2016/12/12

鉄研機関誌「せのはち」(その4)

広島大学鉄道研究会創立40周年記念の会に出席した翌日は、学生時代に戻って、広島市内で時間が許す限り、学生時代の思い出巡りと“鉄”三昧を楽しみました。宿泊した市内中心部の袋町にある平和大通りに面したホテルをチェックアウトした後は、市内中心部から港のある宇品に向かう路面電車が真ん中を通る道路に沿って、かつて広島大学があったほうに向かって歩きました。路面電車に乗れば広島大学のあったところまではすぐなのですが、路面電車の写真も撮りたいですし、学生時代はこのあたりをふつうに歩いていましたから。

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平和大通りの並木は既に紅葉が進んでいます。今年は11月に入って急激に気温が下がったためか、広島市内もことのほか紅葉の色付きがいいようで、綺麗です。広島と言えば紅葉(もみじ)。広島市の郊外にある安芸の宮島は昔から美しい紅葉(もみじ)の名所ではあったのですが、私の中では広島市と紅葉は直接的には結びつきませんでした。それよりもなによりも、お笑いコンビ「B&B」の島田洋七さん(広島出身)のギャグ「もみじまんじゅう!」で一躍全国的に有名になっちゃいました。加えて、紅葉のように目が眩むような真っ赤なユニフォームを着た広島東洋カープもありますし。広島と言えば真っ赤な紅葉(もみじ)ですね。

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でも、この平和大通りがそうなのですが、広島市中心部には、戦後、原爆からの復興の過程でイチョウやサクラ、ケヤキ、センダン、プラタナス(スズカケ)、メタセコイヤ、トウカエデ、アメリカフウ、ハナミズキ……様々な落葉樹が街路樹や公園の植木として数多く植えられたようなところがあり、それらの樹々が秋になると色とりどりに紅葉し、美しい風景を醸し出してくれています。せっかく「広島と言えば紅葉」が定着してきているのですから、「紅葉が美しい街・広島」として全国的に売り出してもいいのではないでしょうか。それくらい綺麗です。

私が歩いている横を広島電鉄(通称:広電(ひろでん))の路面電車が通り過ぎていきます。写真は昭和57年(1982年)製の700形車両。一見新しそうですが、これでも導入から30年以上が経過しています。

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今や最新鋭の連接車両の電車が多いのですが、中には製造されてから50年以上が経過した古い電車もやってきます。それも京都や大阪や神戸、福岡といった路面電車が廃止されてしまった別の場所から、新たな活躍の場を求めて広島にやって来た電車が。なので、広島の街はそうした古い電車達の「動く路面電車博物館」のようなところがあります。

これは1900形と呼ばれる元京都市電で使われていた車両で、私が生まれた翌年の昭和32年(1957年)の製造。京都市電全廃直前の昭和52年(1977年)、すなわち私が大学を卒業するギリギリ前の年に京都から広島にやってきました。なので、私の大好きな車両の一つです。広島電鉄の路面電車の凄いところは、そのような他の都市からやって来た電車に対しては、元のままの塗装を続けて運用しているところです。従って、この元京都市電の電車も京都市電時代の塗装のままで今も運用されています。さらに、京都からやって来たことを示すように、このタイプの車両には全車両に「祇園」やら「嵐山」「舞妓」「比叡」などの愛称が付けられ、それが車体に掲げられています。下の写真の1914号車は「平安」の愛称が付けられています。

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広島はいまや日本最大の路面電車の街です。広島は太田川が運んできた土砂が河口を埋め立てて三角州を作り、その三角州の上にできた街なので、地面の下は砂になっています。そのため崩れやすいので、中国四国地方随一、人口約120万人の大都市であるにもかかわらず地下鉄が建設できず、今でも路面電車が重要な市民の足となっているのです。広島市内の路面電車の路線の総延長は19.0km。6系統の路線で運行されていて、フリークエンシーサービスで次から次にやって来るので、どの路線も乗るのに停留所でさほど待つ必要がありません。この他に安芸の宮島に渡る連絡船(フェリー)が発着する宮島口駅まで向かう延長16.1kmの専用軌道の郊外路線があり、路面電車タイプの連接車両がその郊外路線にも市内中心部から直接乗り入れていて便利です。

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学生時代、私が暮らした下宿(当時はアパートではなく、朝夕の賄い付きの“下宿”が結構ありました)のあった鷹野橋(電停名)を過ぎて、さらに南に進みます。鷹野橋あたりは広大生、特に工学部の学生の下宿が多くあった学生街でした。アーケードに覆われた鷹野橋商店街も近代的に様変わりして、道路構造以外で往時を偲ぶものはほとんど見つけられません。下宿があったあたりには大きなマンションが建っていました。卒業して38年。時間の流れを感じます。(あっ、いっけね! ブログ用に鷹野橋界隈の写真を撮るのを忘れちゃってる!)


……(その5)に続きます。