2016/08/03

中山道六十九次・街道歩き【第3回: 蕨→大宮】(その7)

 さいたま新都心駅を過ぎると右側に「氷川神社一の鳥居」が見えてきます。その一の鳥居から神社に通じるケヤキ並木の長い参道が遥か彼方まで真っ直ぐに伸びています。参道口には「武蔵国一宮氷川大明神」の社標と、安政3年(1856年)に建立された常夜灯、「宮まで十八丁」と書かれた碑があります。かつて中山道はこの大宮氷川神社の参道を通っていたのですが、神社の参道に牛馬が通るのはあまりに畏れ多いと、寛永5年(162/8年)に新しい道路が作られ、参道沿いの民家を含め移転し、新しい街づくりが行われたのが、後の中山道、現在の旧中山道です。ここからが大宮宿です。大宮の地名は、氷川の大宮、すなわち氷川神社にちなみます。

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 前述のように、大宮宿は中山道が整備される以前から、関東一帯に200以上ある氷川神社の総本社である“武蔵国一宮”大宮氷川神社の門前町として栄えていたところであり、いわば後付けとして宿場町が整備されたところでした。江戸初期には、神社の参道自体が中山道として利用されていたようなのですが、その後、中山道が整備されて旅人の数が急増したこともあって、寛永年間に参道脇に新たな街道が造られ、また新しい街づくりが行われて宿場町が形成されました。これが今に残る旧中山道(県道164号線)で、宿場の規模こそ蕨宿に劣ったものの、大宮氷川神社の門前町としての賑わいがあり、参勤交代の大名などは好んでこの地で宿泊したと言われています。ちなみに、中山道の前身となる街道は、戦国時代に後北条氏によって整備されたのですが、その時代には大宮に宿場というものは無く、浦和宿を過ぎると北隣の宿場は次の上尾宿で、大宮は単なる馬継ぎ場でした。新たな街道が造られ、新しい街づくりが行われて大宮に宿場町が形成されたのは天正19年(1591年)のことです。

 大宮宿は、最盛期には本陣1軒、脇本陣9軒と大変賑わっていた宿場だったのですが、今の大宮はすっかり近代的な商業都市に生まれ変わって、宿場時代の史跡がほとんど残されておらず、案内の表示も少ないために江戸時代の面影を探すことは極めて難しくなっています。それでも丹念に探すと幾つかの江戸時代のものが見えてきます。

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 大宮氷川神社の鳥居を右に見ながら旧中山道を真っ直ぐ進み、かつて大宮宿の南の入り口であった吉敷町交差点のあたりまでくると、交差点の向こうに悲しい歴史を持つ小さいな小さな「安藤橋碑」がポツンと立っています。安永4年(1775年)、大宮宿で85軒の建物が焼けるという大火が発生しました。この時、安藤弾正という方が幕府の御用金を施して人々を救ったのですが、事前の幕府の許可を得ずに、独断でやったことが後で発覚して、責任を取って切腹。しかし、地元の人々はこの安藤弾正の徳を永久に伝えるため、吉敷町のこの場所にあった東西に流れる排水路に架かる石橋を「安藤橋」と名付けたのだそうです。現在はその記念の碑だけが残り、排水路が付け替えられたのか、実際の橋はありません。

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 吉敷町交差点の先、左側に立派な屋敷門が見えてきます。「加賀前田家の屋敷門」と云われるこの門は、前田家江戸屋敷から貰い受けたものだそうです。加賀藩前田家も参勤交代の途中で、この「武蔵野国一宮」大宮氷川神社の門前町である大宮宿に泊まっていたのでしょう。

 再び右側に移り、郵便ポスト前の路地を入ると塩が奉納された「塩地蔵尊」が鎮座しています。このお地蔵様には塩にまつわる言い伝えがあります。ある時、二人の娘を連れた浪人がこの地で病に倒れました。病状は日一日と重くなっていったのですが、ある晩、夢枕に現れた地蔵が塩断ちするよう告げ、早速娘二人が塩断ちしたところ父の病がたちまち全快。そこで、沢山の塩を地蔵様に奉納し、それからは幸せに暮らしたのだそうです。へぇ~~~~~。

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 塩地蔵から数分歩いて第四銀行手前を右に入ると「涙橋碑」があります。先ほどの高台橋近くにあった処刑場へ送られる罪人と最後の涙の別れとなった橋だったので、いつの頃からか涙橋と呼ばれるようになったのだそうです。

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 この辺りから先が脇本陣や旅籠が軒を連ねていた大宮宿の中心街となります。

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 前述のように、大宮宿には本陣1軒、脇本陣は9軒で中山道の宿場としては最多。問屋場4軒、旅籠25軒という大きな宿場町だったのですが、現在は「内倉新右衛門本陣」があった場所だけが「本陣跡」として今も表示が残っているだけです。大宮駅東口に向かう高島屋の先の交差点を過ぎて、「すずらん通り」という路地を左に入ると説明板が建っています。内倉新右衛門本陣は最初の本陣で、その後、少し先の山崎本陣に変わりました。内倉新右衛門本陣の跡は現在は「旅籠屋次郎」という居酒屋になっています。

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 また、紀州鷹場本陣(北澤本陣)が現在の高島屋の場所にありました。前述のように大宮宿にはそのほかに9軒の脇本陣があったのですが、問屋場、高札場などを含めた宿場時代の案内表示が全く無いため、その場所を確認することは今ではできません。

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 明治時代に入り、中山道の街道としての重要性の低下に伴い、大宮宿の宿場町としての賑わいは終わりを告げ、明治以降の大宮には日本鉄道(現在の東北本線)の分岐点として鉄道駅が設けられ、また国鉄の大宮工場が設置されて、大宮は鉄道の町として姿形を変え、大いに発展してきました。今も大宮はJRだけでも宇都宮線(東北本線)、高崎線、川越線、埼京線、京浜東北線、東北新幹線、上越新幹線、北陸新幹線が分岐する交通(鉄道)の要衝になっていて、鉄道博物館も設置されています。

 今回の第3回は、大宮駅の東口に近いこの氷川神社参道にある緑地公園がゴールでした。次回『中山道六十九次・街道歩き』の第4回は、大宮宿を出て、上尾宿を経由し、桶川宿までの旧中山道(埼玉県道164号線)を歩きます。

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 今回第3回は、少し“道路”について注目しながら街道歩きを行ってみました。町に歴史があるように、道路にも必ず歴史があります。いつ頃作られた道路なのか、どことどこを結ぶ道路なのか、何のために作られた道路なのか…、調べてみるといっぱい興味深いことが見えてくる感じがします。現在、私達がふだん当たり前のように使っている道路の中にも、もしかしたらその昔、多くの人々が往来した主要な道筋だったところがあるかもしれません。

 特に、「旧街道」と呼ばれている道路。旧街道とは、主に近世(江戸時代)以前に開かれていた道路のことを指します。東海道や中山道といった「五街道」がその代表格ですが、それ以外にも山陽道や山陰道のように日本を縦断し何百kmにも及ぶ長いものや、川越街道や水戸街道、青梅街道、大山道のように数10kmから100km前後の距離のもの、さらには地域の主要な町と町を結ぶ数kmから数十km程度のものまで、旧街道と呼ばれる道路がたくさんあります。このような旧街道は現在は国道や県道として整備され、車の通行のために拡張されている部分も多いのですが、 新道やバイパスが作られたことによりメインのルートを外れて旧道、さらには廃道となったような場所も多々あります。昔さながらの道幅や古い町並みが残る通りを歩いたり、古地図や資料をもとに現在もひっそりと残る旧街道を見つけて歩くのも、また楽しいことかな‥‥と思います。鉄道趣味の中にも「廃線跡巡り」というジャンルのものがあり、それを主たる趣味とする「廃線跡マニア」と呼ばれる人達がいらっしゃいます。「街道歩き」はその「廃線跡巡り」と通じるものがあります。

 古来から人々の往来の多かった旧街道には、そこに住む人々、そこを通った人々の歴史がたくさん詰まっています。そこを歩くことで、何百年もの間に同じ道筋を歩いた人々の足取りを追い、それらの人々の旅を追体験することにもなります。主要な道筋だったからこそ、そこに残る社寺仏閣や名所旧跡、土地の名物も多く、それらを訪ね歩くのもまた楽しそうです。特別な観光地でない極々普通の町に残る歴史的な何かを発見しながら歩くことができるのが、街道歩きの真の醍醐味と言えそうです。それにしても、古地図との対比で昔の街道を探るのは、メチャメチャ面白いです。いろいろなことが見えてきます。

 今回の中山道六十九次街道歩きの第3回は、私が28年間も住んでいるさいたま市内を辿るコースということで、新たな発見も少なく、書くこともほとんどないのではないか…と心配していたのですが、事前のそういう予想に反して、今回もいっぱい新たな発見がありました。地元なのに知らないことだらけでした。そして、今回、旧中山道を歩いたことで、それまで断片的に知っていたことの点が線になって繋がり、それが面になって広がり…という具合に、「あぁ、そういうことだったのか!」と見えてきたことがいっぱいあります。こういうところは地元ならではのことです。で、気がつけば3万2千字を遥かに超え、(その1)から(その7)に渡るこんな分量の超大作の文章になってしまいました。

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 せっかく大宮に来て大宮氷川神社を素通りしたら罰が当たってしまう…ということで、大宮氷川神社に参拝して帰宅しようとしたのですが、この日は氷川神社の奥にあるNACK5スタジアムでサッカーJ1の大宮アルディージャ対横浜Fマリノスの試合があるようで、レプリカユニフォームに身を包んだ両チームの大勢のサポーターが氷川神社に続く参道を歩いていました。その数に圧倒されたので、この日の氷川神社参詣は断念し、真っ直ぐに帰宅することにしました。ここまで来ると、自宅まで歩いても帰れそうな距離ですが、さすがに疲れたのでJR埼京線で2駅……(笑)


――――――――〔完結〕――――――――

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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