2016/11/28

『大人の修学旅行2017』ロケハン編(その1)

毎年、高校時代のクラスメイトと楽しんでいる『大人の修学旅行』、来年の3月に開催予定の『大人の修学旅行2017』の開催予定地は鎌倉。来年は首都圏在住組が幹事ということで、東日本での開催ということになったのですが、今年の3月に開催した『大人の修学旅行2016 in 城崎温泉』の場で決まった開催地は、なんとなんとの湘南・鎌倉でした。

確か現在は青森在住のココさんが提案し、それに関西在住組と地元香川県在住組全員が賛同して決まったのですが、私達首都圏在住組としては、最初に湘南・鎌倉という地名が候補としてあがった時、正直、「エ〜〜ッ!?鎌倉ぁ〜」って感じでした(私は会津若松での開催を強く推していました)。首都圏以外に住む人にとっては、東京には行く機会はあるのだが、その周辺地域にまで足を延ばすことはないので、行ってみたいだとか。それに加えて、私達の世代にとって、鎌倉や江ノ島と言えば、中村雅俊さん主演の『俺たちの旅』や勝野洋さん主演の『俺たちの朝』といった青春テレビドラマの舞台になったところですし、また、同学年のサザンオールスターズの桑田佳祐さんも茅ヶ崎の出身ということで、私達の世代にとっては湘南、江ノ島、鎌倉は一種の憧れの地のようなところですからね。考えてみると、その地名が候補地にあがるのは極々自然なことでした。

とは言え、大船や鎌倉、藤沢、茅ヶ崎、平塚などというと、私達首都圏在住者にとっては会社の先輩や同僚、後輩といった友人・知人の中にもそこの出身の方や今も住んでいる方が何人もいらっしゃるような極々身近なところです。なので、「エ〜〜ッ!?鎌倉ぁ〜」ってなったのですが、でも、よくよく思い返してみると私が鎌倉や江ノ島、茅ヶ崎といった神奈川県の湘南地域に一番最後に観光で訪れたのは子供達がまだ小学生だった頃、20年以上も前のことです。会社に入って最初の勤務地が横浜市だったこともあり、若い頃は江ノ島電鉄(江ノ電)の電車に乗りに行ったりして、時々訪れていたところなのですが、随分と長い間訪れていないことに気づきました。

同じ関東地方といっても、埼玉県に住む私にとって東京都を通り過ぎて神奈川県、それも湘南地域まで観光に行くというのはちょっとした勇気(思い切り)の要ることです。それは私だけではなかったようで、聞くと、横浜に住んで20年になるというイッカクも鎌倉の大仏をナマで見たことがないとのこと。いつでも行けると思って20年が経ったのだそうです。「灯台下暗し」とでも言いますか、意外と近場の観光地ってそういうものかもしれません。「行けそうに思えて、なかなか(自分1人では)行けないところ」が私達『大人の修学旅行』のコンセプトなのですが、まさに湘南・鎌倉はそのコンセプトにピッタリのところと言えるかもしれません。

私達の『大人の修学旅行』ではホスト役の幹事団がロケハン(下見)をして、宿泊場所を決めたり、観光名所を訪れて、当日の観光コースを決めるのが恒例になっています。来年の『大人の修学旅行2017』に向けても既に8月に1回目のロケハンを行い、湘南といっても鎌倉と江ノ島で開催することを決め、江ノ島で宿泊する旅館も決めて予約まで完了しているので、この2回目のロケハンでは当日の観光コースの決定が主目的でした。

(ちなみに、『大人の修学旅行』では和風旅館の利用が基本になっています。決して枕投げをやりたいわけではありませんが、深夜遅くまで二次会で盛り上がるには和風旅館が便利なのです。既に第1回の参加希望者を募ったところ13名から参加の表明がありました。そこから多少参加者が増えたとしても、和風旅館ならなんとか詰め込めますから。幸い江ノ島には夏は海水浴客向けに海の家になるような和風旅館が海岸沿いにあるので、今回の宿泊旅館もそういうところにしました。)

午前11時にJR鎌倉駅の東口に集合。紅葉の時期にはほんのちょっと早いのですが、鎌倉駅の駅前は「ここは原宿か!?」と思えるほど多くの観光客で、文字通りごった返していました。今回のロケハンに集まったのは来年の幹事長のマサヤにイッカク、ユウテン、それに私の4名でした。観光客の多さに驚きながら、その大勢の人の波に押されるように小町通りを歩き、まず向かった先は2日目の昼食会場としてマサヤが推薦してきた和式料理店。(並んで順番を待つのは時間の無駄になるので、混む前に行こうということで、ちょっと早いのですが昼食タイムにしました。)

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そのお店でいただいたのは、シラス丼。ナマと釜揚げの両方がご飯にのった二色丼というものです。湘南の名物料理と言えば「生しらす丼」をおいてほかにありません。湘南屈指の観光スポットである江ノ島や、古都鎌倉の街中を歩くと、いたるところに「生しらす丼/しらす丼」の看板やのぼりが目に入ります。シラスとは、主にイワシ類の稚魚のことで、鎌倉や江ノ島の前に広がる相模湾ではこのシラスが大量に獲れ、そのシラスを使った丼は地元の名物になっています。

この湘南名物の「生しらす丼」ですが、1年中いつでも食べられるというわけではありません。シラス漁が盛んな片瀬江ノ島では、1月~3月はアユの稚魚を保護するために禁漁と定められているので、その時期には生のシラスは残念ながら食べられません。来年の『大人の修学旅行2017』本番は3月中旬に開催を予定しているので、参加していただく方には大変に申し訳ないのですが、本番ではこの名物料理を味わうことができません。ロケハン組の役得ということで、美味しく頂かせていただきました。でもまぁ〜、相模湾の美味しい味覚といえばシラスだけではないので、本番ではそちらのほうを味わっていただきましょう。でも、このシラスの二色丼、美味しい。ちなみに、私はナマのシラスよりも、少し茹でて甘くなった釜揚げのシラスのほうが好きです。(右側の写真はユウテンが食べた「しらす海鮮丼」です。こちらも美味しそうです。)

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シラスの二色丼も美味しかったですし(前述のように本番ではシラス丼は出せませんが…)、店の雰囲気もそこそこよかったので、2日目の昼食会場はこの店で決定。ただ、3月の中旬とはいえ、週末の予約は午前11時半までの来店に限るということでしたので、その前の予定を調整することにしました。2日目は午前中、鶴岡八幡宮に行く予定ですし、その鶴岡八幡宮からこの店は歩いても近いので、問題はないでしょう。

昼食をとり、お腹も満足したところで、観光地巡りです。JR鎌倉駅前にとって返し、タクシーを使って急ぎ足でリストアップした観光地を見て回ることにしました。

鎌倉は私が申し上げるまでもなく、中世、源頼朝が鎌倉幕府を開いたところ、すなわち、かつては政権の要の地であったところとして知られています。鎌倉は三浦半島の西側の付け根に位置し、現在の地名で言うと、北東から東にかけては横浜市、西は藤沢市、南東には逗子市と三方を低い山を隔てて接し、南方は相模湾という海に面しています。山が海際にまで迫っているので、東西の岬になっているようなところでは海岸線には容易に人が通れるようなところもありません。このような地形のところは守るにやすく攻めるに難しい天然の要害を形成し、この地にやって来て、鎌倉の周囲の景色を眺めてみると、源頼朝がこの地を選んで自らの邸を構え、幕府を開いた理由がよく分かります。

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河内源氏の源義朝の三男として生まれた源頼朝は、父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流されたのですが、流人とはいえ、比較的安定した自由な生活をしていたといわれています。その頃、流刑地の伊豆半島から相模湾を隔てただけの三浦半島はもちろんのこと、遠く房総半島までを行き来していたといわれていて、そうした中で北条時政や北条義時といった坂東武士らを束ねていく下地を着々と固めていったと思われます。その時、この鎌倉の地も訪れて、この地の守るにやすく攻めるに難しい難攻不落の天然の要害としての地形に着目し、この地を選んで自らの邸を構えたのではないかと思います。平治の乱で父や兄達を殺され、自らも伊豆に流された経験を持つ源頼朝は、自分の身を守ることを最優先に考えたと思いますから。

まったくの余談ですが、私達の世代は学校で「いいくに(1192)作ろう鎌倉幕府」という風に鎌倉幕府成立が西暦の1192年(建久3年)と習ったのですが、最近はそうは習わないそうなんです。ご存知でしたか?

確かに源頼朝が征夷大将軍に任官されたのが1192年ではあるのですが、最近の学説では源頼朝を頂点とする権力・統治機構は頼朝が征夷大将軍に任官される以前から存続していたようなので、実質的な鎌倉幕府の成立は1192年より前の1185年、すなわち壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼした時に遡るとする説もあったりして、ちょっと不確かになっているので、今では特に成立した年を特定せずに教えているのだそうです。また、私達は鎌倉幕府のことを「日本で初の武家政権」と学校で習ったのですが、これも今では平氏政権に次ぐ武家政権と位置づけられているのだそうです。おいおいおいおいおい、「いいくに作ろう鎌倉幕府」で覚えたのは、いったいなんだったんだ!訂正するのなら、コッソリ変更するのではなく、これこれこうで間違っていた…とハッキリと公表してから変更してほしいものです。間違って覚えてしまっているじゃない。

ちなみに、気になったので調べてみると、源頼朝が鎌倉の大倉郷の地に邸となる大倉御所を構え、また幕府の統治機構の原型ともいうべき侍所が設置されて、東国において西の平氏と対峙し得るだけの武家政権の実態が形成されたとされるのは、1185年よりも前の1180年(治承4年)のことなのだそうです。確かにどの年を鎌倉幕府成立の年にするかについては、鎌倉幕府成立の解釈の仕方により大きな幅がありますね。

源頼朝が鎌倉幕府を置いて武家政権を成立させた後、「いざ鎌倉!」と有事の際に関東地方各地に散らばる御家人達が鎌倉に集結するための道路として鎌倉街道が整備されます。この『おちゃめ日記』の場で紹介しておりますように、私はこのところ中山道六十九次の街道歩きを趣味としていて、現在は武蔵国(現在の埼玉県)を北上中なのですが、そうした中でも鎌倉街道と呼ばれる旧街道に何度も出くわします。鎌倉幕府の権力・統治範囲の広さを実感します。また、鎌倉には幕府の要職に就いた有力御家人達がそれぞれ邸を構え、また海に面した特徴を生かした海上交易も隆盛し、鎌倉五山なども置かれて、関東における文化的中心地となりました。

1219年(建保7年)に第3代将軍源実朝が公暁に襲われて暗殺された後は、跡を継ぐ源氏血統の後継者がなかったことから執権であった北条氏が力を持つことになります。1225年には北条泰時が執権に就くと、連署や評定衆を置いて幕府の合議制を確立するとともに、政権を頼朝以来幕府が置かれた大倉から宇都宮辻子(どちらも鎌倉の地名)に移し、1232年には御成敗式目を制定して幕府の体制を磐石なものとしました。

こうして盤石な体制を敷いた筈の鎌倉幕府も、その100年後の1333年(元弘3年)に、後醍醐天皇の発した討幕の勅に呼応した上野国(現在の群馬県)の豪族・新田義貞によって滅ぼされます(元弘の乱)。この時、新田義貞は小手指原、久米川、分倍河原などで北条氏の兵を次々と撃破し、鎌倉へ進撃して、最後は北条泰時以来の北条氏の菩提寺である東勝寺で北条氏一族を滅亡させたわけですが、守るにやすく攻めるに難しい難攻不落の天然の要害と言われた鎌倉の地が幾ら大軍になって押し寄せて来たからといって、そうそうやすやすと新田義貞の軍勢に破られるわけがありません。そこには気候変動が大きく影響したのではないかという説があります。

鎌倉の市街地攻略に際して、新田勢は軍勢を大きく三つに分け、巨福呂坂、極楽寺坂、そして化粧坂という鎌倉の周囲を囲む山と山の間にある3箇所の切り通しの部分に対して攻撃を仕掛けたのですが、天然の要塞となっていた鎌倉の切通しの部分の守りは想像以上に固く、混戦状態がしばらく続きました。新田勢も名だたる武将が次々と討ち取られ、苦戦が続きました。特に極楽寺坂では新田勢の侍大将を務めていた大館宗氏が戦死。侍大将・大館宗氏戦死の報を受けた新田義貞は、援軍を率いて極楽寺坂に向かいました。そこで、眼下に広がる相模湾の景色を目にして、戦さ上手の新田義貞は引き潮に乗じて鎌倉西方の稲村ヶ崎を突破し、鎌倉市内に攻め入めないかと考えます。

当時の様子を書き記した『太平記』によると、新田義貞が潮が引くのを念じて海に剣を投じ入れると、その後「俄かに潮干して(急に潮が引いて)」通れるようになったので、岬の南から一気に鎌倉の市街地に攻め入った…と記されています。こうして、四方を山と海に囲まれた天然の要害・鎌倉のうち、海が破られたわけです。先ほど、気候変動が大きく影響したということを書きました。それが『1300年イベント』と呼ばれる地球規模で起こった気候変動です。

13世紀後半からの約100年間、地球全体は著しい気温低下に見舞われ、ヨーロッパ北部では大規模な飢饉が起き、それまでの数百年間に渡るヨーロッパの繁栄と成長に急激に歯止めがかかり、それにより世界各地でそれまで栄華を誇っていた王朝が急激に衰退して倒れる等の大きな歴史的変化が起こるなど、ヨーロッパから全世界にかけて様々な激動に繋がりました。これが『1300年イベント』と呼ばれるものです。詳しくは以前に私がこの『おちゃめ日記』で書いた以下の一文をお読みください。

『気候で読み解く日本の歴史』続編

この『1300年イベント』はインドネシアや南半球で発生した巨大火山の噴火がそもそもの原因としたものでした。まずはインドネシアのロンボク島にあるサマラス火山。その噴火は1257年の5月から10月の間だったようです。この巨大噴火は、1883年に発生した有名なクラカタウ山(インドネシア)の噴火の8倍、1815年のタンボラ山(同じくインドネシア)の噴火の約2倍の規模だったと推定されていて、過去3700年間で最大の火山噴火と言われています。さらに、1300年代にもう1つ、1315年から5年間ほどの間ニュージーランドのカハロア火山が繰り返し大噴火を起こし、そこから吹き上げられた大量の火山灰によって、1315年から1317年にかけてヨーロッパで著しい気温低下とそれに伴う大飢饉が起きたと記録に残されています。元弘の乱が起きたのは1333年。まさにこの『1300年イベント』の真っ最中のことです。

気候が地球規模で著しい寒冷期に入ったことで海水の体積が収縮して、海面の水位が下がっていたのです(海退)。そこに潮の満干の幅の大きい大潮の時期が加わると、干潮時には海岸線が大きく沖の方へと後退し、ふだんは通れなかった稲村ケ崎の海岸線に大軍が通過できるだけの広い陸地ができあがったわけです。特に稲村ヶ崎周辺は今でも由比ガ浜や七里ヶ浜といった海水浴場があるくらいで、基本的に遠浅の海なので、かなり広い面積の陸地が姿を現したのではないかと思われます。

この稲村ヶ崎での突破が起点となり、巨福呂坂、極楽寺坂、そして化粧坂という三方を囲む山々の切り通し部分は次々と破られ、新田勢は勇躍鎌倉の市街地へと雪崩を打つように乱入したわけです。天然の要害というところは、いったん破られて敵が中に入り込まれると逃げ道がないぶん意外なほど脆いところがあります。鎌倉の市街地でも激戦が続いたのですが、幕府方有力武将が相次いで討ち死にしてしまいます。さらに、稲瀬川より由比ガ浜にかけての家々に新田勢が火を放ったため、鎌倉市内は火災の煙で覆われました。現在の宝戒寺にあったとされる北条執権の邸にも火が迫ってきたため、北条高時ら北条一門は最期であることを悟り、菩提寺である葛西ヶ谷の東勝寺に集まり、そこで全員が自害。100年に渡り権勢を誇った北条氏は滅亡してしまい、ここに鎌倉幕府は終焉を迎えてしまいました。まさに「世の中の最底辺のインフラは地形と気象」ってやつです。

元弘の乱により鎌倉幕府が滅んだ後、鎌倉には新田義貞や、その新田義貞を湊川の合戦で破り室町幕府を打ち立てた足利尊氏が鎌倉府を設置し、しばらくは関東統治の拠点として機能したのですが、世の中が平和な時の周辺統治の拠点としてはいささか地の利において悪いところがあり、室町時代の中期以降、徐々に衰退していきました。

この衰退によって鎌倉の都市としての継続性はいったん途切れます。江戸時代の後期になると、地域内の寺社が多くの参詣客を集めるようになるのですが、一時期、その衰退ぶりはかなり深刻なものだったようで、明治初期の段階でも鎌倉大仏(高徳院)や長谷寺を擁する長谷(はせ)地区に都市的な集落が分布するのみで、現在の鎌倉市の中心市街地はまだ形成されていなかったのだそうです。

明治中期以降、鎌倉には鎌倉文士と呼ばれる作家、美術家などの文化人が集まり住むようになり、幾つかのドラマや小説などの舞台にもなって文化都市として、また保養・別荘地、さらには昭和以降になって今度は海水浴客の集客をはじめとして観光都市として改めて都市としての鎌倉が再興し、現在の鎌倉市に繋がるわけです。特に、1930年(昭和5年)の横須賀線の列車が電車化されて以降、戦前・戦後を通じて大規模な住宅開発が行われるようになり、東京近郊のベッドタウンとしての性格が強くなっていきました。ここが同じ古都でも、鎌倉が京都とは都市としての性格が大きく異なるところです。

この都市としての継続性の断絶のため、現在の鎌倉は中世の鎌倉とは断絶した地割りになっているほか、中世以来の建造物も、実は残念ながらほとんど現存していません。しかし、大東亜戦争において空襲の被害をいっさい受けなかったこと、さらには戦後も古都保存法によって乱開発が規制されたことで、古社寺や史跡等文化遺産として価値の高い遺構の数々をはじめ、神奈川県唯一の国宝建築である円覚寺舎利殿を含めた文化財等が比較的多く残っていて、また市が観光振興に力を入れていることもあって、観光を主な産業として今なお都市としての繁栄を続けています。


……(その2)に続きます。

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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