2016/10/12

中山道六十九次・街道歩き【第5回: 桶川→鴻巣】(その4)

昼食を終え、街道歩きを再開しました。北本市はさして大きな町ではなく、東間浅間神社を過ぎると、ほどなく鴻巣市に入ります。

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「鴻巣宿加宿上谷新田」と刻まれた石碑が建てられています。ここから鴻巣宿となります。道の両側に人形を扱う店が目につくようになってきます。

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鴻巣と言えば、人形の街として有名です。江戸時代から受け継がれている雛人形の生産地で、同じく埼玉県の岩槻、江戸の日本橋と並び「関東三大雛(ひな)市」の1つに数えられています。特に着物の着付けでは関東一と評判だったようです。旧中山道を鴻巣市に入ってすぐのあたりは、その名も「人形町」と言う地名になっています。このあたりは、江戸時代は上谷新田村と呼ばれた鴻巣宿のはずれの集落(“加宿”とはそういう意味のようです)で、旗本・藤堂家の知行地でした。村民の多くは、農閑期に雛人形「鴻巣雛」を製作して、各地に売ることを生業とし、その後、幟・兜・菖蒲刀・破魔弓・羽子板・盆華などの製造も盛んに行われるようになり、伝統ある地場産業である「雛人形の町」として「人形町」と名付けられました。

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鴻巣市産業観光館「ひなの里」に立ち寄りました。

鴻巣市産業観光館「ひなの里」公式HP

鴻巣の雛人形は、江戸時代初期、京都伏見の人形師が鴻巣に移り住み、影土人形を造ったことが始まりだと言われています。江戸時代から明治時代初期に作られた「鴻巣雛」には鳳凰の刺繍が施され、着物の生地はわざわざ京都西陣から買い付けいていたそうです。メチャメチャ豪華です。こういうところ、中山道で京都と直結していたことが窺えます。明治になると「県内では越谷6軒、大沢3軒、岩槻3軒、に比べて、鴻巣の人形業者31軒、職人300人」という記録があるほどの活況ぶりだったそうです。

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鴻巣特産品と言えば、雛人形だけでなく、「赤物」と呼ばれる赤い染料を使った玩具や土産物も有名です。獅子頭、ダルマ、干支など、様々にかたどっており、魔除けの意味もある赤色で染められています。一つ一つが手作りであるため、それぞれの表情は微妙に異なっていて、そこに味わい深さを感じます。ちなみに、この「赤物」は、平成23年に国の無形民俗文化財に指定されています。

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鴻巣市には古墳時代後期の東日本最大級の埴輪生産遺跡である『生出塚埴輪窯跡(おいねづかはにわかまあと)』があります。鴻巣市産業観光館「ひなの里」の正面には、この生出塚埴輪窯跡はJR高崎線の鴻巣駅の北東約1kmから東方約2kmにかけて立地し、昭和51年(1976年)に埴輪窯跡が発見されました。昭和54年(1979年)には埼玉県教育委員会の発掘調査が開始され、以後、現在まで分布調査や発掘調査が40回以上にわたって行われています。その結果、埴輪窯跡を中心とした生出塚遺跡内から40基の埴輪窯跡および2基の埴輪工房跡、及び、粘土採掘坑1基、工人と思われる人々の住居跡9軒、土坑1基などが確認され、埴輪製作に関わるこれら一連の遺構の検出によって、東日本では最大級、日本国内でも屈指の埴輪生産遺跡であることが判明しています。

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埴輪生産は5世紀末から6世紀末あたりまでの約100年間継続されたものと推定され、遺跡の周囲には生出塚古墳群と呼ばれる多数の古墳が分布していて、そこから多数の埴輪が出土されています。また鴻巣市に隣接する行田市にある埼玉(さきたま)古墳群、坂巻14号墳はじめ埼玉県内の諸古墳、また、千葉県や東京都、神奈川県など東国、特に南関東各地の古墳から、生出塚埴輪窯跡で生産されたとみられる埴輪が多数出土しています。

現在、生出塚遺跡から出土した埴輪41点、土師器5点、石製品6点および埴輪残欠18点が「埼玉県生出塚埴輪窯跡出土品」の名称で国の重要文化財に指定されています。指定された埴輪のなかでも武人埴輪1体と貴人埴輪3体は、それぞれ像高130cm前後の全身像を表した人物埴輪で、埴輪と言えばこれ‥‥ってくらいにどなたも一度は目にしたことがあるであろう有名なものです。重要文化財に指定された出土品は、現在、鴻巣市文化センター「クレアこうのす」の歴史民俗資料コーナーに展示されています。私は昨年、ザ・ベンチャーズのコンサートを聴きに「クレアこうのす」を訪れた際に現物を見ましたが、その時は「なんでこのようなものがこの鴻巣に?」って驚いたものです。一見の価値があります。

鴻巣市産業観光館「ひなの里」には明治時代に建造された土蔵と、季節ごと色とりどりの花が楽しめる中庭があり、近所の方や私達のように街道ウォーキングで立ち寄った方々がホッと安らげる憩いの空間になっています。この「ひなの里」の土蔵は埼玉県の「景観重要建造物」に指定されています。

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“川幅うどん”です。これは鴻巣市の西部、隣接する比企郡吉見町の境(埼玉県道27号東松山鴻巣線の御成橋)を流れる荒川の川幅が2,537メートルと日本一の長さなのに因んで商品化された鴻巣市のご当地麺料理です。知名度は低いのですが、麺の幅が7cmから8cmといった様に通常の麺類より異様に幅広く、麺の幅の広さでは日本一とテレビの旅行番組等で時々紹介されます(麺の幅の広さでは桐生市の「ひもかわうどん」と双璧をなします)。ですが、この“川幅うどん”、昔からこの地で食べられていた麺ではなく、2009年に鴻巣市の“まちおこし”の一環として開発されたいわゆる“キワモノ麺”です。最近開発された“キワモノ”ではあるのですが、埼玉県の主催による埼玉県内のご当地グルメを競う埼玉B級ご当地グルメ王決定戦で昨年(2015年)とうとう優勝を果たしたそうなので、それなりに美味しいのでしょう。麺好きの私としてはお土産に買おうかどうか迷いましたが、今回は遠慮しておきました。

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鴻巣市では、住居表示に関する法律(住居表示法)の施行により消滅した昔の町名を復活させる運動が盛んで、行政上の地名の他に、昔の旧小字や旧町名、また通称として使用されていた地名の表記が町の至るところに見られます。前述の人形町をはじめ、七軒町、御成町、元市町、仲町、相生町、雷電町‥‥、なかなか味があっていい取り組みですね。

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しばらく歩き、左に入ると徳川家康ゆかりの勝願寺という古刹があります。この勝願寺は文永年間(1264~75年)の創建で、天正元年(1573年)に現在の地に再興されたのだそうです。浄土宗関東18壇林(僧侶の大学のような学問所)の一つで、将軍家より御朱印が与えられ、徳川家の三つ葉葵を使用することを許されている寺院です。広々した境内に格式ある仁王門があります。江戸時代の建物群は、明治3年の大旋風による被害と、明治15年に起こった火災によって殆どが失われてしまい、現在の本堂は明治24年、鐘楼は明治43年、仁王門は大正9年にそれぞれ再建されたものです。本堂等の屋根に徳川家の三つ葉葵の紋瓦があるのが徳川家ゆかりの古刹であることを物語っています。家康の次男、結城秀康が結城から越前北ノ庄へ転封になった時、結城城の御殿を全てこの寺に賜わったといわれています。

勝願寺には家康の家臣である伊奈忠次・忠治父子の墓があります。『中山道六十九次・街道歩き【第3回: 蕨→大宮】(その1)』でもご紹介しましたが、江戸時代初期の関東郡代であった伊奈忠次・忠治父子は、徳川家康の命を受け、現在の元荒川を流れていた荒川の流路を入間川へ付け替える大工事や、利根川の流路を太平洋へと付け替える利根川東遷事業(当時、江戸湾に向けて流れていた利根川の流れを現在の埼玉県栗橋市付近から東に移し、台地を切り通し、多くの湖沼を結びつけて銚子に流すようにした河川改修事業)を成し遂げた大きな功績を上げられた方です。この伊奈忠次・忠治父子の功績により、今のような関東平野が生まれたと言っても過言ではありません。

中山道六十九次・街道歩き【第3回: 蕨→大宮】(その1)

さらに、勝願寺には現在放映中のNHK大河ドラマ『真田丸』でも重要な登場人物の墓が幾つかあります。ここに並んだ一連の墓石の中で、一番右側が酒井忠次・榊原康政・井伊直政とともに徳川四天王と称された本多忠勝の娘で、家康の養女となったあと真田信之に嫁いだ小松姫の墓石、真ん中の2基は真田信重(信之の三男)とその奥方の墓石、左は豊臣秀吉の家臣で、その後徳川家康に仕えた仙石秀久の墓石です。そういう方の墓がここにあったのですね。ちなみに、真田信之の奥方・小松姫は病にかかり江戸から草津温泉へ湯治に向かう途中、この鴻巣で没しました。享年49歳。鴻巣で荼毘に付され、遺骨はここ勝願寺と沼田、上田の3ヶ所に分骨されたそうです。

この勝願寺も是非行ってみたいと思っていたのですが、残念ながら今回は時間の都合でここもパスでした。後日改めて行ってみたいと思っています。

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このなんでもない路地の奥に徳川将軍家の別荘「鴻巣御殿」がありました。鴻巣御殿は文禄2年(1593年)、徳川家康によって鷹狩や領内視察などの宿泊や休憩所として建てられ、その敷地は1町4反歩(約1.4ヘクタール)に及んだのだそうです。その後、秀忠、家光の三代にわたって将軍家の鷹狩の際の休泊所として利用されたのですが、寛永8年(1631年)を最後に利用は途絶え、明暦3年(1657年)に当時の江戸の町の大半を焼失するに至った大火災の“明暦の大火”が起きると江戸城再建のための資材として建物の大部分は解体されたのだそうです。その後、残りの建物も腐朽して倒壊し、元禄4年(1691年)には御殿跡に東照宮が祀られました。その東照宮も明治30年代に鴻神社(後述)に合祀され、旧鴻巣御殿跡はその後民有地となり、その面影はいっさい残っていません。

そこから少し歩くと本町交差点です。ここから先が鴻巣宿の中心になるのですが、本陣や脇本陣、旅籠などはすべて失われ、昔ながらの家がわずかながら見られるものの、往時の街道風情はあまり感じられません。歩道に市のシンボルであるコウノトリのタイルが埋め込まれています。

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……(その5)に続きます。 

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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