2016/12/19

鉄研機関誌「せのはち」(その7)

この広島電鉄の本社から道を挟んで反対側をちょこっと奥に入ったところにあるのが、私が卒業した広大工学部の跡地です。もちろん、その跡地も見てみました。広大工学部が東広島キャンパスに移転したのは昭和57年(1982年)のことで、あれから34年が経過しました。今は広島市総合健康センターとして健康科学館や原爆被爆者福祉センター、中区スポーツセンターといった様々な施設が建ってガラッと姿を変えてしまっています。構内に広島市工業技術センターが建っているのが広大工学部跡地らしい唯一のところでしょうか。残りの土地も一部マンションが建ったところもあるようですが、ほとんどが千田公園という公園に姿を変えて、公共の場所として使われています。

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かつて正門があったあたりに、見慣れない石のモニュメントが建っています。この石のモニュメントは、銘板によると、広大工学部が東広島キャンパスに移転した後の平成元年(1989年)に、地元の有志の皆さんが、移転する最後まで残っていた正門付近の石垣の原爆で被爆した石を集め、広大工学部の思い出を語る“縁(よすが)”として台を作り、残すことにしたものなのだそうです。大変にありがたいことです。確かに広大工学部の敷地は周囲を低い石垣で囲まれていました。あの石垣の石なのですね。

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正門を入ってすぐのところには、今は広島市総合健康センターの健康科学館の立派な鉄筋コンクリート製の建物が建っていますが、私が学生時代、ここには木造3階建ての古めかしい校舎が並び、そこに工学部の事務所や応用数学などの共通科目の先生方の研究室が入っていました。私は昭和49年(1974年)に広大工学部に入学したのですが、小学校がまだ木造だった以外は私が通った中学校も高校も基本鉄筋コンクリートの建物だったので、最初にその木造の校舎を見た時は、「エッ!? 大学が木造なの?」と驚いたものでした。この木造3階建ての校舎は大正9年(1920年)の広島高等工業学校創設時に建てられた建物ですなわち戦前に建てられた建物でした。昭和20年(1945年)8月6日、広島に原爆が投下された際には広島市の市街地は一面の焼け野原になったのですが、その戦火の猛威はこの広大工学部のグラウンドのところで奇跡的に食い止められ、宇品など広大工学部のグラウンドより南の地域はそれ以上の延焼は及びませんでした。なので、爆心地からさほど遠く離れていないにも関わらず、広島高等工業学校(その後の広大工学部)の木造3階建ての校舎は焼け落ちることもなく戦後も残ったわけです。原爆の猛戦火を食い止めた…、そういう歴史と由緒のある木造校舎でした。

木造といっても堂々たる立派な校舎だったので、たびたび映画の撮影等で使われました。私の記憶にある中では、漫画家・中沢啓治さんが自身の原爆の被爆体験を元にして描いた自伝的漫画『はだしのゲン』が昭和51年(1976年)に実写による映画化がなされた時、この広大工学部の木造の校舎は主人公ゲンの兄が通う江田島の海軍兵学校のロケ地として使われました。撮影当時、私は3年生だったのですが、撮影される側の校舎の全ての窓にイギリス国旗のようにバッテンの字で飛散防止のための白いテープが貼られ、正門のところに歩哨が立つ小さな小屋が建てられ、周囲の舗装された道路の上にわざわざ土が撒かれて、映画の1つのセットと化していく工学部の建物の様子を面白がって眺めていた記憶があります。

誤解がないように言っておきますと、木造校舎だったのは正門を入ってすぐにあった2棟の校舎だけで、あとは近代的な鉄筋コンクリートの校舎でした。私が学んだ電子工学科があったあたりまで足を伸ばしてみました。正門からの位置関係から推察するに、確かこの建物があるあたりが電子工学科の建物があったあたりです。電子工学科には円筒状の講義棟が併設されていて、弧を描くように階段状になった大講義室はいかにも大学の講義室といった感じで、入学して最初にその教室に入った時には、メチャメチャ嬉しく思っちゃいました(残念ながら、入試の際は別の教室でしたから)。その思い出深い講義棟を偲ばせるものは何も残っていません。

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当時の広島大学工学部には、電気工学科や電子工学科、機械工学科、建築工学科、土木工学科といった通常の学科に加えて、広島という土地柄を反映してか、他の大学にはあまり見られない醸造工学科と船舶工学科、それと経営工学科という特殊な学科がありました。もちろん船舶工学科は瀬戸内海の各地にある造船メーカーに人材を輩出するための学科で、醸造工学科は酒処と言われ賀茂鶴や酔心といった酒造メーカーが多く存在する広島ならではの学科と言えるものでした。毎年秋に行われる工学部祭にはそうした醸造メーカーから酒樽が持ち込まれ、参加者に振る舞われていました。電子工学科の北隣のこのあたりには確かその醸造工学科の講義棟と実験棟という名の“秘密の酒蔵”がありました(醸造工学科に友人がいなかったので、その真偽のほどは分かりませんが…。間違っていたら、ごめんなさい)。今は落葉樹が植えられた公園に姿を変えています。ちょうど紅葉真っ盛りで、綺麗です。

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下の写真の奥に見えるグラウンドが、前述の原爆の戦火の延焼をここで食い止めたという工学部のグラウンドです。今もグラウンドのまま残されていて、少年野球チームが練習を行っていました。私の学生時代にはこのあたりに醸造工学科や化学工学科といった化学系の学科の建物が複数立ち並び、電子工学科の建物からグラウンドは見えなかったのですが、今はそうした建物もないので、電子工学科があったと思われる場所からはグラウンドがよく見えます。

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前述のように母校・広大工学部の跡地は、今は千田公園として綺麗に整備され、近隣市民の憩いの場となっています。元々工学部の敷地内には落葉樹を中心に木々が多く植えられていたのですが、その当時とは木の種類が違っているようなので、千田公園として整備される中で植えられていった木々なんでしょう。例えば、電子工学科の建物の北隣にはでっかいイチョウの木があって、毎年秋には銀杏(ギンナン)を拾ってきて、焼いて食べたものなのですが、そのイチョウの木は今は現存しておりません。

おやおやおや…、これはなんともでっかいモミジですね。オオモミジというカエデの園芸品種らしいです。さすが広島です。カナダの国旗に描かれていそうなくらいでっかいモミジの葉っぱです。ちなみにカナダに国旗に描かれているのはMaple Leaf、日本名はサトウカエデです。そのサトウカエデの樹液を煮詰めたものがメープルシロップと呼ばれる甘味料です。ここまで分かると、必ず夜中に秘かにこのオオモミジの樹液を採取して、それを煮詰めてメープルシロップが作れないか試してみようとする不心得者が出てくるのが広大工学部のおかしな学風でしたが、今はもうそうした不心得者はいないでしょうね(笑)。

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工学部のすぐ近くを流れる太田川は、干潮時には川底があらかた露呈するくらいまで干上がってしまうのですが、そうした時、大型のマイナスドライバーを1本持って、「ちょっくら晩飯のオカズを採ってくる」と言って太田川の川底に下りていく猛者のような先輩もいらっしゃいました。おそらく川底の岩に付着したカキ(牡蠣)でも採ってくるつもりだったのでしょう。アサリは結構採れたみたいで、私もお相伴にあずかったりもしましたが、川底で採れたカキまでは残念ながら私は見たことがありません。豆粒のような小形のカキはちょっとは採れたようですが…。今だと漁業許可を得ていない素人がそういうことをやるのって違法じゃあないの?…と思っちゃいますが、まぁ~、そういうのどかな時代ではありました。

東広島キャンパスに移転する前、特に私が在学していた昭和49年(1974年)から昭和53年(1978年)頃までの広島大学は、おとなしくて真面目なイメージがある国立大学でありながら、ちょっとバンカラっぽい雰囲気がそこはかとなく漂うような大学でした。

さすがに私の同級生にはいませんでしたが、先輩の中には下駄を履いて学校に来ていた学生が何人もいらっしゃいました。それも真冬でも素足に下駄で。吉田拓郎さんが作詞作曲して、ムッシュかまやつこと、かまやつひろしさんの代表曲ともなった『我が良き友よ』の歌詞ではありませんが、その時、腰に手拭いをぶら下げていたかどうかは記憶にありませんが、たとえ腰に手拭いをぶら下げていたとしてもおかしくはありませんでした。私と同じ下宿にそうした先輩の1人がいらっしゃって、私が「下駄なんか履いていたのでは歩きにくくありませんか」とお訊きしたところ、「そんなことありゃあせん。走らにゃあならん時は、すぐに裸足になれるから、かえって便利じゃけぇ。裸足で走らせたら、ワシゃぁブチ(メチャメチャ)速いけぇ~。それと、いざとなったら、こいつが自分の身を守る武器になるけぇのぉ」ってことでした。自分の身を守る武器って、いったいどういう学生生活を送っていらっしゃったのでしょうね。ゾォ~~(・_・;

ちなみに、『我が良き友よ』を作詞作曲なさった吉田拓郎さんは現在70歳。私より9学年上で、広島商科大学(現・広島修道大学)のご出身です。『我が良き友よ』の歌詞に出てくるバンカラな大学生は吉田拓郎さんの大学時代の同級生がモデルであるとのことですが、当時の広島市内の大学にはそうしたバンカラな雰囲気が漂っていたのでしょう。私が在学していた頃より数年前までは、その雰囲気が確実に残っていたように思えます。

菅原文太さん主演の東映映画『仁義なき戦い』(深作欣二監督)の舞台として有名になったように、当時の広島では893屋さんの抗争がなおも続いているようなところがありました。私も繁華街の流川近辺で、パァーン!というロケット花火のような乾いた破裂音(おそらく銃声)とその後に続く「ワリャァ~!」というドスの利いた何人もの男の人が発する怒声、それらをセットで聞いたことがあります。その時は流れ弾が飛んでくると危険なので、私はすぐにその場を離れ、急ぎ足で下宿に戻ったのですが、その際、走って現場に急行する何人もの警官とすれ違いました。また、遠くから何台ものパトカーのサイレンの音も聞こえてきました。何が起こったのか知りたくて翌日の新聞朝刊を開いて目を通してみたのですが、新聞には「流川で〇〇組系〇〇組と〇〇会系〇〇組の構成員同士が抗争」というほんの小さな記事が載っていただけでした。当時の広島は映画『仁義なき戦い』で描かれた時代からは少し時間が経っていましたので映画で描かれた血で血を洗うほどの状態ではなかったですが、それでもあの抗争は完全には終結しておらず、こういうことは極々ふつうにあり、正直ちょっと殺伐とした匂いも漂うような刺激的な街ではありました。

ちなみに、映画『仁義なき戦い』の原作は飯干晃一さんが書いた同名のドキュメンタリー作品で、戦後の広島県で実際に起こった893屋さんの広島抗争を、当事者の1人の方が書いた手記をベースに、作家の飯干晃一さんが背景等の解説を加えただけという作品でした(映画は後年レンタルビデオを借りてきて観ました)。なので、ほとんどが実話の内容でした。映画の劇中で菅原文太さんや松方弘樹さん、梅宮辰夫さん、田中邦衛さん、金子信雄さんといったほとんどの登場人物が発する「ほじゃけぇのぉ」に代表される広島弁は“893屋さんの言葉”、あるいは“恐いオニイサンが脅す時に使う言葉”のように全国的に思われたようなところがあったのですが、広島にやって来てみると、可愛い女の子や子供達まで日常会話の中でふつうに喋る言葉でした。広島大学の先生の中にも広島弁で講義をする先生もいらっしゃったくらいです。当たり前か(笑) 広島にやって来た当初はいつも叱られているようで恐い感じを受けたのですが、対岸の四国の出身ということもあって、すぐに慣れました(四国の愛媛県の言葉と似てはいますが、根本的には違う方言です)。“893屋さんの言葉”のように思える広島弁ですが、若い女の子が喋ると、これが可愛いんですよね。

調べてみると映画『仁義なき戦い』が公開されたのが昭和48年(1973年)、私が広島大学に入学する1年前のことでした。なので、当時の広島というと物騒な街というイメージがあり、高校時代の友人からは「広島なんぞに行って、大丈夫か?」…などと心配されたりしたこともありました。そういう時代背景があった当時の広島です。当時の広島大学が国立大学でありながら、ちょっとバンカラっぽい雰囲気が漂っていたのも、そうした時代背景や社会的背景が影響していたのかもしれません。

私の同じ学科の友人の中に体育会に属する某武道系サークルの幹部がいたのですが、その友人から「少しでも広島の街を浄化するため、昨夜は流川でチンピラを3人ほどボコボコにしてきたった。ほれ、これがその時の勲章じゃあ」という自慢話を聞いたことがあります。勲章とは赤く腫れ上がった拳のこと。拳がここまで腫れ上がるくらいまで素手で殴ったってことですから、そりゃあ相手はボコボコでしょう。「スポーツではなく実戦で自分がどこまで強いのか試してみとおてのぉ〜」と平然と言っていた彼は、映画で観たブルース・リーに憧れて大学に入学をしてからその武道をはじめ、最後は主将を務めるまでになった武闘派でした。そりゃあ彼としては一度でいいから憧れのブルース・リーのような命賭けの派手な立ち回りをやってみたかったのでしょうね。ちなみにその武道では他流試合が厳しく禁止されていたので、こうして彼としては正当な(?)他流試合を考え出したのではないかと思われます。当時、その武闘派の彼から聞いたのですが、始めてから2分以内にケリをつけて、あとは蜘蛛の子を散らすように逃げること、これが重要で、2分以上経ったら近くの交番から警察が駆けつけてきて捕まってしまうので、タイムキーパー兼見張り役の下級生まで同行させていたのだそうでした(40年も経ったら、これも時効ですよね)。ところで、その武闘派の彼は今はどうしていらっしゃるのでしょうね。孫の姿に目を細める優しいジイジになっていたりしたら笑えるのですが…。

これは以前にも書いたことですが、このような893屋さん同士の抗争に加えて、私が入学した当時の広島大学では、まだ大学紛争の燃えかすのようなものが日常的に燃え盛っていました。日本の学生運動が最も盛り上がりを見せたのは、1960年の安保闘争、さらには1968年から1970年にかけての全共闘運動による大学紛争の時期で、私が大学に入学した昭和49年(1974年)には、社会が豊かになったことでの政治離れや内ゲバなど過激な運動への忌避から、全国的に下火になってきていました。しかしながら、原爆が投下されて幾多の一般市民が犠牲になった被爆地・広島にある広島大学では伝統的に反戦運動が盛んで、東京や京都・大阪の大学を追放されたり排斥されたりした各大学の学生の活動家達は広島大学に集まり、大学紛争の火が完全に消える前の最後の輝きのように妙な盛り上がりを見せていました。

男の隠れ家(その2)

彼ら活動家は、学生自治会や様々なサークルを拠点に過激な内容のビラ(アジビラ)を学内に撒き散らし、ポスター、立て看板(タテカン)で大学キャンパスの至るところを汚し、大勢集まっては校内集会や講演会、学習会などのイベントを繰り返し開催していました。時には拡声器を使って授業前の教室や昼休みの広場などで勝手に演説を始めて自らの独りよがりな主張をアピールするのですが、それにより休講になる講義が続出。果てはバリケードを築き、誰も学内に入れないようにして広島県警の機動隊と対峙する過激な事態まで発生(入学式が学内で行えず、急遽会場が広島市の公会堂に変更されて行われたくらいでした)。さらには活動家同士の流血にまで及ぶ抗争もたびたび起きていました。893屋さん同士の抗争に加えて、こうした学生運動の活動家達への対応……、当時の広島県警の皆さんはさぞや大変だったのではないでしょうか。

こういう広島の街を根底からガラッと一変させたのが昭和50年(1975年)の広島東洋カープの初優勝ではなかったか…と私は思っています。昭和50年(1975年)に広島東洋カープが初優勝して、広島の街全体が広島カープのチームカラーの赤一色に染まった後は、893屋さん同士の抗争も、学生運動も一気に沈静化していったように感じています。それも急激に萎むように。そして、「平和宣言都市・広島」の名に相応しく、今のように平和で穏やかな街に急激に変貌を遂げていったように思います。広島東洋カープという楽しくみんなで大騒ぎできる新たな対象が見つかって、自分達がこれまでやってきたことをバカらしく思った893屋さんや活動家達も間違いなくいたからではないでしょうか。真相はよく分かりませんが‥‥。まぁ~、今の広島市民の皆さんの広島東洋カープへの思いを見ていただくと、広島市民の間での広島東洋カープというプロ野球チームの位置付けというものが少しはお分かりいただけるのではないかと思います。首都圏では考えられないくらいに、半端なものじゃあないです。

ちなみに、広島大学鉄道研究会が創設されたのは広島カープが初優勝をした翌年の昭和51年(1976年)のことです。なので、昨夜集まった鉄研の後輩達の中には、こういう広島の街の雰囲気を少しでも知っている人は数少ないのではないでしょうか。

色とりどりの美しい落ち葉を踏みしめながら母校広大工学部の跡地を散策しつつ、こういうことを思い出したりもしていました。懐かしい時間でした。

そうそう、広島大学といえば、『坊がつる讃歌』♪。この歌を外せません。この歌は私が大学を卒業した昭和53年(1978年)にNHK総合テレビの「みんなのうた」の中で芹洋子さんが歌って放送された楽曲です。「みんなのうた」で放送されたところあまりに人気で、その年の大晦日にあったNHK紅白歌合戦でも芹洋子さんが出場して歌ったのですが、実はこの歌の元歌は、広島高等師範学校の山岳部の第一歌「山男の歌」(「広島高師の山男」とも言います)なんです。昭和27年(1952年)に九州大学の山岳部の学生3人が大分県竹田市(現在)の周囲を九重連山に囲まれた盆地「坊がつる」にある山小屋で、雨待ちのつれづれに、広島高等師範学校のこの部歌を元に作った替え歌が『坊がつる讃歌』として、その後、山の仲間達の間で広まっていったもので、元々の歌は広島高等師範学校の山岳部の第一歌「山男の歌」なんです。なので、メロディーはまったく同じでも元歌のほうは歌詞が微妙に異なります。芹洋子さんは昭和52年(1977年)の夏に阿蘇山麓で行われた野外コンサートに出演した際にこの楽曲を知り、大いに気に入ってしまって自分の持ち歌にされたそうなんです。

調べてみると、どうも広島高等師範学校を卒業した山岳部のOBが大分県の高校の教師となって赴任し、その高校で指導した山岳部の生徒に広島高等師範学校山岳部第一歌「山男の歌」を教え、次にその生徒が九州大学に進学して山岳部に入り、のちに『坊がつる讃歌』となる替え歌を作り、それが山を愛する人たちの間で瞬く間に広がったというのが真相のようです。いずれにしても、一度聴いたら忘れないような歌いやすいメロディーの、本当にいい歌です。元歌の広島高等師範学校山岳部第一歌「山男の歌」はどうかは知りませんが、『坊がつる讃歌』をYouTubeを検索したら必ず出てきますので、皆さん、是非一度聴いてみてください。

ちょっとYouTubeで検索してみると、芹洋子さんのオフィシャル動画を見つけました。これは、平成27年(2015年)8月11日に大分県九重町で開催された「山の日」制定記念祭にて収録されたもののようです。背後に見える九重の山々が綺麗です。この動画の一番最後にその『坊がつる讃歌』の歌碑がアップになるのですが、「作詞・神尾明正、補作・松本征夫、作曲・竹山仙史」と刻まれているのが分かります。作詞の神尾明正さんが元歌となる広島高等師範学校山岳部第一歌「山男の歌」を作詞した広島大学の大先輩で、同じく作曲の竹山仙史さんも広島大学の大先輩、そして補作の松本征夫さんがその「山男の歌」をベースに歌詞を補足して、現在も山を愛する方々の間で歌い継がれている名曲『坊がつる讃歌』にまで仕立て上げていただいた九州大学山岳部の学生さんってことなんでしょう。

芹洋子オフィシャル動画『坊がつる讃歌』歌碑除幕式

広島大学の校歌は入学以来一度も歌ったことがありませんが(広大の関係者の皆様、申し訳ありません)、この広島高等師範学校の山岳部の第一歌「山男の歌」は在学中いろいろな場面で散々歌わされましたので、私は今でも1番から6番まですべて歌えます。この日も工学部跡地を歩きながら、この広島高等師範学校の山岳部の第一歌「山男の歌」を口ずさんでいました。今ではこの広島高等師範学校の山岳部の第一歌「山男の歌」と、塩見大治二郎さんが歌った広島東洋カープの応援歌『それ行けカープ』が広島大学の校歌だと私は思い込んでいるくらいです。この『それ行けカープ』も、在学中、散々歌わされましたので、今でもすべて歌えます。

昔は旧制の各大学や高校で学生たちの間で歌い継がれてきた素晴らしい歌がありました。小林旭さんが歌って大ヒットした『北帰行』も元々は旧制旅順高等学校(当時は日本領)の寮歌だったのだそうで、また、ボニージャックスさんや加藤登紀子さん等多くの歌手が歌って大ヒットした『琵琶湖周航の歌』も元々は第三高等学校(現在の京都大学)の寮歌でした。この『坊がつる讃歌』もそういう歌の一つで、広島大学の誇りのような楽曲です。

それにしても、大学の“部歌”がNHKの紅白歌合戦で“正式に”歌われたって、珍しいことではないでしょうか。よく調べておりませんが、もしかすると前述の小林旭さんの『北帰行』と、この『坊がつる讃歌』、いや、広島高等師範学校の山岳部の第一歌「山男の歌」だけかもしれません。まぁ~、そういう大学でしたね、当時の広島大学という大学は。ちなみに、この広島高等師範学校の山岳部の第一歌「山男の歌」に対抗するつもりで、私は広島大学鉄道研究会の歌『ローカル線の詩(うた)』を作詞作曲しました。なので、今も鉄研内で歌い継がれていたら、本当に嬉しいのですが…。


……(その8)に続きます。

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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