2016/07/25

中山道六十九次・街道歩き【第3回: 蕨→大宮】(その3)

 しばらく休憩した後、街道歩きを再開しました。この日は快晴で直射日光も強く、肌が陽に焼けるのを感じます。気温もグングン上がり、街道歩きにはちょっとキツい感じです。これは昔も同じで、昔の人はこういう暑さの中でも、目的地を目指してドンドン歩を進めていったのでしょうね。泣き言は言えません。

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 調神社を過ぎ、次の信号の先の左側歩道上に、「中山道浦和宿」の碑が立っています。ここからが浦和宿があったところです。このあたりはさいたま市(旧浦和市)で一番の繁華街で私も買い物などでよく来るところなので、私にとってはとても見慣れた風景ではあるのですが、「中山道街道歩き」の歩きでやって来てみると、その風景もまるで違った感じで見えてきます。「街道歩き」では、意識して江戸時代の趣きの残るものを探し出し、そこから江戸時代の風景を頭の中でイメージしながら歩いていますから。「街道歩き」も第3回ともなると、それが自然とできるようになってきました。

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 浦和宿は江戸から約6里(約24km)の宿場で、中山道六十九次のうち、日本橋を出てから3番目の宿場になります。現在は埼玉県の県庁が置かれ、人口120万人の大都市さいたま市の中心に発展した浦和ですが、江戸に近すぎたこともあって、江戸時代の浦和宿の人口は武蔵国に属する板橋宿から本庄宿までの宿場町10箇所のうち8番目と少なく、さほど規模の大きな宿場ではありませんでした。しかし、このあたりで採れる農産物などを商いする市場として発展した“宿”という特徴があります。毎月2と7の付く日に“市”が開かれて、たいそう賑っていたそうです。

 私達は江戸日本橋から京都三条大橋を目指しているのでそれほど感慨も湧かないのですが、反対に京都方面から江戸を目指して中山道六十九次(全長約540km)を歩き続けてきた江戸時代の旅人達がようやくお江戸入りを実感できたのが、今回の第3回で訪れる現在の埼玉県南部の3宿、すなわち、蕨宿(現・蕨市)、浦和宿(現・さいたま市浦和区)、そしてこの後訪れる大宮宿(現在のさいたま市大宮区)だったのではないでしょうか。この3宿を通り過ぎて当時の戸田川(現・荒川)を船で渡ると、いよいよ中山道の江戸の玄関口、板橋宿(現・東京都板橋区)へ足を踏み入れることになるわけですから。前回の第2回の冒頭で、江戸時代の旅人は健脚揃いで、1日に30km〜40km歩き、江戸を出た人達はその日のうちに上尾宿から桶川宿まで歩いたと書きましたが、この3宿あたりですれ違う江戸から京都方面に向かう旅人達はまだまだ元気いっぱいで、旅装束も汗や土埃にまみれてなかったでしょうから、その姿を見るだけでも江戸が近いことを実感したのではないでしょうか。

 今回訪れたこの埼玉県南部の蕨宿、浦和宿、大宮宿の3宿は、それぞれ異なる性格を持った宿場町だったようです。まずスタートの蕨宿。ここは文字通りの宿場町で、私達現代人が思い描く典型的な宿場町だったようです。多くの宿場同様に江戸時代初期に幕府により整備され、20軒を超える旅籠や茶屋が軒を連ね、地域の“ターミナル”として賑わいをみせていました。続く、ここ浦和宿。ここはもともと宿場町というよりも、主要な宿場同士の中継基地的な色彩を持つ宿場だったようです。浦和宿周辺は戦国時代以降野菜などの市が盛んで、江戸時代に入って以降も商家が立ち並び、商家の数が旅籠の数を大きく上回っていたようです。そのため、宿場という点でいえばこの3宿の中で最も小規模な宿場だったようです。そして大宮宿は中山道が整備される以前から、関東一帯に200以上ある氷川神社の総本社である「武蔵国一宮」大宮氷川神社の門前町として栄えていたところであり、いわば後付けとして宿場町が整備されたところでした。

 「中山道浦和宿」の碑を過ぎたあたりに味わいある古い民家(商家)が数軒あり、この辺りから先が浦和宿となります。両側は近代的なビルの連続で、宿場として栄えた時代の面影を探すのはちょっと難しい感じです。その味わいのある古い民家(商家)の一軒が老舗のお茶屋さん、青山茶舗さんです。この青山茶舗さんの裏に私と妻がこのあたりに来ると立ち寄る日本茶カフェ『楽風(らふ)』があります。この『楽風』、青山茶舗の敷地内にある明治24年に建てられた納屋を改造して、1階をカフェ、2階をギャラリーにしたものです。中の壁も昔の納屋のまんまを活かしたもので、歴史を感じさせてくれる空間になっています。カフェと言っても老舗のお茶屋さんらしく、飲めるのは日本茶だけで、コーヒーや紅茶、ジュース等はメニューにありません。この『楽風』は青山茶舗の次男さんご夫妻が経営なさっていて、ご夫婦揃って保育士さん。妻が勤務するさいたま市西区の保育園に保育士として勤務なさっていた元同僚です。そういう関係でこの『楽風』には時々立ち寄っています。青山茶舗のほうは長男ご夫婦が継がれているとのことです。

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 少し先の浦和駅入口交差点向こう側に「浦和宿碑」が建てられています。浦和宿は上町(現在の常盤町)、中町(現在の仲町)、下町(現在の高砂町)の3町からなり、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠15軒、問屋場1軒、高札場1軒、自身番所1軒が置かれていました。また、浦和宿は、東に向かっては日光街道と連絡し、西に向かっては府中通り大山道と結ぶ追分(街道の分岐点)にあたり、交通の要衝でした。浦和宿に入ってすぐの高砂町にある「浦和駅西口交差点」が府中通り大山道との追分で、このまままっすぐ進むと中山道、左(西方向)に折れると府中通り大山道になっています。

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 “大山”とは神奈川県伊勢原市(相模国大山)にある大山阿夫利神社のことです。大山道(おおやまどう)とは、主に江戸時代に関東地方各地から、この相模国大山にある大山阿夫利神社への参詣者が通った古道の総称です。大山は雨乞いに霊験のある山として雨降山(あふりやま)とも呼ばれ、昔から農民達の山岳信仰の対象とされてきました。大山阿夫利神社は、農民達から五穀豊穣や雨乞いの神として信仰され、日照りや飢饉が続くと、多くの農民達が参詣に訪れました。江戸時代には関東地方各地で「大山講」が組織され、「春山」(4月5日〜4月20日)や「夏山」(7月27日〜8月17日)とされる期間には多くの人々が参拝を行いました。特に夏山祭りの初日には、元禄時代以前からのしきたりとして、江戸日本橋小伝馬町の大山講である「お花講」の人達が大山頂上への中門を開きました。道中の参詣者は、白の行衣、雨具、菅笠、白地の手っ甲、脚絆、着茣蓙という出で立ちで、腰に鈴をつけ、「六根清浄」の掛念仏を唱えながら、5~6人、多い時には20~30人が一団となって、大山へ向かいました。また、盆・暮れの借金の回収時期に「大山参り」をしていれば、借金は半年待ってくれるという恩典もあったそうです。最盛期の宝暦年間には、年間約20万人の参詣者を数えたそうです。

 その大山阿夫利神社への参詣者が各地から通る道は「大山道」と呼ばれました。大山道は大山を中心に放射状に広がり、関東地方の四方八方の道がほぼ全て大山に通じるような状況となりました。最も主要な経路としては、東海道の藤沢四ツ谷から相模川の田村の渡しを利用して大山に至る「田村通大山道」があり、また、江戸からの代表的な経路としては江戸城の赤坂御門から出発して箱根の北にある矢倉沢の関所を経由する「矢倉沢往還」がありました(「往還」とは「行き来する」の意味で、「街道」を意味します)。その他にも、枚挙に暇がないほどの経路が開拓されました。第2回で紹介した志村坂上の清水坂のところにあった大山道の道標は、富士山への参詣者も通ったため「ふじ大山道」と呼ばれた街道との追分の道標でした。道標に刻まれた「是より大山道并ねりま川こえ(川越)道」の文字の通り、現在の東京都練馬区北町1丁目で板橋宿の入り口付近で分岐した旧川越街道と交差し、田無(現在の西東京市)、押立の渡しで多摩川を渡り、長沼(稲城市)、図師(町田市)で「府中通り大山道」と合流し大山阿夫利神社へ…というルートでした。

 埼玉県(武蔵国)からも「府中通り大山道」という道がありました(「ふじ大山道」と図師(町田市)で合流する「府中通り大山道」です)。この「府中通り大山道」、日光街道の粕壁宿(埼玉県春日部市)を起点に岩槻(さいたま市)→大宮→中山道浦和宿→荒川・羽根倉の渡し又は秋ヶ瀬の渡し→宗岡村(埼玉県志木市)→清戸(東京都清瀬市)→東村山(東村山市)→甲州街道府中宿(府中市)→中河原の渡し(多摩川)→関戸(多摩市)→乞田→瓜生→小野路(町田市)→図師→木曽→境川→淵野辺(神奈川県相模原市)→磯部の渡し(相模川)→猿ヶ島(厚木市)→下川入村→三田村→八王子通り大山道と合流して大山阿夫利神社へという経路でした。この中の「大宮→中山道浦和宿→荒川・羽根倉の渡し又は秋ヶ瀬の渡し→宗岡村(埼玉県志木市)」がこの浦和宿界隈にあたります。

 この浦和駅西口交差点を左折し西方向に向かう道路、浦和駅西口交差点から県庁前交差点までの短い区間はさいたま市民の間では「県庁通り」と呼ばれていますが、実は埼玉県越谷市の神明町交差点から埼玉県南部を東西に横断して埼玉県入間市の河原町交差点に至る国道463号線の一部になっています。この国道463号線、現在は県庁前交差点から北浦和駅西口交差点まで国道17号線(現在の中山道)と共用し、そこで左折(西方向)し、「埼大通り(浦和所沢バイパス:埼玉大学の前を通るので“埼大通り”と呼ばれています)」に入り、羽根倉橋で荒川を渡って埼玉県志木市上宗岡に抜けるコースを辿っています。埼大通り(浦和所沢バイパス)が開通したのは1993年のことなので、それ以前は県庁前交差点をそのまま直進するコースでした。この県庁前交差点も斜めに道路が交差する不自然な形になっています。その県庁前交差点を真っ直ぐ突っ切り道なりに進むと、ウナギの産地として先ほど述べた別所沼のすぐ横を通り、秋ヶ瀬橋で荒川を渡って埼玉県志木市下宗岡に抜けることができます。この道路が県道40号さいたま東村山線、通称「志木街道」で、この県道40号線「志木街道」がかつての府中通り大山道だったことが容易に想像ができます。羽根倉橋も秋ヶ瀬橋も今でこそ4車線の立派な橋ですが、昔はここを渡し船で渡っていた…と聞いたことがあります。なるほどぉ~。じゃあ、府中通り大山道のうち、羽根倉の渡しで荒川を渡るコースはどこを走っていたのでしょうね。これは後で書きます。

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 歩いて数分先の左側の門前通りと刻まれた石柱のある通りを入ると玉蔵院という寺院があります。本堂横の優美な建物は安永9年(1780年)建立という「地蔵堂」ですが、とても地蔵堂とは思えない本格的な建物です。

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 浦和区高砂の浦和駅西口交差点から北浦和駅東口交差点までの間は県道65号さいたま幸手線を通ります。

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 交差点を渡りほんの10メートルほど先を左に入ると、仲町公園という小さな公園があります。ここは「浦和宿本陣跡」で、本陣跡の説明板と明治天皇行在所跡碑が建てられています。ここに、中山道六十九次のうち日本橋から数えて3番目の宿場である浦和宿の本陣がありました。現在、本陣の建物は解体され、往時を偲ばせるものは何も残っていませんが、本陣の表門だけはさいたま市緑区大間木に移築され、さいたま市指定の有形文化財となっています。

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 さらに数分歩くと常盤公園へ行く道があり、その入口に野菜を売る「農婦の像」と市場通りの説明碑があります。市場があった場所は農婦の像から少し先の慈恵稲荷社頭で「ニ・七市場跡標柱」と「御免市場之杭」が残されており、解説板に次のようなことが記されています。「戦国時代に開設されたものと考えられ、豊臣秀吉の家臣である浅野長吉から喧嘩口論などを禁じた「禁制」が出されている…(中略)…毎月二と七の日に開かれたので二・七市場と言われた」。この「ニ・七市場」は昭和初期まで続いたのだそうです。

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 浦和宿の一帯は、かつては調神社や玉蔵院の門前町として賑わいを見せていましたが、徳川家の直轄領として上町(現在の常盤町)に浦和御殿が設けられたことで宿場町としての整備が行われたとされています。しかし、鴻巣宿に文禄2年(1593年)に鴻巣御殿(結城御殿)が建設されたことにより、慶長16年(1611年)頃には浦和御殿は廃止され、紀州徳川家の鷹狩場御殿となり、その後も「御殿跡」や「御林」の名で江戸幕府に保護されました。その浦和御殿跡が現在の常盤公園です。なるほど、徳川家の御殿跡らしく、なかなか上品な雰囲気の公園です。

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……(その4)に続きます。

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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