2016/12/07

鉄研機関誌「せのはち」(その2)

それでは、いい機会ですので、主として後輩の皆様向けに広島大学鉄道研究会の創設経緯や、創設当時のことについて、この場を借りて書き残すことにします。私の青春の1ページです。しばしおつきあい願えれば…と思っています。

私をはじめ1年後輩の福島クン、楠本クン、佐々木クンという4人の創設メンバーが広島大学鉄道研究会を立ち上げた経緯については、この『おちゃめ日記』でも「男の隠れ家(その2)」に書かせていただいた通りです。

男の隠れ家(その2)

繰り返しになるところも多いのですが、補足も交えてもう一度書かせていただきます。

私は昭和49年(1974年)の4月に広島大学工学部電子工学科に入学しました。当時はほとんどの大学に鉄道研究会があり、当時の高校生なら必ず使った過去の入試問題集、通称“赤本”の広島大学編にも公認サークルとして鉄道研究会の名前が載っていたので、子供の頃から大の鉄道好きだった私は「よぉ〜し、広大に入学したら鉄研に入って、思いっきり鉄道を楽しもう」と希望に夢を膨らませて入学したのですが、私が入学する数年前にその広島大学鉄道研究会は当時全国の大学で吹き荒れていた大学紛争の嵐の中であえなく消滅してしまっていたのでした。

加えて、私が入学した当時の広島大学では、まだ大学紛争の燃えかすのようなものが日常的に燃え盛っていました。日本の学生運動が最も盛り上がりを見せたのは、1960年の安保闘争、さらには1968年から1970年にかけての全共闘運動による大学紛争の時期で、私が大学に入学した1974年には、社会が豊かになったことでの政治離れや内ゲバなど過激な運動への忌避から、全国的に下火になってきていました。しかしながら、原爆が投下されて幾多の一般市民が犠牲になった被爆地・広島にある広島大学では伝統的に反戦運動が盛んで、東京や京都・大阪の大学を追放されたり排斥されたりした各大学の学生の活動家達は広島大学に集まり、大学紛争の火が完全に消える前の最後の輝きのような妙な盛り上がりを見せていました。

彼ら活動家は、学生自治会や様々なサークルを拠点に過激な内容のビラ(アジビラ)を学内に撒き散らし、ポスター、立て看板(タテカン)で大学キャンパスの至るところを汚し、大勢集まっては校内集会や講演会、学習会などのイベントを繰り返し開催していました。時には拡声器を使って授業前の教室や昼休みの広場などで勝手に演説を始めて自らの独りよがりな主張をアピールするのですが、それにより休講になる講義が続出。果てはバリケードを築き、誰も学内に入れないようにして広島県警の機動隊と対峙する過激な事態まで発生(入学式が学内で行えず、急遽会場が広島市の公会堂に変更されて行われたくらいでした)。

このように希望に夢を膨らませて入学した大学は、荒れ放題に荒れているような状態で、絶対に入部しようと思っていた鉄道研究会も消滅してしまっていたこともあり、私のエンジニアを目指して勉強しようというモチベーションが一気に下がった記憶があります。私は活動家達が言っていることに何の興味も湧かず、大学問題や政治問題にもまったく関心がない“ノンポリ”と呼ばれるごくごく普通の理系の学生でしたので、彼等はただただ迷惑なだけの存在でした。どこに活動家が潜んでいるかまったくわからないような状態でしたので、工学部の先輩の忠告に従ってどこのサークルにも属さず、ただただバイトと旅行(乗り鉄)、それとただ単純に女の子にモテたいという下心から始めたギターとフォークソングに明け暮れる毎日でした(講義があるかどうかさえ、その日にならないとわからないような毎日でしたから)。

このあたり、この『おちゃめ日記』では「“鉄”の原点」と題して書かせていただいています。

“鉄”の原点(その1)
“鉄”の原点(その2)
“鉄”の原点(その3)
“鉄”の原点(その4)

そうした中で、広島東洋カープが初優勝を果たした2年生の時、大学の本部キャンパスの目の前にあった書店で鉄道雑誌を立ち読みしていた時に、同じ工学部電子工学科の1年後輩の楠本クンと出逢い、鉄道マニア同士で意気投合。お互いの下宿を行き来しては鉄道談義に花を咲かせる間柄になりました。そのうち楠本クンと同じ下宿に住んでいた福島クン、さらには福島クンの友人の佐々木クンとも知り合い、徐々に鉄道好きの輪が広がっていって、いつの間にか自然発生的に愛好会のようなものが生まれました。

鉄道マニアの分類でいうと、基本お気楽な「乗り鉄」の私に反して、楠本クンはバリバリの「模型鉄」、福島クンは旧型国電命の「車両鉄」、佐々木クンは常に望遠レンズ付きの高価そうなカメラを首から下げ、展覧会にも出展するような筋金入りの(高校時代からその筋では有名な)「撮り鉄」。鉄道マニアとしてのジャンルはまるで異なっていても、そこは皆“鉄道“という乗り物を心から愛する連中です。学年の壁、学部学科の壁を越えて妙にウマが合いました。先ほど私は基本お気楽な「乗り鉄」という風に書きましたが、他の3人は鉄道趣味を極めようとしているのではないか…と思えるほどの筋金入りのマニアで、その方面の知識も豊富。そうした3人との触れ合いを通して、鉄道趣味の奥の深さを知り、「さすがに大学生にもなるとレベルが違うもんだなぁ〜」と思ったりしたものです。私は彼等を尊敬していましたね。

この4人が「学生総数が1万人を超えるマンモス大学広大なんだから同好の士は間違いなくもっと多い筈だ。そういう人達が気楽に集えて意見交換ができる場を作ろうじゃあないか」と思い立ち、無謀にも一念発起して広島大学鉄道研究会を復活させてみようとなったわけです。そこには、ちょうど広島東洋カープの初優勝で広島の町中に「よぉ〜し、俺達もなにかドデカイことをやってやろうじゃないか!」という前向きの勢いのようなものが漲っていたことも少しは影響したのかもしれません。翌昭和51年(1976年)の4月(すなわち、私が3年生になった時)の入学式後に新入会員の募集を行いました。(佐々木クンが鉄道写真の関係で岡山大学鉄道研究会の方と接点があり、広島大学鉄道研究会復活にあたっては、そこからの刺激も多分にありました)。

当時は文化サークル団体連合のような学内の団体にも加入しておらず、もちろん大学の公認サークルでもなかったので、大学本部のある千田キャンパスの正門から続く森戸道路の一番はずれに、近くの理学部の教室から無断借用した机を1つ置き、その机に黒マジックで「会員募集 鉄道研究会」とだけ書いた画用紙を1枚セロテープで貼り付けただけでした。印刷費もないので会員勧誘のチラシもありません。このように自信を持って入会を勧められるような状態ではない状況でしたので、間違って1人でも入会してくれたら嬉しいな…と思っていたのですが、思いがけず7人(確か)もの新入生が入会してくれました。この日の広島大学鉄道研究会創立40周年記念の会にも集まってくれた一ノ瀬クン、山田クン、長澤クン、高橋クン等がその時に入会してくれた新入生達です。で、会員が10名を超えて11名になったことで正式に広島大学鉄道研究会を発足させたわけです。実は事前に会員数が10名を超えたらサークルとして正式に発足させようと4人で決めていて、従ってその時の新入会員の勧誘目標は6名でした。なので、広島大学鉄道研究会の発足は昭和51年(1976年)の4月、そして今年が創立40周年なんです。

会長には最年長の私ではなく、1学年下(当時2年生)の福島クンに就任してもらい、私は彼の補佐役に回ることにしました。私は3年生になったところで、4年生になったら卒業研究(卒研)や就職活動も入ってくるので、実質的に活動できるのは3年生の1年間だけ。サークルの将来を考えた時、2年生の彼にしっかり会長としてまとめてもらおうという考えの下での決断でした。(正直いうと、せっかく鉄道研究会ができたので、ここは会長なんて面倒なことは引き受けないで、一般会員として思いっきり楽しんじゃおう…という邪まな思惑が強く働きました。)

こうして正式に発足した広島大学鉄道研究会ですが、当時はまだ大学の公認サークルではなかったので部室もなく、会員の下宿や自宅に集まっては朝まで鉄道談義をしたり、写真の撮影旅行に行ったり、ただただ列車に乗りに行ったり‥‥というような活動を細々とやっていました。それでも同好の仲間が一気に増えたので、嬉しかったですね。千田キャンパスの学生会館の2階ロビーにある共用ソファーのところで行った毎週1回の定期ミーティングという名のダベリング(単なる他愛もないお喋り)は本当に楽しかったです。先ほど創設メンバーのうちの中核の4人の趣味嗜好がまるで違っていたと書きましたが、新しく入会してくれた7人の趣味嗜好もまるで異なっていました。なので、一口に鉄道趣味という共通項で集まったメンバーといっても「撮り鉄」、「乗り鉄」、「車両鉄(車両好き)」、「時刻表鉄」、「模型鉄(鉄道模型好き)」‥‥と幅が広く、正直まったくまとまりがないサークルでしたが、そんなの関係なく、やっと大学の中で自分の居場所を見つけられたようで、嬉しかったですね(私自身は積極的に活動できたのは実質的に3年生の時の1年間だけでしたが…)。

特に衝撃的だったのが長澤クンで、彼の趣味は軽便鉄道。軽便鉄道とは線路の幅が762mm等と一般的な鉄道よりも規格が簡便で、安価に建設された鉄道のことで、鉄道マニアのジャンルの中でもマイナー中のマイナーともいえるものでした。その当時でも廃線になった路線が多く、廃線跡マニアのようなところもあり、彼を通して軽便鉄道の魅力を知ったことは鉄道マニアとしての幅を広げる上で、大きかったように思えます。

会員数が10名を超え、正式にサークルとして活動を開始したので、活動も本格的になりました。初年度だったのでサークル全体としての方向性も何もなく、それぞれが鉄道研究会の名のもとに好きなことを好きなようにやってみようというのが最初に決めた方針といえば方針で、とにかくサークルとして活動できることがただただ嬉しくて、寝る時間も惜しんで実にいろいろなことをやりました。

まず鉄研として最初にやった大きな活動が、山陽本線の瀬野駅〜八本松駅間にあった急勾配、通称“セノハチ”での撮影会。これは“撮り鉄”の佐々木クンが中心になって行ってくれました。広島市に程近い山陽本線の瀬野駅~八本松駅間にはマニアの間で“セノハチ”と呼ばれる22.6パーミルという日本有数の急勾配区間があり、貨物列車が単独で登るのは難しいため、瀬野~八本松間で専用の後部補機(当時は前後にデッキが突き出た焦茶色の車体の古式蒼然としたEF59形電気機関車)を連結していました。ちなみにパーミルとは坂の勾配の程度を表す数値で、水平方向に1,000m進むと20m上がる(または下がる)坂道の勾配は20パーミルと言います。当時は既に山陽新幹線が広島を経由して九州の博多まで延び、山陽本線を走る在来線の特急列車や急行列車はほとんど姿を消していましたが、かつてこの区間を客車列車が走っていた頃には編成の先頭に連結された本務機が強力なEF58型電気機関車であってもこの補機の支援が必要で、特急列車では時間節約のために後部補機を走行中に開放する(切り離す)という非常にスリリングな光景が長い間見られました。この走行開放は貨物列車でも行なわれていましたが、現在は安全性重視のため最寄りの停車拠点(広島貨物ターミナル駅/西条駅)での解結に改められています。

この“セノハチ”撮影会がサークルとしての最初の大きな活動だったこともあり、その後創刊した広島大学鉄道研究会の機関誌のタイトルも「せのはち」になったようなところがあります。またこの“セノハチ”撮影会は、その後しばらく毎年恒例の新入生歓迎イベントとなりました。

私と一ノ瀬クン、高橋クン等“乗り鉄“のメンバーが中心になって行った夏季合宿では、当時、日本で最も長い距離を走行していた山陰本線の824列車(824レ)を完全乗破しました。この824列車は福岡県の門司港駅を朝の5時22分に出て、関門トンネルを抜けて山陰本線に入り、日本海沿いの山陰本線を走りに走って、終点の京都府の福知山駅には深夜の23時51分に到着するという当時日本で最も長い距離を走行する各駅停車の列車でした。走行距離は595.1km、その距離を焦げ茶色をした旧型の客車を何両も連ねた長い編成の列車で、なんとなんとの18時間29分かけて走っていました。今では信じがたいことです。

真夏の7月の終わりに敢行したのですが、旧型客車なので当然のこととして車内に冷房の設備などはありません。天井に扇風機は付いていましたが、真夏の強い陽射しが照り付ける中では全くの無力。窓は全開にしているのですが、入ってくるのは日本海からの熱風。ホント地獄のような状態でした。食べるものは駅弁のみ。また、単調な車窓の風景に思わず睡魔が襲ってくるのですが、完全乗破が目的の「夏合宿」なので、寝ちゃうと誰かに「おい、寝るな!」と起こされてしまうのです。山陰本線は単線で、行き違いの対向列車や追い抜きの優等列車の待ち合わせで駅に長時間停車することもあり、そういう時には身体を伸ばせるので、まぁ〜なんとかなりました。

途中で乗務員(運転手と車掌)は何度も交代するのですが、長い旧型客車の編成と我々広島大学鉄道研究会の面々はそのままです(牽引する機関車は門司港駅から下関駅間は関門トンネル専用の電気機関車で、下関駅からはDF50型ディーゼル機関車が終着の福知山駅まで牽引していました)。それでもなんとか深夜の23時51分、定刻に終着の福知山駅に到着することができました。福知山駅に到着したと言っても、既にそこから先に行く列車はなく、また福知山駅の待合室で京都行きの始発の普通列車が発車するのを待ちました。山陰本線を完全乗覇して次の日の朝に京都駅に到着した時には全員がボロボログチャグチャの状態で、汗と埃で着ていた真っ白のTシャツが薄茶色に変色していたのが、その悪戦苦闘ぶりを物語っていました。京都駅に到着して真っ先に行ったところがサウナ風呂。そこで汗と埃を流してサッパリしたのですが、サウナに入っても大して熱いと感じなかったのは、824列車の灼熱地獄を経験した直後だったからでしょうね(笑)

毎年10月の下旬に行われる大学祭に初めて出展したのもこの年です。確か学生会館のロビーだったのではないかと記憶しているのですが、鉄道模型や鉄道写真等、メンバーそれぞれが競うように自分の趣味を披露しました。確か私は上記の824列車の完全乗破記録をポスター展示したように記憶しています。楠本クンはHOゲージの模型を展示し、知り合いの模型店から線路を借りてきてレイアウトまで作って運転会を実施。その運転会用に客車の数が足りないということになり、私も楠本クンの指導の下、生まれて初めて鉄道模型を作りました。厚紙を材料にしたペーパー製の模型で、茶色い客車でした。長澤クンは軽便鉄道の模型を展示。ジオラマ(風景模型)までしっかり作られた本格的なものでした。佐々木クンと山田クンは自分達で撮影してきた鉄道写真を展示。2人とも玄人はだしの腕前だったので、多くの人の目を集めていました。部費稼ぎのために模擬店も出しました。恐る恐る私が郷里の味を思い出しつつ讃岐ウドンを作って出したのですが、意外なほど好評で、最初に用意したウドン玉はすぐに底をつき、追加の玉を買いに行くほどでしたね。この大学祭への初出展は本当に大成功でした。間違いなく他のサークルの展示を圧倒していたように思っています。広島大学に鉄道研究会があることを、広く学内に知らしめたのではなかったでしょうか。

楠本クンのお宅から8ミリカメラをお借りして(当時はビデオカメラなんてありませんでしたから)、廃止の決まった岡山県の軽便鉄道「下津井電鉄」の映画を撮りに行ったこともありました。また、軽便鉄道と言えば、既に廃止されていた同じく岡山県の井笠鉄道の廃駅を使った記念館作りに長澤クンや山田クンが足繁く協力しに通ったりもしていましたね。私も井笠鉄道の廃線跡に連れて行って貰ったことがあるのですが、そこで初めて“鉄道”の奥の深さ、原点を見たような感じがしました(ここで言う“鉄道”とは、剣道や柔道、茶道、華道に通じる鉄道マニアとしての“道”のことです)。

テレビの全国放送にも出演しました。あれはどういう経緯だったのかは忘れてしまいましたが、NHKの広島放送局発の全国放送として広島の路面電車の特集番組を放映した時、私達広島大学鉄道研究会のメンバーがゲストに招かれ、アナウンサーの方と一緒に、広電の車庫を訪れたり、特別に借り切った電車に乗って、市内を走ったりしました。今の『ブラタモリ』のような番組でした。その際、アナウンサーの方からアドリブで出された問題にマイクを振られた私が思わず間違って答えてしまったことは実は今でも鮮明に覚えていて、心から悔やんでいます。しまったぁ~~!
 アナウンサー「東京の都電で最後に残っている区間はどことどこ?」
 私「え~~~と、早稲田と荒川車庫」
 アナウンサー「残念、早稲田と三ノ輪橋が正解です」
 私「あ~~~、そうだった」
その部分は録画ではなく生放送だったので、しっかり全国に醜態が流れてしまいました。痛恨の極みでした。おそらくそのアナウンサーは早稲田大学の出身だったのではないでしょうか。その後、首都圏に住んで長いので、今では極めて簡単な問題です。ですが、今でも都電荒川線の電車を見掛けるたびに、その時のことを思い出して「都電荒川線は早稲田と三ノ輪橋」と心の中で呟いたりしています(笑) また、その時のことがトラウマになっていて、こう見えて、実は私、雑誌や新聞、テレビ等の取材を受けるのが苦手なんです(笑)

さらに鉄道研究会の存在を学内に広く知らしめようとフェニックス駅伝という学内の駅伝大会にも出場しました。学生会館に貼り出された出場チーム募集のポスターを見つけて、“駅”を“伝える”「駅伝」という以上は、鉄道研究会としては絶対に出場しなくてはいけない!…というまったく無茶苦茶な出場動機でした。鉄道研究会なので、ゼッケンの上にブルートレイン(寝台特急列車)の先頭を飾るヘッドマークのシールを付け、タスキはタブレットという単線区間を走る列車が使用していた認識票に巻きつけて肩から下げて走ったりしました(思いつきは鉄研らしくてよかったのですが、メチャメチャ走りにくかったです)。運動が苦手なメンバーも多く、無理して走ってもらったので、初出場の結果は散々なものでしたが、正直、楽しかったです。メンバーで一つの襷を繋いでいく“駅伝”の魅力を、その時、初めて知りました。もっとも、後半は各区間繰上げ出発の連続で、襷は最後までは繋げませんでしたが…。824列車完全乗破もそうですが、当時の広島大学鉄道研究会は間違いなく体育会系のサークルでしたね。

(40年も経つと記憶も一部あやふやなところがあり、もしかすると創立2年目のことも含まれているかもしれません。)

めいめい好き勝手に活動していたのがかえって功を奏したのか、サークルとして鉄道趣味の受け皿が随分と拡大しました。そして迎えた創立2年目の春。サークルとしてこの先もずっと長く継続していくためには、もっと会員数を増やして、大学の公認サークルとして認めてもらい、活動の拠点としての部室も確保しないといけないということになり、その方法を考えに考えて出した結論が女子会員の大量勧誘というものでした。鉄道研究会と言うと、どうしてもオタクの男子学生の集まりという印象があると思いますが、これを打破して、女子学生にも入会してもらうか…、次はこれを真剣に考えました。そこで考えついたのがソフト路線への大転換。「旅鉄分科会」の立ち上げです。

当時、鉄道ジャーナル社から『旅と鉄道』という季刊の雑誌が出版されたばかりで(現在は朝日新聞出版社から出版)、私の愛読雑誌でした。鉄道マニア向けの雑誌というと「鉄道ジャーナル」や「鉄道ファン」、「鉄道ピクトリアル」といった雑誌が当時からあったのですが、コアな(熱心な)マニアをターゲットとしているため、内容としては幾分高尚なところがあり、私のようにただ単純に鉄道が好き、鉄道に乗って旅をするのが好きっといったレベルの鉄道マニア(マニアというより鉄道好きのレベルかな)にとってはハードルが高いようなところがありました。そういうレベルの読者をターゲットにして出版された雑誌が『旅と鉄道』(通称:タビテツ)だったように思います。

今でこそ鉄道に乗って列車旅を楽しむ「乗り鉄」は鉄道趣味の立派な一つのジャンルとして認知され、むしろ多数派を占めるようになっていますが、今から40年前はどちらかと言うと軟弱なマイナーマニアとして扱われていたようなところがありました。紀行作家の宮脇俊三さんの処女作である『時刻表2万キロ』を出版して日本ノンフィクション賞を受賞し、“鉄道に乗る”ことを趣味とする者の存在を広く世間に認知させたのは私が大学を卒業した昭和53年(1978年)のことです。その1年前に広島大学鉄道研究会は雑誌『旅と鉄道』にヒントを得て、「旅鉄分科会」なるものを立ち上げ、その「旅鉄分科会」を前面に押し立てて、新規会員の獲得に乗り出したのでした。大学祭の模擬店に出店して稼いだ資金で勧誘ビラも印刷し、大々的に会員勧誘を行いました。

結果としてはこの作戦が大ヒットしました。10名以上の女子学生も含め40名近い新入生が入会し、なんと総勢50名近い大所帯のサークルにまで一気に膨れ上がりました。これは当初の予想以上のことで、正直ビックリしましたね。この背景には以前は存在していた旅行系のサークルが初代の鉄道研究会同様、学生運動の嵐が吹き荒れる中でことごとく消滅してしまっていたということもありました。旅行系サークルへの入会を考えていた新入生にとって行き場所がなかったってことですから。もちろん、それを狙って打ち出した作戦ではあったのですが、それがここまで当たるとは発案者の私としても思ってもみませんでした。

おそらく他の大学の鉄道研究会の皆さんは、広島大学鉄道研究会が打ち出したこの路線に面食らったのではないかと思います。「いったい何を考えてんだか?」ってね。誤解のないように言っておきますと、このソフト路線への大転換は鉄道研究会としてのコアな部分がしっかり出来あがりつつあったからこそできたことでした。すなわち、鉄道模型分科会、駅構内線路配置分科会、軽便鉄道分科会といった他の大学の鉄道研究会と比較しても遜色ないくらいのコアな活動ができる下地が徐々に整いつつあったからこその大転換でした。

でも、今から振り返るとこの路線の大転換が結果として大正解だったように発案者としては自己分析しています。聞くところによると、中国・四国地方の大学の鉄道研究会で、当時から現在まで一度も途切れることなく存続している鉄道研究会は広島大学の鉄道研究会だけではないか…と言われています。先手を打つことで時代の流れにうまく乗ることができたってことでしょうね。今でも広島大学鉄道研究会のHPを見ると、タイトルのところに『汽車旅サークルてっけん』の文字があります。この時から始まるサークルの伝統を今もちゃんと受け継いでくれているのではないか…と勝手に想像しています。

広島大学鉄道研究会公式HP

総勢50名近い大所帯の中堅サークルにまで一気に膨れ上がったことで、創設から僅か2年目にして大学の公認サークルとして認められ、念願の部室も確保して、40年経った今に至っているというわけです。この大学の公認サークルへの認知と部室の確保にあたっては、創設の中核メンバーの1人で亡くなった佐々木クンの貢献が大きかったと記憶しています。写真サークルにも入っていて、学内外に広い人脈を持っていた彼の存在なくして、こんなに短期間での大学の公認サークルへの認知や部室の確保はできなかっただろうと思っています。

そうそう、このソフト路線への大転換は思わぬ副産物も産んでくれました。(その1)でも書かせていただきましたが、なんと鉄道研究会内でカップルができ、私が知る限り4組がゴールインした(結婚にまで至った)わけです。これは鉄道研究会としては本当に凄いこと(画期的なこと)で、その意味でもこの時の決断は大正解だったように思います。

こうやって当時のことを振り返ってみると、私の企業経営者としての原点は、もしかしたら広島大学鉄道研究会当時にあったのではないかと思えてきます。当時はせっかく復活させた鉄道研究会をどうすれば長く存続させられるかを考えていましたし、今はハレックス社をどうすれば未来永劫存続し、発展できる会社に仕立てあげることができるかってことばかりを常に考えていますから。実践的ということでいうと、私が大学で学んだ一番のことがこれだったのかもしれません。

4年生になると卒業研究(卒研)や就職活動も入ってきたので、私が鉄道研究会で活動できたのは実質的に3年生の時のたった1年間だけでした。しかし、この1年間は本当に楽しく充実していましたね。そして、実に多くのことを学べたように思っています。


……(その3)に続きます。

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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