2017/01/06

中山道六十九次・街道歩き【第7回: 熊谷→深谷】(その1)

大阪、米国ネバダ州ラスベガス、北海道札幌…という一連の長距離出張を終え、孫娘の七五三参りも済ませた11月5日(土)、『中山道六十九次・街道歩き』の【第7回 熊谷宿→深谷宿】に参加してきました。某旅行会社の企画した『中山道六十九次・街道歩き』も第7回となり、熊谷宿の出発です。出発地点の江戸・日本橋から随分と離れてきたので、いよいよ今回から行き帰りが観光バス利用になります。私もさいたま新都心駅から出る観光バスを利用させていただきました。

この日の朝のさいたま市の天気は曇り。気温も10℃を下回り、午前8時、さいたま新都心駅近くの“けやき広場”の集合場所に集まった参加者の皆さん方の格好はまるで冬装備の厚着。中にはダウンのジャケットを羽織っている人の姿も見掛けられます。しかし、このあと昼にかけて天気は晴れに変わり、気温も20℃近くまで上昇するという予報が出ていたので、私はその予報を信じて、敢えてそこまでの厚着はせずに出掛けました。他の皆さん方の格好を見ていると、さすがに不安が頭をよぎります。予報が外れたらマズイぞ!

我々を乗せたさいたま新都心駅発の観光バスは、途中渋滞に巻き込まれたこともあり、午前10時ちょうど頃に前回第6回の終点だったJR熊谷駅近くのコミュニティ広場に到着しました。ここまで2時間。これなら各自電車利用の現地集合でもよかったんじゃあないの?…って思えてくるのですが、バス利用ならではの良さがここで発揮されます。午前10時頃になると晴れ間がのぞきだし、気温がグングン上昇していきます。さほどの厚着はしなかった私でも、この格好じゃあ汗をかくな…と思えるほどです。皆さん、どうされるのかな…と思っていると、添乗員さんから車内放送で「バスは1日チャーターしておりますので、不要なお荷物はバスに残しておいていただいて結構です。貴重品だけはお持ちください」という案内が入りました。なるほどね。

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この日は私達さいたま新都心駅出発組(3号車)に加えて、新宿出発(1号車)と横浜出発(2号車)の組もあるようなのですが、バスが途中の渋滞に巻き込まれて大幅に遅れているのだとか。なので、計画では号車番号順に熊谷を出発する予定だったそうなのですが、一番最初に熊谷に到着した3号車のさいたま新都心駅出発組が先頭になることになりました。

コミュニティ広場では、歩きの出発前に地元熊谷市の観光ボランティアガイドの皆さんによる熊谷市の案内がありました。

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熊谷市は埼玉県北部地区を代表する人口約20万人の都市です。古くは熊谷寺(ゆうこくじ)の門前町として栄え、江戸時代には中山道の宿場「熊谷宿」が置かれ、宿場町として栄えました。江戸時代には中山道だけでなく、忍御成街道、館林街道、桐生街道、秩父街道、松山街道等がこの熊谷を起点に四方に延びていました。現在でも市内には国道17号をはじめとする4本の国道(及び各国道の計6つのバイパス)、9本の主要地方道、上越新幹線をはじめとする3本の鉄道路線(JR上越新幹線・JR高崎線・秩父鉄道秩父本線)が通過していて、交通の要衝としての役割を果たしています。熊谷の夏の風物詩は愛宕八坂神社の例大祭「熊谷うちわ祭り」で、毎年7月19日〜23日の5日間開催され、「関東一の祇園」と称されています。

熊谷宿は中山道六十九次のうち江戸・日本橋から数えて8番目の宿場で、人口規模は板橋宿に次ぐ中山道有数の巨大な宿場町でした(天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、熊谷宿は町並み10町11間、宿内人口3,263人だったと言われています)。本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠19軒、問屋場1軒、高札場1箇所を擁する宿場としての規模では中山道六十九次の宿場の中でもこの先の本庄宿に次いで規模の大きい宿場町でした。宿場町の大きさに対して旅籠屋の軒数が19と少ないことが特徴的です。これは近隣の助郷村の住民から飯盛旅籠を設置することに対して風紀を乱すと強い反対が起き、忍藩の方針で飯盛旅籠が設置されなかったとされています。そのいっぽうで、宿泊業に依存せず、絹屋、綿屋、糸屋、紺屋などの機織関連の店、茶屋やうどん屋、穀屋などが軒を並べるなど、商業都市として賑わいを見せていたのが、熊谷宿の特徴でした。

熊谷市は大東亜戦争終戦直前の昭和20年(1945年)8月15日の午前0時23分から午前1時39分にかけて、アメリカ軍による大空襲を受けて、往時を偲ぶ建築物のほとんどが焼失してしまいました。これはアメリカ軍による日本本土への最後の空襲であるとされています。終戦が1日早かったら…と思ってしまいます。この空襲は、エンジンや機体の開発を独自に行う能力と、自社での一貫生産を可能とする高い技術力を備え、第二次世界大戦終戦までは東洋最大、世界でも有数の航空機メーカーであった中島飛行機株式会社の主要部品工場の多くがこの熊谷の地にあったからです。

中島飛行機の主力工場は熊谷市に隣接する現在の群馬県太田市にあり、その太田工場では海軍の零戦と並んで有名な一式戦闘機「隼」や二式戦闘機「鍾馗」、四式戦闘機「疾風」といった大日本帝国陸軍航空部隊の歴代主力戦闘機や本格的な双発大型爆撃機である一〇〇式重爆撃機「呑龍」等が製造されました。また、大日本帝国海軍向けにも、真珠湾攻撃で大活躍した九七式艦上攻撃機や夜間戦闘機「月光」、艦上攻撃機「天山」、艦上偵察機「彩雲」、試作だけで終戦を迎えたものの日本初の国産ジェット機であった特殊攻撃機「橘花」等、多くの主力航空機を戦場に送り出しています。その数、約3万機。

また中島飛行機は機体のみならずエンジンメーカーとしても大手であり、一式戦闘機「隼」や零式艦上戦闘機(機体は三菱製)に搭載された「榮エンジン」、四式戦「疾風」や紫電改(機体は川西製)に搭載された「誉エンジン」等を開発・生産していました。このため、大東亜戦争末期の日本本土空襲においては米軍の主要攻撃目標とされ、多くの工場はその周辺地域を含め戦略的な絨毯爆撃で破壊し尽くされました。熊谷市もこのために壊滅的な爆撃を受け、かつて中山道の宿場として栄えた面影を残すものはことごとく破壊され、焼滅させられてしまいました。

まったくの余談ですが、中島飛行機は戦後GHQによって航空機の生産はもとより研究も禁止され、また軍需産業に進出できないように12社に解体されてしまいました。そのうち中島飛行機の本流の後身とも言える富士重工業はかつての航空機技術者ともども自動車産業に進出し(ブランド名:スバル)、さらに1950年代には念願であった航空機産業にも再参入を果たしています(富士重工業 航空宇宙部門)。

また、熊谷は“猛暑の街”として知られています。1990年代以降、夏の気温の高さが全国的に知られるようになり、実際、夏場の高温・猛暑に関する多くの最高記録が観測されています。2007年8月16日には岐阜県多治見市とともに40.9℃を観測し、2013年8月12日に高知県四万十市で41.0°Cが観測されるまで日本国内の観測史上最高気温となっていました。このほか、月別最高気温や猛暑日数などの多くの最高記録が観測されています。

このように、熊谷が高温となるのは、海風に乗り北上してくる東京都心のヒートアイランド現象により暖められた熱風と、フェーン現象によって暖められた秩父山地からの熱風が、一般的に日中の最高気温となる午後2時過ぎに同市の上空付近で交差するためだと考えられており、「熱風の交差点」と呼ばれることもあります。首都東京に近く、歴史的に古くから熊谷という地名が知られていることとも相まって、最近では“猛暑の本場”としてテレビ・新聞等のメディアに取り上げられる頻度も高くなってきています。熊谷市ではこの知名度を逆手にとってまちづくりに利用すべく「あついぞ!熊谷 熊谷新時代まちづくり事業」なるものを展開しているようです。ちなみに、埼玉県の地方気象台は県庁のあるさいたま市ではなく、この熊谷市内に置かれています。

第7回は前述のようにJR熊谷駅近くのコミュニティ広場からの出発で、次の深谷宿を目指します。旧中山道もこのあたりになると宿場間の距離が長くなり、次の宿場までと言っても、この日も歩行距離は約12.5km。今回もかなり体育会系のキツいウォーキングとなります。

出発地点の目の前のコミュニティ広場あたりが熊谷宿の中心地、札の辻のあったところで、道路を挟んだ反対側に記念碑が建っています。「札の辻」とは、江戸時代、街道や宿場町など往来の多い場所に官の制札(高札)を立てた辻のことをいいます。高札は法令等を板に記して掲示し、民衆に周知させるものであることから、できるだけ多くの人の目に触れる必要があり、この「札の辻」があった場所は宿場の中でも最も往来の多かった場所であると推察されます。

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国道17号を先に進みます。千形神社です。この千形神社の創建年代は不詳ですが、永治年間(1141年~1142年)に熊谷直実の実父である熊谷直貞が大きな熊を退治した際に血が流れた地に当社を創建したと伝えられ、かつては血形明神と称していたといわれています。宝暦年間(1751年~1764年)より千形神社の境内で、千形相撲という草相撲が続けられていました。

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千形神社の横には陣屋の跡があったという標識が立っていました。陣屋とは、江戸時代、城郭を構えない小大名や旗本などが領地内で居住する居館・役所のことをいいました。また、郡代や代官などの地方を管轄する役人の役所も陣屋と呼ばれました。熊谷は忍藩に属していましたが、忍藩では熊谷における町方事務を取り締まるために、出張所をこの付近に置きました。その規模はそれほど大きい規模のものではなかったと書かれています。その陣屋跡の標識のすぐ隣に「熊谷行在所址」の石標が建っています。明治天皇がお休みになられたところのようです。

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ここが2軒あった本陣の1つ、武井本陣跡です。武井本陣は敷地約1,600坪、建坪約700坪、47部屋もあるという日本一の規模を誇る堂々たる本陣だったのですが、明治時代にあった大火と昭和20年の空襲でことごとく焼失してしまいました。武井家は豪壮な門構えの屋敷で、酒問屋を営んでいました。そのため、広大な屋敷の中には幾つもの大きな酒蔵があったとされています。現在は本陣跡の石碑と説明板があるのみです。

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この武井本陣のあった場所の向かってすぐ右手に熊谷の地名の由来ともなった熊谷寺(ゆうこくじ)があります。ここはかつて、熊谷氏の屋敷があったところで、熊谷直実もここで生まれ育ちました。後年、心ならずも自分の息子とほぼ同じ年齢の平敦盛を討ったことに無情を感じ、建久4年(1193年)に出家して蓮生法師と称した熊谷直実が元久元年(1204年)に蓮生庵(れんせいあん)という草庵を結んだのもこの地でした。その蓮生庵の跡地に天正年間(1573年~1592年)に幡随意上人という方が今の熊谷寺を建てました。幕末に焼失し、現在の寺は大正年間に再建されたものです。本堂左手に、熊谷直実の墓と伝えられる塔が建っています。

また、この左手には熊谷宿の本陣を務め、熊谷の発展のために尽力した竹井澹如(たんじょ)翁によって慶応年間から明治初期の時代に作庭された回遊式庭園である星渓園があります。この庭園は荒川の土手が切れて生じた玉の池を中心にして、その周囲に竹木を植え、名石を集めて造園された和式庭園で、竹井家の別荘として使用されました。昭憲皇太后、大隈重信、徳富蘇峰らが訪れたとされ、戦後に熊谷市へ寄贈されると昭和29年(1954年)に市の名勝に指定されました。熊谷寺も星渓園も熊谷市を代表する史跡ではあるのですが、中山道沿いにはなく、時間の関係もあるので、残念ながら今回はパスさせていただきました。11月にもなると日の入りが早いので、街道歩きとしては少しでも先に行かないといけませんからね。

ここ熊谷には「百貨店の中の中山道」を歩くという貴重な体験ができるところがあります。八木橋百貨店は明治時代に創業された古い百貨店ですが、現在の建物は旧中山道を遮断する形で建設されています。このため、入口は旧中山道の位置にあり、店内通路が旧道替わりであるのだそうです。八木橋百貨店はかつては旧中山道を挟んで北側と南側に分かれて店舗が置かれていたのですが、1989年に改築する際に敷地の一部を公共の歩道として寄付することを条件に、旧中山道を遮断する形で現在の建物が建設されました。そのため、1階には旧中山道の通っていた位置に幅を広めに取った店内通路が設置されています。それぞれの端には出入口も設置されているため、営業時間内であれば、迂回せずに旧中山道を辿ることが可能なのですが、さすがに大勢がゾロゾロと店内を通過していくのは迷惑にもなるため、店の周囲を迂回して行くことにしました。

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この八木橋百貨店は店舗の内外に中山道の石碑などその当時の歴史を伝える遺物が残っていることでも知られています。『旧中山道跡』という大きな記念碑の横手に、何故か宮沢賢治が詠んだ歌が表裏に刻まれた石碑がひっそりと建っています。

  熊谷の 蓮生坊がたてし碑の 旅はるばると 泪あふれぬ (宮沢賢治)

  武蔵の国 熊谷宿に 蠍座の 淡々光りぬ 九月の二日 (宮沢賢治)

宮沢賢治は盛岡高等農林学校に在学中、秩父地方の地質、土壌、林業の調査を目的とした研修旅行の途中にこの熊谷を訪れたことがあり、その時に詠んだ歌だということのようです。

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この八木橋百貨店のあたりに熊谷宿の京方の木戸が設けられていました。すなわち、このあたりまでが熊谷宿でした。八木橋百貨店を出ると旧中山道は国道17号線を外れ、この道をさらに先へと進みます。

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……(その2)に続きます。

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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