2016/10/26

中山道六十九次・街道歩き【第6回: 鴻巣→熊谷】(その1)

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中山道六十九次・街道歩きの第6回は、前回第5回のゴールだったJR北鴻巣駅がスタートです。鴻巣宿〜熊谷宿間は4里6丁、約16.8km。中山道の宿場間でも最も間隔の長い区間であり、今回は途中の北鴻巣からのスタートです。それでも約12kmちょっとの距離があり、途中の名所旧跡への立ち寄りを加えると、15kmを超えるちょっとハードなウォーキングになります。気合を入れてスタートしました。

この日の天気は朝からあいにくの小雨。前日までの段階だと弊社ハレックスのピンポイント予報「HalexDream!」でも熊谷地方は午後から雨で、しかも15時前後に本降りの予報が出ていて、やれやれ、「晴れ男のレジェンド」もとうとう命運が尽きたか…と思ったのですが、夜が明けると午前中が雨で、午後から曇りに回復する予報に変わっています。オッ、これは♪(´ε` ) 午前中さえ凌げれば午後はなんとかなるかもしれません。それでも北鴻巣駅前を出発する時には小雨が降っていて、全員、雨合羽(かっぱ)を着ての出発でした。この「中山道六十九次街道歩き」、昔の旅人と同じ体験ができること(体験をすること)が売りなので、多少の雨だと中止になりません。雨天決行というわけです。

博徒 (ばくと:俠客、渡世人とも)や芸人などが諸国を股にかけて旅をして歩くことを“股旅(またたび)”といいます。また、小説や演劇、映画、テレビドラマなどで、各地を流れ歩く博徒などを主人公にして義理人情の世界を描いたものを“股旅物”と言います。現在は武蔵の国を歩いていますが、中山道をもうちょっと先まで行くと本庄。その先は上州、上野(こうずけ)の国に入ります。上州と言うと、数々の有名な博徒、渡世人を輩出したところで知られています。

古くは国定忠治ですが、私の世代で言うと、なんと言っても“木枯らし紋次郎”です。“木枯らし紋次郎”は中村敦夫さん主演のテレビドラマで、舞台は天保年間。上州新田郡三日月村の貧しい農家に生まれた紋次郎は、生まれてすぐに間引きされそうになったところを姉のおみつの機転によって助けられました。「間引かれ損ない」として薄幸な子供時代を過ごした紋次郎は10歳の時に家を捨て、渡世人となります。劇中で、ぼろぼろの大きい妻折笠を被り、薄汚れた道中合羽を羽織り、長い楊枝を咥える紋次郎のスタイルは、放映当時有名になり、紋次郎が口にする決め台詞「あっしにゃぁ関わりのねぇこってござんす」は流行語になりました。その紋次郎があてもなく旅した街道も、確か中山道だったように記憶しています。

余談ですが、“木枯らし紋次郎”は、これまでの股旅物の主流であった「義理人情に厚く腕に覚えのある旅の博徒が、旅先の街を牛耳る地回りや役人らを次々に倒し、善良な市井の人々を救い、颯爽と立ち去っていく」といった定番スタイルをいっさい排し、他人との関わりを極力避け、己の腕一本で生き抜いていこうとするアウトロー紋次郎のニヒルなスタイルと、主演の中村敦夫さんのクールな佇まいが見事にマッチして、大ヒットしました。

殺陣もこれまでの時代劇にありがちだったスタイリッシュで格好いい殺陣を見事なまでに捨て去り、博徒の喧嘩を想定した殺陣を独自に考案。当時の博徒が銘があるような刀を持つことなどありえないことから、刀の手入れをすることもないため、通常の時代劇で見られる「相手が斬りかかってきた時に、チャキーンチャキーンと刀で受ける」などの行為は自分の刀が折れてしまうのでいっさい行わず、また、紋次郎自身は正式な剣術を身につけていないため、刀は斬るというより、振り回しながら叩きつけたり、剣先で突き刺すといった目的で使われるなど、不恰好ながらもひたすらリアリティを重視したような擬斗が話題となりました。ブンブン振り回すだけでメチャメチャ不恰好な剣さばきなのですが、これがとにかく強いんです。強いというか負けないんです。大勢が構える敵陣の真っ只中を刀を振り回しながら疾風の如く走り抜けていったり、強い相手にはとにかく逃げて逃げて逃げまくって、一瞬の隙をついて反撃に出たり…と、ホント異色の時代劇でした。

フォークバンド「六文銭」を率いるフォークシンガーの小室等さんが作曲し、「上條恒彦と六文銭」が歌った“木枯らし紋次郎”の主題歌『だれかが風の中で』は力強く希望に満ちた歌詞と、西部劇のテーマ曲を思わせるような軽快なメロディーが印象的で、天保年間という時代設定の時代劇にはいささか似つかわしくないものではありましたが、その意外性のある新鮮さが幅広い支持を得ることになり、テレビドラマの主題歌としては当時空前の大ヒット曲となりました。

その“木枯らし紋次郎”のトレードマークが薄汚れた道中合羽なら、現代人の皆さんはカラフルな登山やハイキング用の雨合羽姿です。中山道には合羽姿が似合います。アッ、しまった! 長い楊枝、忘れてきちゃった(笑)

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箕田追分に戻り、旧中山道(埼玉県道365号鎌塚鴻巣線)を北上します。前述のように鴻巣宿から熊谷宿までは4里6丁 (約16.8km)と宿場間の距離が長いので、途中の箕田、吹上、久下の三ヶ所には立場と称せられる休憩所がありました。立場は立場茶屋ともいい、宿場と宿場との間にある休憩所のようなところで、そこで中山道を行く旅人達は草鞋を買い替えたり、お茶を飲み名物の団子を食べるなどして休息を取りました。箕田の立場はこの箕田追分にありました。前回【第5回】の最後でも書きましたが、追分の真ん中には「中山道碑」や説明板が建てられています。その左手には箕田地蔵堂があり、地蔵堂の中には穏やかなお顔の石造りのお地蔵様が鎮座されています。

町を抜けると、ところどころで畑が広がるようになってきました。中山道を歩き始めてここまでの間にもところどころで畑はありましたが、どこもその規模は小さく、本格的な畑と言うのはこのあたりからです。やっと大都会の喧騒から抜け出していることを感じ、ホッとします。晴れていれば遠くに秩父連山の山々が見えてくるはずですが、あいにくの雨空なので、残念ながら見えません。

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箕田追分から北は坦々とした道路が続き、やがて畑などが広がるのどかな街道になります。コミュニティバスのバス停の横に小さな鳥居があって、その奥にお地蔵様が祀られています。なかなか味のある風景です。

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交差点の際に「前砂村碑」が建てられています。「池田(渓斎)英泉の鴻巣・吹上富士はこのあたりで描かれた」と刻まれています。江戸時代後期に活躍した日本の浮世絵師・渓斎英泉は歌川(安藤)広重の「東海道五十三次」に対抗(?)して「木曽街道六十九次」を描いているのですが、そのうちの鴻巣から見た富士山の絵はここからの景色だったということのようですが、残念ながら目の前には大きな老人介護施設があり、富士山の姿は見えません。まぁ、その老人介護施設がなくても、今日のこの雨では富士山の姿は見えなかったでしょう。右手の田圃の向こう側にJR高崎線が走っていて、電車が通り過ぎていく姿が見えます。

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その先数分歩いたところに「前砂一里塚跡標柱」があります。江戸の日本橋から数えて14里目の一里塚です。吹上町指定の文化財になっているのですが、標柱に書かれた字はかすれて消えかかっていて、判読不能です。

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下の左側の写真は江原家です。この江原家の門の中には「従是西忍領」と刻まれた立派な『忍領界石標』があります。この『忍領界石標』は安永9年(1780年)に当時の忍藩十万石藩主・阿部正敏が、十万石の格式に則り、中山道で隣接する中井村との境の南側に建てた自領域を示す石標です。江原家は代々このあたりの名主を勤める家柄のお家で、今でも高札(幕府が定めた法令等を板面に記して往来に掲示して、民衆に周知させたもの)を12枚保存しているそうです。江原家は、徳川家康について東国へやってきた三河武士の出身で、400年前から続く名家で、現在は17代目なのだそうです。現在もお住まいの家なので、『忍領界石標』を見ることはできませんでした。

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旧中山道(埼玉県道365号鎌塚鴻巣線)はJR吹上駅の手前で右に曲がり、JR高崎線の踏切を渡っていったん線路の東側に出て、すぐにある筑波交差点で右手からやって来る埼玉県道307号福田鴻巣線と合流します。筑波交差点を左折し、吹上駅を目指して進みます。

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吹上は、中山道六十九次のうち江戸日本橋から数えて7番目の宿場である鴻巣宿と8番目の宿場である熊谷宿とのほぼ中間地点に位置します。鴻巣宿〜熊谷宿間は4里6丁、約16.8kmの距離があります。他の宿場間と比べて距離が開きすぎていたことや、吹上から熊谷の間は「久下の長土手」と呼ばれる荒川の堤防の上を行く吹きっ晒しの長土手で結ばれているなど難所であったため、旅人の休憩地の需要に伴い、その「久下の長土手」の手前にある吹上には自然発生的に茶店や土産物屋などが軒を連ねるようになり、小規模ながら“間(あい)の宿”として繁栄したところです。今回私達も途中の北鴻巣からの歩きなのでなんとか歩けますが、鴻巣宿〜熊谷宿間は宿場間の距離としてはかなりの距離があり、途中の休憩所として“間の宿”が設けられたのでしょう。

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吹上の間の宿に入ってすぐに「妙徳地蔵堂」があります。この地蔵様には悲しい伝説があります。今から130年余り前のこと、不幸にも眼病を患った娘さんが観世音菩薩を背負い八十八社参りに出掛けました。満願の日にめでたく眼病が全快し、喜び勇んで家路を急いだのですが、途中で不幸にも盗賊に襲われ帰らぬ身になってしまいました。娘さんは無念のあまり大蛇になってその恨みを晴らすのですが、法華経に出会い成仏。ここに妙徳地蔵尊として祀られているのだそうです。

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この手前を右に入ったところに勝龍寺という浄土宗の寺院があります。この寺院は「吹上山(すいしょうざん)」と号し、鴻巣市登戸にある勝願寺の二世住職で名僧と言われた円誉不残上人の隠居寺として開かれた寺院なのだそうです。そのため、勝願寺と同様、徳川将軍家の「葵紋」を寺紋としており、江戸期にあっては「時の鐘」もあったそうです。時間の関係で、この勝龍寺には立ち寄れませんでした。
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吹上駅前に11時半過ぎに着きました。10時半過ぎに北鴻巣駅前を出発したので、ここまで約1時間です。たった1時間しか歩いていないのですが、ここでいきなり昼食タイムです。

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昼食は橋上駅構造のJR吹上駅を階段を使って東口から西口に出て、駅近くの居酒屋さんでお刺身定食をいただきました。何故この吹上で昼食を摂らないといけないのかには理由があります。それは、この後に詳しく書きますが、この吹上から先、熊谷宿までの間には“久下の長土手”と呼ばれる荒川の土手の上を通る区間があって、食べるところはおろか、コンビニのようなお店もないからです。ふむふむ、現代でも吹上は“間の宿”ってことですね。

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……(その2)に続きます。