2016/12/14

鉄研機関誌「せのはち」(その5)

鷹野橋の次の電停が日赤病院前、ここはかつて「広大前」という電停名称でした。ここがかつて広島大学(通称:広大(ひろだい))の本部キャンパス(千田キャンパス)があった跡地です。
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私はこの千田キャンパスで教養課程の2年間を学びました。広島大学は12学部(現在は教育学部と学校教育学部が合併したので11学部)から成る国立の総合大学で、私が在学当時の総学生数は東京大学に次ぐ国立大学第2位の約1万2,000人というマンモス大学でした(現在はもっと増えて、学部学生、大学院生、専攻科学生等を合わせると1万5,000人を超える学生さんがいらっしゃるようです)。また、あまり知られてはいませんが、広島大学は日本で最も多くの前身校を持つ大学です。基本的に旧制の広島文理科大学、広島高等師範学校、広島女子高等師範学校、広島高等学校、広島師範学校、広島青年師範学校、広島高等工業学校、広島市立工業専門学校の8校が合体して昭和24年(1949年)に新制の国立広島大学になったもので(その後、広島県立広島医科大学も併合)、中核となった広島文理科大学と広島高等師範学校のあった千田キャンパスに本部が置かれ、全学部の1年生と2年生は千田キャンパスで教養課程を学びました(3年次以降の専門課程は、それぞれ別のキャンパスで学びました。現在は大学教育により専門性が求められるようになったので、そもそも教養課程というもの自体がなくなったとお聞きしています)。広島市の中心部にほど近い狭い狭い敷地のキャンパスであまりに大勢の学生が学ぶため、常に人が溢れているような状態で、全国の国立大学のうち最も人口密度の高い大学というあまり嬉しくない称号もいただいたものです。

このため、私が卒業した4年後の昭和57年(1982年)から広島市と隣接する東広島市西条(山陽新幹線の東広島駅、及び広島空港の近くで、広島市中心部からはかなり離れた山の中のような場所です)に新しく造成した北海道大学に次ぐ国立大学第2位の面積を誇る東広島キャンパスに移転を開始(最初に移転したのが私が卒業した工学部でした)。平成7年(1995年)、最後まで千田キャンパス等広島市内に残っていた学校教育学部(現在は教育学部と合体)、法学部、経済学部、附属図書館が東広島キャンパスへ移転し、13年かけての大移転を完了。大学病院のある医学部と歯学部を除く9学部が東広島キャンパスに集結しました。

で、ここが本部キャンパスがあった“跡地”なんです。移転完了から20年以上が経過し、大勢の学生でごった返していたかつての広大本部キャンパスの栄華は微塵も感じられません。今では当時の建物は正門と一番奥にあった理学部の建物くらいしか残っていません。

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初代学長の森戸辰男先生に因んで“森戸道路“と名付けられた正門から奥の理学部まで真っ直ぐ続く道路は両側には、原爆による壊滅的な被害から不死鳥のごとく蘇ったことを記念してフェニックスの並木になっていたのですが、今も正門近くには辛うじてそれが残っていて、往時を偲ぶことができます。

私が在学当時、広島大学では呉市の音戸大橋からここ広島大学本部前まで8区間の学内駅伝大会(フェニックス駅伝)が開催されていて、私は3年次と4年次の2年連続で鉄道研究会からの選抜チームで出場しました(4年次には卒業を間近に控えていたにもかかわらず、思い出作りに強行出場しました)。私は3年次は6区、4年次にはアンカーの8区を走ったのですが、その4年次、大学の正門を抜けて森戸道路に入ってから、ゴールまでの間で3人に相次いで抜かれてしまったという嫌ぁ〜な思い出を持っています。ゴール前ということで、森戸道路の両サイドには大勢の人が応援に駆けつけていましたからね。後ろから3人が迫ってきているのは1km手前あたりから分かっていましたが、ここまで抜かれずに逃げてきたので、このまま逃げ切れるだろうと正門を抜けてホッと安心した矢先のことでした。今、見ると、正門を抜けたあたりから大学の本部があったあたりまではほんの僅かな距離にすぎません。この短い距離の間で3人に次々に抜かれるとは……。クッソ〜〜ォ! 練習不足の影響が最後の最後で出ちゃいました。卒業を間近に控えた時期だったので、いまだにあの時の悔しさが蘇ってきます。私にとって森戸道路といえば、この思い出ですね。そのフェニックス駅伝のゴールがあった本部跡付近では、この日、近隣の人が集まっての日曜市と言うかバザーが開かれていました。

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その森戸道路の突き当たりにある理学部の建物です。戦前の(旧制の)広島文理科大学時代から残る理学部の建物は煉瓦造りの古い建物なのですが、原爆の爆心地からさほど遠くない距離にありながら、原爆を受けても倒壊することもなく残ったので、記念物のように残しているのかもしれません。爆心地側の理学部の建物の北側の壁面は、爆風により煉瓦が一部剥がれ落ちたのですが、これも敢えてその時のままの姿で残されています。私の在学当時には、広島大学の平和教育のシンボルのような建物でした。

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昨夜集まった仲間達のほとんどは東広島キャンパス移転前の千田キャンパスで学んだ者たち。私もそうですが、そういう者たちの中では“広大(ひろだい)”と言えばあくまでも千田キャンパスをはじめとして広島市中心部にあったキャンパスのことを指し、東広島キャンパスに移転した後の広島大学には母校と言ってもイマイチ愛着が湧かず、まったく別の大学のような印象を持ってしまうんです。クチの悪い同窓生の中には“東広島大学”と呼ぶ連中までいます。東広島キャンパスで学んだ後輩の皆様には差別しているようで大変に申し訳ないし、良くないこととは思っているのですが、感情論なので仕方がないことですね。逆にいうと、千田キャンパスで学んだ者にとっては、それだけ千田キャンパスへの思い入れが強いってことです。そこはご理解ください。

そうそう、先ほど広大は、旧制の広島文理科大学、広島高等師範学校、広島女子高等師範学校、広島高等学校、広島師範学校、広島青年師範学校、広島高等工業学校、広島市立工業専門学校、そして広島県立広島医科大学の9校が合体してできた大学だということを書かせていただきました。この9校の名称を眺めてみると、師範学校が4校含まれているのがお分かりいただけるかと思います。文理科大学も高等師範学校を卒業してから進学する大学院のような大学だったので、ここも師範学校系の大学といえます。すなわち、広島大学は学校の先生を多数輩出する教育系の大学という側面が色濃く残る大学でした。実際、今はどうか分かりませんが、かつては西日本の各府県の高校では広島大学卒の先生が一大勢力を誇っているようなところがありました。

このような大学でしたので、世界遺産になっている「安芸の宮島」を建造したりして栄華を誇った平家一門が「平家にあらずんば人にあらず」と言われたように、「教育学部にあらずんば広大生にあらず」みたいな雰囲気が学内にあり、9校のうちの2校ではあるものの、広島高等工業学校と広島市立工業専門学校の流れをくむ工学部は多勢に無勢であくまでも少数派の亜流。当時、入試の際の偏差値は工学部のほうが教育学部より高かったのに…と、ちょこっと悔しい思いをしたのも事実です。工学部の卒業生の中にも大学や高専、工業高校、職業専修の専門学校等の教員になる人も多かったのが特徴でした。工学部には工業高校教員養成課程という特別なコースも確かあったように記憶しています。

私が在学中の鉄道研究会発足まもない頃、まだ部室もあてがわれてなかったので、鉄道研究会が主に活動した(集まった)のは、この左側に見える学生会館の2階でした(今は別の用途の建物になっているようです)。まだこの建物が残っているのが嬉しかったですね。

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先ほどから広大は、旧制の広島文理科大学、広島高等師範学校、広島女子高等師範学校、広島高等学校、広島師範学校、広島青年師範学校、広島高等工業学校、広島市立工業専門学校、そして広島県立広島医科大学という日本の大学で最も多い9つの学校(前身校)が合体してできた大学だということを何度か書かせていただきました。各学部は基本的にそれら前身校の流れをくみ、それぞれ前身校の置かれていた場所にその後もキャンパスを置いていました。

まず、中核となった広島高等師範学校。ここは東京高等師範学校(現在の筑波大学)と並び全国で2校あった高等師範学校で、教育学部の源流となりました。次に広島文理科大学。ここは広島高等師範学校の高師から大学への昇格運動の過程で生まれた大学で、文学部、理学部、そして教育学部の一部の源流となりました。なので、文学部、理学部、教育学部は広島高等師範学校と広島文理科大学のあった広島市中区東千田町の千田キャンパスに置かれました。

さらには広島女子高等師範学校、ここは御茶ノ水女子大学、奈良女子大学と並び、日本で3校目の女子高等師範学校でした。爆心に近い広島市中心部に学校があったため、原爆の投下により、広島大学の前身校の中では最も多くの犠牲者を出しました。原爆によりキャンパスが壊滅してしまったので、生き残った生徒や教職員は附属学校のあった福山市に移り、教育学部福山分校(福山キャンパス)の源流の1つとなりました。

広島高等学校、ここは広島大学教養部(現在の総合科学部)の源流になった学校です。広島高等学校時代は広島市南区皆実(みなみ)町にあったのですが、ここも原爆により壊滅。後年、新制広島大学に統合されるにあたり千田キャンパスのほうに統合されました。

広島師範学校は主として小学校の教員を養成する学校で、学校教育学部(現在は教育学部と統合)の源流となりました。広島師範学校が広島市南区東雲(しののめ)にあった流れで、学校教育学部は東雲キャンパスに置かれていました。

広島青年師範学校、ここは勤労青年に対する補習教育を目的とする実業補習学校の教員を養成するために設けられた学校で、男子は農業科、女子は家政科を学びました。教育学部福山分校および水畜産学部(現在の生物生産学部)の源流となった学校で、新制大学への統合時は福山市に学校が置かれていたので、水畜産学部と教育学部の一部は広島市から離れた福山市の福山キャンパスに置かれていました。

広島高等工業学校と広島市立工業専門学校、この2校は文字通り工学部の源流となった学校で、広島高等工業学校のあった広島市中区南千田町にキャンパス(南千田キャンパス)がありました。

それと、広島県立広島医科大学。ここは医学部と歯学部と薬学部の源流となった学校で、創立当初は広島市南区皆実町に大学が置かれていたのですが、原爆投下により崩壊。呉市の広に移転しました。広島大学に併合された後、再び広島市南区霞町に大学病院とキャンパス(霞キャンパス)を設けて移転してきました。

このような経緯があった関係で、私が在学当時は千田キャンパス(本部、教養部、文学部、理学部、教育学部、法学部、経済学部)だけでなく、南千田キャンパス(工学部)、東雲キャンパス(学校教育学部)、福山キャンパス(水畜産学部、教育学部の一部)、霞キャンパス(医学部、歯学部、薬学部)と大きく4つのキャンパスに分かれていました。広島大学の建学(正しくは新制大学になるにあたっての学校統合)の基本的な精神は総合大学としての『自由で平和な一つの大学』というものだったのですが、こう場所も組織も分かれていて、前身となった学校からの流れを色濃く残していたのでは、いつまで経っても“一つの大学”にはなり得ません。大学としての一体感はなかなか醸成されず、私が在学中は、まぁ~、各学部、もっと言うと各個人でバラバラって感じでした。それがかえって建学の精神の一番最初にある“自由で”の雰囲気を醸成するのには結びついてはいたと思います。

私が広島大学に入学した当初、ある先生から「広大は国立大学の中で最も私学の大学に似た雰囲気を持つ大学だ」と言われたことを今でも覚えています。私は私学の大学で学んだことがないので、どこを指して“最も私学の雰囲気を持った国立大学”というのかについてはまったく分かりかねますが、放し飼いのように自由奔放な学生生活を送らせていただいたことだけは確かですね。それもこれも、キャンパスが学部ごとに分かれていたことに少しは関係しているように思えます。

で、建学の基本精神が“一つの大学”だったわけですから、東広島キャンパスへの統合移転は広島大学建学以来の“悲願”のようなものだったのではないか…と思います。晴れて“一つの大学”になったことで、“自由で”の部分が損なわれていないのだとしたら、東広島キャンパスへの統合移転は間違いではなかったと思うのですが、実際のところどうなのでしょうね。


【追記】
これだけキャンパスが分かれていると、大学のサークルも運営していくのが大変でした。多くのサークルが生まれては消えていく中で、鉄道研究会が創立以来40年間もずっと継続しているということは十分賞賛に値することだと私は思っています。まぁ~、それもこれも鉄道研究会の活動自体が基本的に各個人バラバラで、締め付けがキツくなく、自由な雰囲気だったことが関係しているのではないかと分析しています。そういうサークルを作って、本当によかったです。


……(その6)に続きます。

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

株式会社ハレックス
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越智正昭

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