2016/11/04

中山道六十九次・街道歩き【第6回: 鴻巣→熊谷】(その4)

熊谷市久下(くげ)で土手を降りて久下地区の集落に入って行きます。左手の熊谷市役所久下出張所内に絵入りの解説板があります。

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解説板には、荒川の河川敷にあり、荒川の近代改修工事によって分断され、その後廃村になった旧・新川村(しんかわむら)の当時の様子が記されています。その解説板の前で、熊谷市の観光ボランティアガイドさんによる案内がありました。

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その観光ボランティアガイドさんの案内によると、新川村は人口は約550人、家数94戸、舟の数49艘(明治20年当時)でした。「新川」とは江戸時代初頭に行われた荒川の瀬替え(流路を西へ変更)によって、新たに開削された荒川のことを指しています。当時の村では、男は養蚕、農業の合間に舟や筏に乗って新川と江戸(東京)を往復。女は蚕仕事がない時は、糸を紡ぎ機を織る仕事に従事していたようです。村内には鵜飼い漁をする者もいたそうです。新川河岸は荒川の河岸場としては最上流に位置していますが、明治時代の初期でも、かなりの規模があったようです。江戸時代には新川河岸は、忍藩の御用河岸として、年貢米の積み出しも行われていました。また、新川河岸には、筏に組まれて荒川を下って来た木材を、一時的に保管する係留場もあり、筏の組み替え作業なども行なわれていたと書かれています。絵図を見ると、賑わいを見せていたことがわかります。そのかつての新川村の名残なのでしょう、熊谷市役所久下出張所の前の通り沿いには大きな屋敷が幾つか並んでいます。

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少し行くと右手に久下神社がひっそりと鎮座しています。この久下神社、歴史はそこそこ古い神社です。 源頼朝の前で熊谷直実と領地争いをした久下直光が創建した三島神社がはじまりで、後に周辺の神社を合祀して久下神社と改名したのだそうです。

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なにか寺院の跡地のようですが、よく分かりません。

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久下神社から静かな街道をさらに十数分歩くと民家の門横に「中山道碑」が据えられています。「この街道、旧中山道 屋号・大銀治屋」と刻まれているので、おそらく個人が建てたもののようです。

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ここで車道は右に曲がっていくのですが、中山道はその車道から離れて荒川の土手(熊谷堤)に向かって真っ直ぐに伸びていきます。荒川の水面が見えるところに出ると、そのあたりに権八地蔵と熊谷堤碑があります。前述のように、権八地蔵は、鴻巣の勝願寺と先ほど通ってきた吹上の荊原、そしてこの久下の3箇所にあります。

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久下は熊谷直実と久下直光が所領を争った場所で、直実が敗れて出家したといわれている場所です。新久下橋の橋脚の下を潜っていくと、民族資料権八地蔵と書かれている石碑があり、権八地蔵堂があります。どちらが本物かというと、荊原のほうには標柱も案内板もなにもないので、こちらのほうの権八地蔵が本命のものなのかもしれません。

ちなみに、この久下の地で久下直光が所領を争った熊谷直実とは、『平家物語』の「敦盛最期」の段における平敦盛との一騎打ちに登場し、能の演目『敦盛』や幸若舞の演曲『敦盛』といった作品に取り上げられている熊谷次郎直実のことです。熊谷直実は武蔵国大里郡熊谷郷(現在の埼玉県熊谷市)の出身で、弓の名手。幼い時に父を失い、母方の伯父の久下直光に養われました。保元元年(1156年)の保元の乱では源義朝指揮下で戦い、平治元年(1159年)の平治の乱では源義平の指揮下で働きました。その後、久下直光の代理人として京都に上った熊谷直実はいつまで経っても一人前の武士として扱われないことに不満を持ち、自立を決意し久下直光の元を去って平知盛に仕えます。源頼朝挙兵の直前、大庭景親に従って東国に下り、治承4年(1180年)の石橋山の戦いまでは平家側に属していたのですが、この石橋山の戦い以降、頼朝に臣従して御家人の一人となり、常陸国の佐竹氏征伐で大殊勲を立て、熊谷郷の支配権を安堵されます。寿永3年(1184年)の一ノ谷の戦いには源義経率いる奇襲部隊に所属して参戦。有名な鵯越(ひよどりごえ)を逆落としに下り、平家の陣に一番乗りで突入しています。『平家物語』によれば、この戦いで良き敵を探し求めていた熊谷直実は、波際を逃げようとしていた平家の公達らしき騎乗の若武者を呼び止めて一騎打ちを挑み、その首を切り落とします。首実検をすると、この公達は清盛の甥・平敦盛と判明。この時、平敦盛は17歳の若者でした。この時のいきさつが、『平家物語』の「敦盛最期」の段に描かれて、有名になりました。

壇ノ浦の合戦において源平の戦いが源氏の勝利に終わり、源頼朝が鎌倉に幕府を開いた以降、熊谷直実は所領である武蔵国大里郡熊谷郷に戻ったのですが、そこでは過去の経緯から不仲だった養父であり叔父の久下直光の久下郷と熊谷郷の境界争いが続いていました。ついには源頼朝の面前で、両者の口頭弁論が行われることになったのですが、武勇には優れていても口べたな熊谷直実は、頼朝の質問に上手く答えることが出来ず、自然と質問は彼に集中するようになった。熊谷直実は憤怒して「梶原景時めが久下直光を贔屓にして、よい事ばかりお耳に入れているらしく、熊谷直実の敗訴は決まっているのも同然だ。この上は何を申し上げても無駄なこと」と怒鳴りだし、証拠書類を投げ捨てて座を立つと、刀を抜いて髻を切り、私宅にも帰らず逐電してしまい、頼朝があっけにとられたという話が『吾妻鏡』に残っています。その後、熊谷直実は家督を嫡子・直家に譲った後、建久4年(1193年)、浄土宗の開祖である法然の弟子となり出家し、法力房・蓮生と名乗りました。

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旧中山道は久下の権八地蔵の裏を通って延びています。

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このあたりには平成15年(2003年)6月に現在の新久下橋が建設されるまで、久下橋という橋が架かっていました。この久下橋、日本では他に例がないと言われるほど大規模な木製の冠水橋(かんすいきょう)でした。冠水橋とは洪水になると水没してしまって通行不能になる橋のことで、地方により潜水橋、潜没橋、潜流橋、沈み橋、潜り橋、沈下橋、地獄橋などとも言われます。この冠水橋、かつては埼玉県の荒川水系には比較的多く存在していました。平成14年(2002年)の調査でも荒川水系に22橋、荒川本流に6橋架かっていたと言われています。旧久下橋は昭和30年(1955年)に完成。昭和30年の旧久下橋完成までは、「久下の渡し」という舟が対岸に渡る唯一の交通手段でした。この旧久下橋、埼玉県道257号冑山熊谷線の橋ではあったのですが木製の冠水橋で、幅2.7メートル、長さ282.4メートル、制限重量3トンと、車が1台やっと通れるほどの狭い幅員の橋でした。このため、車は対岸を確かめ、お互いに譲り合いながら阿吽の呼吸で橋を渡ったことから「思いやり橋」と呼ばれていました。前述のように、平成15年(2003年)6月に500メートル下流に橋長778.0メートル、幅員10.75メートルの本格的なコンクリート橋「新久下橋」が建設され、48年間の役目を終えました。今は完全に撤去されてしまって、跡には僅かに「久下の渡し 久下冠水橋跡碑」という記念碑が残るのみなので、現在はその面影を偲ぶはできません。その冠水橋である旧久下橋の当時の写真を埼玉県のHPで見つけましたので、是非そちらをご覧ください。

埼玉県公式HP


……(その5)に続きます。 

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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