玉県さいたま市緑区の大間木付近)と呼ばれる堤防を築き、見沼溜井という大きな溜池を作りました。しかしながら、この見沼溜井の水は、桶川市末広を発する流れと桶川市小針領家を発する湧水などのほかは、周囲の台地からの排水の流入によるものしかなく、しかも土砂の流入で溜井の貯水能力は次第に低下していきました。さらに1675年(延宝3年)には溜井の一部が入江新田として干拓されるなど、見沼溜井周辺の新田開発が活発化すると、水不足は深刻な状況に陥りました。

 この深刻な水不足を解決するために作られたのが見沼代用水です。この建設を命じたのがテレビドラマの「暴れん坊将軍」や「大岡越前」で有名な8代将軍・徳川吉宗。徳川吉宗は8代将軍として紀州藩から江戸に入ると、中学校の社会科の授業でも習った「享保の改革」と呼ばれる一大改革を始めました。その享保の改革の最大の課題は幕府の財政の建て直し(いつの時代も政府は財政再建が課題のようです)。そのための増収策として、1722年(享保7年)に新田開発奨励策が示され、新田開発が本格化しました。幕府のお膝元であった武蔵国でも新田の開発が活発化し、武蔵国の東部、現在のさいたま市東部あたりにあった見沼溜井をはじめとした多くの灌漑用の溜井を干拓して、ここを新田として開拓することが決められました。そして、その埋め立てられることになった多くの灌漑用の溜井の代わりとなる農業用水を利根川から供給することになりました。これが見沼代用水です。

 この巨大な土木工事プロジェクトの指揮を命じられたのは勘定吟味役格の井沢弥惣兵衛為永。吉宗に従い紀州藩士から幕臣になった人物です。井沢弥惣兵衛為永に見沼溜井の干拓の検討が命じられたのが1725年(享保10年)。その僅か3年後の1728年(享保13年)にはこの一大用水路網が完成し、埼玉県行田市付近で利根川から取水した水を流し込み、用水路としての利用が始まりました。このプロジェクトの完成により見沼溜井の干拓により生まれた見沼新田をはじめとして、このあたり一帯では幾多の新田開発が行われ、江戸幕府の財政は一気に回復していきました。今のように近代的なブルドーザーやショベルカーといった重機がなかった江戸時代に、この短期間でこうした一大土木工事プロジェクトを成し遂げたことに、エンジニアとして驚かされます。それとともに、井沢弥惣兵衛為永のプロジェクトリーダーとしての手腕に脱帽します。素晴らしい!

 なるほど、このあたりを流れる幾つもの小さな川は、見沼代用水という人工の川、用水路なのですね。そう言われて眺めてみれば、この一六橋の下を流れる小さな川も断面が長方形をしていて、いかにも人工の用水路であることが分かります。そのような用水路が網の目のようになって流れ、荒川に至る低地一帯で広く新田開発が行われたところがこのさいたま市一帯だったということのようです。なるほどぉ〜〜。そういう目で眺めてみれば、新開や田島(桜区)をはじめとした地名にもその名残がたくさん残っているように思えます。このあたりの地理を見る上において荒川以上に重要なキーワードは、“大宮台地”と“見沼代用水”のようです。

 ちなみに、見沼代用水の水源である埼玉県行田市と言えば、映画『のぼうの城』の城の舞台にもなった忍(おし)城のあったところです。忍城は天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に伴い発生した「忍城の戦い」で有名な城です。“のぼう”こと成田長親が指揮する忍城は沼や河川を堀として有効的に利用した堅城で、石田三成を総大将にする豊臣軍は攻めあぐね、5日間という短期間で全長28kmにもなる石田堤と呼ばれる堤防を突貫工事で築き、利根川の水を利用した水攻めを行ったのでした。ところが大方の予想に反して本丸が沈まず、まるで浮いているかの様に見えたことから“忍の浮き城”と呼ばれたそうです。結局、豊臣軍は忍城を落城させることができず、小田原城が降伏・開城し、主君である後北条氏が滅亡したことで、なんとか開城させることに漕ぎ着けたのでした。この忍城の戦いにはNHK大河ドラマ『真田丸』で話題の真田昌幸・信繁父子も石田三成の援軍に駆けつけています。先日、このシーンもありました。

 僅か5日という短期間で全長28kmにもなる堤防を築いたこの石田堤といい、徳川家康から命じられて利根川の中流を栗橋(現埼玉県久喜市)付近で渡良瀬川に接続した利根川東遷事業、さらには熊谷市久下で荒川を締め切って入間川に付けかえる荒川西遷事業を指揮した伊奈忠次といい、たった3年間で広大な見沼代用水を完成させた井沢弥惣兵衛為永といい、この時代の土木技術の高度さには驚かされます。

 行田に宿場はありませんが、中山道は鴻巣宿と熊谷宿の間で行田の西の端をかすめるように通るので、そのあたりの風景を眺めるのがちょっと楽しみです。それにしても、行田といい、栗橋といい、熊谷といい、あらためて調べてみると、埼玉県って関東平野における治水の要のようなところなのですね。街道も興味深いのですが、河川の歴史も好奇心を刺激して大変に興味深いものがあります。こうやって地理に注目して眺めてみると、埼玉県って意外と面白いところだってことに気付きました。これまで見るべきところが少ないところだとずっと思っていたのですが、それは間違いでした。さすがは武蔵国です。

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……(その2)に続きます。