2016/07/29

中山道六十九次・街道歩き【第3回: 蕨→大宮】(その5)

 日光街道に続く県道65号線と分岐する北浦和駅東口交差点から数分歩いた左側にある「廓信寺」の入口に、「さつまいもの女王・紅赤の発祥地」と記された説明板があります。このあたり一帯が農業が盛んなところで、「紅赤(べにあか、通称名:金時イモ)」というサツマイモの代表品種の発祥地であることは前述のとおりです。紅赤は明治31年(1898年)、埼玉県木崎村(現さいたま市浦和区)の農家の主婦・山田いちさんが偶然に発見したサツマイモの突然変異種です。従来のサツマイモよりも遥かに甘くて美味しく、翌年に市場に出したところ非常に高値で売れたことから、近隣の農家にたちまちのうちに広まりました。その「紅赤(通称名:金時芋)」を偶然に発見した農家の主婦・山田いちさんがこの廓信寺の墓地に眠っているのだそうです。「金時」と言えば、今ではサツマイモの代名詞のような代表品種なのですが、その発祥の地がこの北浦和なんだとは、初めて知りました。

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 また、しばらく歩いた「大原陸橋東交差点」の手前左側に「庚申塔」が鎮座しています。なんと「見ざる・言わざる・聞かざる」の三匹の猿の前に招き猫が飾られています。猿に猫、珍しい組み合わせです。この大原陸橋でJRの線路群を渡り、さらに現在の中山道である国道17号線を渡ると我が家です。ここが我が家と旧中山道との一番の至近距離の場所です。

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 大原陸橋東交差点のちょっと先、娘が通っている皮膚科医院の前に「一本杉」と刻まれた質素な石碑が立っていますが、ここは日本最後の仇討ちが行われた場所なのだそうです。江戸末期の文久4年(1864年)1月23日の朝に、ここにあった杉の大木の下で、水戸藩家臣・宮本鹿太郎とその後見人3名が、千葉周作門下の元讃岐丸亀藩脱藩浪人・河西祐之助を父の仇として討ち、4年越しに見事本懐を遂げたという、「一本杉の仇討ち」の現場だとされています。へぇ~~~。河西祐之助は乗り合わせた舟中で宮本鹿太郎の父と口論となり、その命を奪ってしまった者であったのですが、その後、それを悔いて僧となるために中山道を江戸へ向かっている途中で、宮本鹿太郎たちの待ち伏せに遭ったのだそうです。 河西祐之助を哀れんだこの土地の村人が供養塔を建てたのですが、今ではそれも失われ、「一本杉」と刻まれた石碑が旧中山道の脇にひっそりと建つばかりになっています。ちなみに、河西祐之助の遺骸は「さつまいもの女王・紅赤の発祥地」の説明版のあった廓信寺に葬られているのだそうです。

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 私が中学・高校時代を過ごした香川県(讃岐の国)丸亀に所縁のある方が、日本最後の仇討ちによりこんなに我が家から近いところで殺害され、眠っているのですね。知りませんでした。そうそう、「出世の石段」として知られる東京都港区愛宕にある愛宕山神社。この「出世の石段」は、寛永11年(1634年)2月25日、徳川秀忠の三回忌として芝・増上寺参拝の帰り、将軍・徳川家光が山上にある梅が咲いているのを見て、「梅の枝を馬で取ってくる者はいないか」と言ったところ、讃岐丸亀藩の家臣、曲垣平九郎が見事馬で石段を駆け上がって枝を取ってくることに成功し、曲垣平九郎は馬術の名人として全国にその名を轟かせた…という逸話から来ています。丸亀の人間はけっこうヤンチャ者が多いようです。私を含め…(笑)。

 JR与野駅東口交差点です。我が家はJR与野駅の西口から真っ直ぐ西方向に徒歩12~3分くらいのところにあります。先ほども書きましたが、JRの広い線路群に遮られて、生活圏がまるで異なるので、私はこんなに近くにあっても滅多にこのあたりに来ることはありません。ちょっと勿体ない感じさえしちゃいました。

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 この与野駅東口交差点のむかって右あたりには、数年前まで「半里塚の欅」と呼ばれた欅(ケヤキ)の大木が聳えていました。あまりに古くて倒木の危険性があるということで、現在は切り倒されています。実はここも追分(街道の分岐点)になっていて、この与野駅東口交差点を左(西方向)に折れ、JR与野駅を突っ切ると、西口から真っ直ぐ西に延びる道路があります。前述の埼玉大学教育学部社会科教育講座人文地理学・谷謙二先生の研究室が公開しているさいたま市の古地図によると、明治時代には与野駅の南北で東北本線の線路を踏切で渡る構造になっていますが、JR(その昔は国鉄)が線路を引いて分断するまでは、与野駅東口交差点にあった追分までこの道路が繋がっていたように思います。「半里塚の欅」と呼ばれた欅(ケヤキ)の大木も、おそらくその追分の位置を示すランドマークだったように推察されます。

埼玉大学教育学部社会科教育講座人文地理学・谷謙二研究室HP

 下の写真は与野駅東口交差点から与野駅方向を写した写真です。与野駅の駅舎が見えません。与野駅は突き当たりを左に曲がったところにあります。なので、この道路は突き当たりのところに踏切があって、かつては真っ直ぐ西方向に伸びていたことが容易に想像できるかと思います。この道路を真っ直ぐ西方向に伸ばすと、与野駅西口から伸びる道路に直結します。ちなみに、与野駅の開業は大正元年(1912年)、その前は日本鉄道本線の大原信号所が置かれていました。

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 京浜東北線で南隣りの北浦和駅が開業したのは与野駅から遅れること24年の昭和11年(1936年)のことです。このように与野は昔からあった集落で、府中通り大山道の羽根倉の渡しルートがそこを追分(分岐点)として通っていたことは十分想像がつきます。現在、羽根倉橋に向かっては北浦和駅から埼大通りが真っ直ぐほぼ直線で伸びていますが、この埼大通りの沿線は昔は低地で、一面の田圃が広がっていて、住宅地として開発されたのも昭和の時代になってからと推察されます。

 全くの余談ですが、浦和駅の開業は明治16年(1883年)で、大宮駅の開業は明治18年(1885年)です。岩倉具視をはじめとする華族などが出資して設立された日本初の私鉄である日本鉄道によって1883年に東京から北へ向かう初の鉄道である上野〜熊谷間の路線が開業した当初、県庁所在地である浦和駅の次の駅は上尾駅で、大宮に駅は設けられませんでした(この鉄道に関しては、昨年のNHKの大河ドラマ『花燃ゆ』の中でも出てきました)。今や鉄道の街として有名な大宮も、日本鉄道の開業当時、大宮宿には243戸の家しかなかったことや、当時は機関車の牽引力が低かったため、短い間隔での駅設置はしないことが基本だったことが原因で、大宮に駅が作られたのは日本鉄道の上野〜熊谷間開業の2年後のことです。

 与野に駅が作られたのは前述のように29年後の大正元年(1912年)のことで、その当時は機関車の牽引力が向上したことで、駅間距離を短くすることが可能になったからと推察されます。北浦和駅は東北本線列車線の赤羽駅〜大宮駅間が直流電化され、省線電車と呼ばれた現在の京浜東北線が開業した昭和7年(1932年)のさらに4年後のことです。こういうところからも、町の発展の歴史を読み解くことができます。

 また、JR与野駅の東口駅舎のあるところは地名でいうとさいたま市浦和区上木崎で、旧与野市(現さいたま市中央区)ではありません。JRの線路群が区の境になっていて、西口駅舎のあるところから西がさいたま市中央区下落合で、旧与野市です。ちなみに、昔から与野の中心地は、旧中山道沿いのJR与野駅周辺ではなく、現在、中央区役所(旧与野市役所)も置かれているJR埼京線の与野本町駅周辺でした。

 谷謙二先生の研究室が公開しているさいたま市の古地図によると、その昔、この与野駅東口交差点にある追分から西方向に延びる道路が、今のJR与野本町駅付近(現在の我が家のごく近所)で浦和宿のはずれの浦和橋のたもとから延びてくる「府中通り大山道の羽根倉の渡しルート」と合流していました。そう言えば、この道路もミョウチクリンに左右に細かくうねるように伸びる道路で、浦和橋からやって来る道路と合流する三叉路も、必ずしも直角に道路が合流する形ではなく、少しだけですが斜めに合流する形になっています。なるほどぉ~。粕壁(春日部)、岩槻、大宮方面からやって来た大山詣での旅人達は、いったん浦和宿に入るのではなく、この与野駅東口交差点のところで中山道から分かれて、直接羽根倉の渡しを目指したわけですね。

 ちなみに、このルート、基本的にさいたま市内で終始する道路なのに、さいたま市の市道ではなく、ほとんどが埼玉県の県道になっています(複数の県道の組み合わせですが…)。もっと道幅が広くて、交通量も多い市道が周囲には何本もあるのに、このルートはほとんどが県道です。県道であるべき理由が交通量以外にもっとほかにありそうです。歴史であるとか…。今度、そういう目で眺めながら、「府中通り大山道の羽根倉の渡しルート」を探し、週末ウォーキングがてら、個人的にさいたま市内の街道歩きをやってみても面白いかな…と思っています。

 (あっ、そうか! 現在の我が家の地名である“下落合”の“落合”は、これまで河川が合流する(落ち合う)ところなので“落合”なのだと思っていましたが、もしかしたら中山道と府中通り大山道といった街道が合流する(落ち合う)ところという意味の“落合”なのかもしれません。そのほうが地形からもしっくりきます。ちなみに、旧中山道と府中通り大山道との追分に近い与野駅西口が下落合1丁目ですし、2本の府中通り大山道が合流する追分があるところが下落合6丁目で、その追分のすぐ近くに下落合氷川神社があります。)


……(その6)に続きます。

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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