2016/09/07

中山道六十九次・街道歩き【第4回: 大宮→桶川】(その5)

次の交差点の右側、大黒屋化粧品店の傍らに桶川宿の入り口を示す『木戸跡』の石碑が建っています。ここから桶川宿に入ります。

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右手の民家の屋根の上に小さな鍾馗様が乗っていました。屋根の上に鍾馗様を飾るのは、上尾宿だけのことではなさそうです。

桶川宿は中山道で江戸・日本橋を出てから6番目の宿場町です。日本橋からの距離は10里14町(約40.8km)。ちょうど江戸を出立した旅人が1日で歩くことができる最長の道程とほぼ等しく、前述の1つ手前の上尾宿(日本橋から9里16町、約37.1km)とともに、宿場町として絶好の位置にありました。約40.8kmということはほぼフルマラソンと同じ距離です。『中山道六十九次・街道歩き』は今回が4回目。私達は延べ4日かけて日本橋からこの桶川宿まで歩いて来たのですが、昔の人は早朝に出立して日が暮れるまでのその日のうちにここまで歩いて来たのですね。私達のように途中あちこち見物しながらの旅ではなく、ただひたすら歩くだけだったのでしょうが、メチャメチャの健脚ぶりに、ただただ驚いてしまいます。凄い! 運動不足の現代人の私なんぞ、大宮宿からこの桶川宿の10km弱を歩くのでも精一杯って感じですから。

桶川宿は寛永12年(1635年)に設置された宿場です。 当初わずか58軒に過ぎなかった宿内家数は、「中山道もの」と謳われた紅花等の染料や農作物の集散地となっていた天保14年(1843年)頃には347軒に達し、経済的にも文化的にも大いに繁栄しました。本陣は1軒、脇本陣は2軒、旅籠は36軒と、旅籠の数では上尾宿に及ばないものの、堂々とした宿場町だったようです。

加賀藩前田家を始めとする大名の多くが、桶川宿の府川本陣を参勤交代の際の定宿としていました。水戸藩第9代藩主・徳川斉昭が足跡を残していることも知られています。また、文久元年11月13日(1861年1月2日)には、皇女和宮が公武合体政策の一環で徳川将軍・家茂の御台所として降嫁すべく江戸へ下向した際、この桶川宿に宿泊しています。

この桶川宿に限らず、これまでの中山道の宿場町の紹介の中にも必ず出てきますが、皇女・和宮の下向は中山道随一のビッグイベントだったようで、中山道沿線の各地にその時の逸話の数々が残されています。ちなみに、降嫁の行列は警護や人足を含めると総勢約3万人にのぼり、行列の長さは約50km、御輿の警護には12藩、沿道の警備には29藩の藩士が動員されたのだそうです。また、和宮が通る沿道では、住民の外出・商売が禁じられたほか、行列を高みから見ること、寺院の鐘等の鳴り物を鳴らすことも禁止され、犬猫は鳴声が聞こえないくらいに遠くに繋ぐこととされ、さらに火の用心が徹底されるなど厳重な警備が敷かれた‥‥と伝えられています。

行列の総勢は約3万人、行列の長さは約50kmですか‥‥、想像を絶する規模の行列です。私がもしこの行列の企画を任されたとしたら、宿泊場所の確保や食事の確保といった入り口の極めて基本的な部分で、すぐにお手上げになっちゃうでしょう。絶対に失敗が許されない重いプレッシャーがかかる中で、この企画を立案し、それを実行し、そして成功に導いた人が絶対にいた筈で、企画屋(システムプランナー)を自認している私としては、企画屋として天才とも言えるその方に是非会って教えを請いたいものだ‥‥と思っています。この“実質的な”責任者って、必ずしも天皇家や幕府から直接命じられた公家や大名といった官僚の中にいたとは思えませんので、今ではきっと歴史の闇の中に隠れてしまっていると思っています。それが“プロの裏方”というものです。

ただ、そういう“裏方のプロ”って、心の底では自分のやった業績について後世の人に認めて欲しい、それも自分のやったことの真の意味での価値や大変さがわかる人にだけでいいから認めて欲しいと思っている筈です(それがプロフェッショナル、職人としての企画屋というものです)。もし私に伝記小説、歴史小説を書く機会が与えられたなら、この皇女和宮の降嫁の行列の“実質的な”責任者を取り上げてみたいなぁ〜‥‥って中山道を歩きながら思っていました。

皇女和宮の降嫁の行列の“実質的な”責任者がどなたであったのかはいつか調べてみようと思っていますが、現代に生まれ変わってもオリンピックや万国博覧会といった国家的なプロジェクトを責任者として任せてもいいくらいの優れたプランナー、プロジェクトマネージャーに間違いなくなられるだろうと私は思います。と言うか、その方に2020年の東京オリンピックの企画を全面的にお任せしたいです! 絶対に成功に導いてくれそうですから(^_^)v

このように、皇女和宮の降嫁、すなわち幕末に行われた「公武合体」とはそのくらい重要なことだったということです。行列の総勢約3万人、行列の長さ約50kmという数字がそのことを如実に物語っています。その公武合体を行ったにもかかわらず徳川幕府の求心力低下にブレーキは利かず、雪崩をうつように大政奉還に向かっていくことになります。「公武合体」なんて今の中学校や高校の歴史の教科書ではサラッと単語が記載されているくらいの扱いなのではないかと思いますが、調べてみると奥がメチャメチャ深そうで、好奇心がくすぐられます。

前述のように、桶川宿は近隣の村々で生産された農作物の集散地でもありました。大麦や甘藷(かんしょ。サツマイモのこと)など農作物のほか、「武州藍」と呼ばれた染料の藍、「桶川臙脂(えんじ)」と呼ばれた紅花なども取引されました。なかでも紅花は桶川宿を中心とした桶川郷一帯で盛んに栽培され、出羽国最上郡の村山地方(山形県)特産の最上紅花に次いで全国第2位の生産量を誇っていた地場の特産品でした。桶川郷での紅花の栽培は、桶川郷内の上村の農家の七五郎が、江戸の小間物問屋「柳屋」から紅花の種を譲り受けて栽培したのが始まりであると、江戸の勘定奉行の記録に記されています。出羽国最上郡に比べて気候が温暖な桶川郷周辺では、紅花を出羽国最上郡よりも早く収穫することができたため、紅花商人達からは「早場もの」「中山道もの」として喜ばれたのだそうです。

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当時の隆盛は稲荷神社の石灯籠や在地問屋の須田家の古文書、紅花仕入れ帳などの記録に残されています。前述のように、宿場開設当初の寛永15年(1638年)に58軒であった宿内家数は、天保14年(1843年)には347軒、人口も1,444人に達し、その発展ぶりが伺えます。当時の紅花の取引価格は、田1反あたりの米収穫量がおよそ2両だったのに対して、紅花はその2倍の4両で取引されていたそうで、しかも幕末には本場と言われる最上紅花を上回る相場価格で取引きされたほどだそうで、桶川は紅花がもたらす富によって大いに潤ったのだそうです。日本鉄道本線の駅も上野〜熊谷間の開業の2年後の明治18年(1885年)3月1日に、大宮駅や(鴻巣〜熊谷駅間の)吹上駅とともに開業されました。遠方の商人も集まるようになると、富とともに文化ももたらされました。今も残る桶川祇園祭の山車の引き回しは京の都から、祭囃子は江戸から採り入れ、桶川で独自に発展した行事です。今年も私が歩いた7月10日の翌週の7月15日(金)と16日(土)の2日間、桶川祇園祭が開催されるようで、町中のいたるところにその開催を知らせるポスターが貼られ、山車の作製をはじめとした祭りの準備も着々と進んでいるように見受けられました。

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しかし、紅花の取引で隆盛を誇った桶川の街も明治維新後は化学合成染料の導入などから一気に衰退し、紅花の取引きも消滅してしまいました。現在、桶川市では平成6年(1994年)以来、市の発展をもたらした紅花を蘇らせ、街づくりのシンボルとする「べに花の郷づくり事業」を展開しているそうです。

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桶川宿はあまり大きな宿場ではありませんが、今も蔵造りの建物が残るなど宿場時代の面影をいたるところに感じることがでます。街道の左側、ちょっと先に「武村旅館」と看板が掲げられた建物があります。今も営業を続ける由緒ある旧旅籠屋です。江戸時代、紙屋半次郎なる人物がここで旅籠を営んでいたそうなのですが、その当時の間取りが今も引き継がれているという貴重な建物です。

すぐ隣の鮮魚店稲葉屋本店もなかなか懐かしい佇まいを見せています。この桶川は国道17号線が旧中山道から少し離れたところを通っているため道幅改修などのあおりをそれほど受けておらず、さらに大東亜戦争の戦災も免れたため、今も木造の古い建物が幾つも残されていて、かつての宿場町の面影を色濃く残っており、見ていて楽しい街です。

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その武村旅館から歩いてすぐの路地奥に「浄念寺仁王門」があります。この朱色に塗られた仁王門は元禄14年(1701年)に再建されたもので、楼門下の一対の仁王像は明和5年(1768年)に開眼されたものです。浄念寺にはほかにも見どころが多く、その1つが「石塔婆」です。古いものは正和4年(1315年)、新しいものでも天文19年(1550年)のものと言いますからそうとう歴史のあるものばかりです。その他にも元禄の時代に水谷某の畑から掘り出されたという不動尊や、狩野派絵師の碑などもあります。

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今回はここまで。かつての宿場町の面影を色濃く残す桶川宿はなかなか魅力的な街並みではあるのですが、真夏の炎天下、10km以上歩いてきたので、もう身体はグダグダ。時計を見ると、時刻も17時を過ぎています。桶川宿のここから北側は、次回、体力が十分に残っている時にゆっくり楽しもうと思います。

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JR桶川駅からJR高崎線でさいたま市の自宅に帰ることにしました。前述のように、JR桶川駅は日本鉄道本線の上野〜熊谷間が開業した2年後の明治18年(1885年)3月1日に、大宮駅や吹上駅とともに開業された歴史の古い駅なのですが、今は跨線橋と駅舎を一体化した近代的な橋上駅になっています。ただ、中山道に近い側の東口駅前には、開業当時からの面影が今も残っています。東口には旧中山道も通っていて、市役所をはじめとした桶川市の中枢機能が揃っているほか、駅前商店街もあったりするのですが、とにかく狭いんです。中山道に続く駅前商店街も幅が狭い。首都圏でも私鉄の駅でこういう感じの駅を数多く見掛けるのですが、JRの駅ではなかなか見掛けません。おそらく日本鉄道本線の駅が開業した明治18年(1885年)当時からこんな感じだったのではないでしょうか。

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駅前には昔からあるようなこのような立派な家があったりもします。
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今はタクシーの車庫になっていますが、駅前に幾つか並ぶトタン屋根の車庫は、かつてはここを始点に近隣の街々を結んでいた路線バスの車庫と言うか、乗り場(バスセンター?)だったところなのでしょう。おおっと、これは!‥‥。駅前やバスの車庫などの狭い場所で大型バスを方向転換する際に用いられる転車台です。かつては小型のボンネットバスが主体だったのですが、戦後、路線バスの大型化に伴い、この狭い駅前では方向転換はとてもじゃあないけど無理‥‥ってことで、こういう設備を導入したのではないかと思われます。ただ今は、乗客の需要が減ったのか駅前に乗り入れてくるのは中型の路線バスや小型のコミュニティーバスばかりなので、せっかくの転車台も使われていないようです。

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まぁ〜、とにかく疲れました。ただ、達成感に溢れた気持ちのいい疲れです。次回、第5回は桶川宿から鴻巣宿まで歩きます。板橋宿を出て蕨宿、浦和宿、大宮宿、上尾宿とここまではほぼ1里ちょっとの間隔で宿場があったのですが、この桶川宿から先は次の宿場までの間隔が開きます。桶川宿から鴻巣宿までは2里ちょっと。真夏の炎天下の中を歩くのはちょっとキツそうなので、9月に入ってから再開することにしました。


――――――――〔完結〕――――――――

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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