2017/02/03

中山道六十九次・街道歩き【第8回: 深谷→本庄】(その7)

傍示堂跡です。一見、興味が惹かれるこの名称、“傍示”とは境界のことです。そして、境界に建てられた御堂のことを傍示堂と呼んだのだそうです。武蔵国(むさしのくに)と上野国(こうずけのくに)との国境線は何度か変更になったことがあるようですが、かつてこの場所に武蔵国と上野国との国境線があったこともあるようです。ここには立場があり、市も立ち、たいそう賑わったのだそうです。本庄市は埼玉県ですので、ここからもうちょっと先まで埼玉県を歩くことになるのですが、昔ならここから先が上野国、すなわち上州でした。ついに武蔵国を出ました。

晴れた日にはここからは赤城山(標高1,828m)、榛名山(標高1,449m)、妙義山(標高1,104m)という有名な上毛三山が一望できるそうなのですが、この日はあいにくの小雨模様。霞んで赤城山と思しき山の麓のあたりが辛うじて確認できるくらいで、雄大な三山の姿は残念ながら少しも見えません。

このあたりは、北は群馬県と新潟県の県境にある標高1,977mの谷川岳を中心に伸びる三国山脈、さらには赤城山(標高1,828m)、榛名山(標高1,449m)、妙義山(標高1,104m)からなる上毛三山。さらには標高2,601mの北奥千丈岳を最高峰として金峰山(標高2,599m)や国師ヶ岳(標高2,592m)といった2,000mを超す山々が関東平野の西側を群馬県・埼玉県・東京都・神奈川県・長野県・山梨県の1都5県に連なって伸びる秩父山地と、北側と西側を高い山々に囲まれている地形です。こうした地形においては、盆地特有の特異な気象事象を引き起こすことになります。それが“からっ風”。

滝岡橋で説明していただいた観光ボランティアガイドさんは岡部在住の方のようで、このあたりの“からっ風”の話もお聞きしました。その観光ボランティアガイドさんによると、「深谷、本庄は行政区分で言えば埼玉県ですが、そこに暮らす住民達の間ではむしろ群馬県の人達と近しいものを感じるんです。共通項は“からっ風”。“からっ風”の話を始めると、そうだろ、そうだろ…と、強風に遭った体験談(自慢話、武勇伝等)で大いに盛り上がることができるんです」とのこと。

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“からっ風(空っ風、からっかぜ)”とは、主に山を越えて吹きつけてくる下降気流のことを指します。大変な強風であることに加えて、山を越える際に温度、気圧ともに下がることで空気中の水蒸気が雨や雪となって山に降るため、山を越えてきた風は乾燥した状態になります(フェーン現象)。特に群馬県で冬に見られる北西風は「上州のからっ風」として有名で、「赤城おろし」とも呼ばれ、群馬県の名物の一つとも数えられています。また、浜松市などの静岡県西部でも冬に北西風が強まり、「遠州のからっ風」と呼ばれています。群馬県との県境に近いこの埼玉県北部の深谷や本庄付近でも相当に強い“からっ風”が吹くようで、冬など自転車で進むことがまったくできなくなることもあるくらいの強風なのだそうです。

私が住む埼玉県南部も冬に時折強い北西や北からの風が吹き、電車が止まったり徐行運転のため遅延したりすることがありますが、“からっ風”の本場の方が語るように人間が吹き飛ばされるほどではありません。それほど同じ埼玉県でも県北と県南では気象がまるで異なるのです。埼玉県の地方気象台が県庁所在地のさいたま市ではなく県北の熊谷市に置かれている理由の正当性も分かる気がします。これからこの中山道街道歩きもいよいよ群馬県に入っていくのですが、ちょうど季節は冬。果たして“からっ風”の洗礼を浴びることになるのでしょうか。怖いような気もしますが、ちょっと楽しみでもあります。

また、傍示堂は五料(ごりょう)道との追分(分岐点)で、厩橋(前橋)へ6里、五料関所へ2里の道でした。沼田や伊香保へも通じていました。五料道は、五料関という関所のあった五料宿(現在の群馬県佐波郡玉村町)でこの先の中山道・倉賀野宿で分岐してきた日光例幣使街道と繋がり、現在の地名で言うと群馬県伊勢崎市、太田市、栃木県足利市、佐野市、栃木市、鹿沼市を経て日光東照宮に繋がっていました。下の左側の写真で、左にカーブしているのが旧中山道、ちょっと右手に真っ直ぐ伸びているのが五料道です。

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ちなみに、日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)とは、江戸時代の脇街道の一つで、徳川家康の没後、東照宮に幣帛を奉献するための天皇の使者である勅使(日光例幣使)が通った道のことです。中山道の倉賀野宿を起点として、楡木(にれぎ)宿にて壬生通り(日光西街道)と合流して日光坊中へと至る街道です。楡木宿より今市宿までは壬生通り(日光西街道)と共通でした。なので、日光例幣使は京都を出て倉賀野宿までは中山道をやって来ていました。

ちなみに、この傍示堂跡ですが、現在は地名が残るだけで、周囲に当時を偲ばせるものは何も残っていません。傍示堂集落センターの奥に小さな御堂があり、それが傍示堂かと思ったのですが、残念ながらあれは最近建てられたもので、昔からの傍示堂ではないのだそうです。

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旧中山道に戻り、新泉橋で小山川の支流(元小山川)を渡ります。この新泉橋を渡ったあたりに江戸日本橋を出てから21番目の一里塚、「傍示堂一里塚」があった筈なのですが、それらしきものは、今はなにも残っていません。

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この先で現在の中山道・国道17号を斜めに突っ切って横切ります。ここから本庄市内中心部を抜けて群馬県境あたりにかけては埼玉県道392号勅使河原本庄線を歩きます。この埼玉県道392号勅使河原本庄線が旧中山道です。この埼玉県道392号勅使河原本庄線、かつては国道17号でしたが、現在の国道17号が整備されたことで県道に降格された路線です。起点から終点に至るまで、国道17号およびJR高崎線に並行して伸びています。

諏訪町交差点で横断歩道を上り国道17号を横断します。このあたりは長く緩い上り坂になっていて「御堂坂」という立派な名前がついているのですが、たいした坂ではありません。

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本庄第一高校の野球部の合宿所のようです。道路に面した壁面に掲げられた「行くぞ甲子園!」の文字に覚悟のほどが窺えます。頑張って甲子園に行ってください。

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下の写真の左側は中山道交差点。このあたりが本庄宿の江戸方(江戸方面からの入り口)でした。

本庄宿は中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち起点である江戸・日本橋から数えて10番目の宿場です。宿場の西側には上州姫街道との追分もありました。江戸より22里(約88km)の距離に位置し、天保14年(1843年)には、宿内の総人口は4,554人、商店など全ての家数を合わせると1,212軒を数え、中山道の宿場の中で最も人口と建物が多い宿場でした。それには、中山道などの陸運だけでなく、近くを流れる利根川の水運の集積地としての経済効果も大きく影響していたと考えられます。

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武蔵国(埼玉県)と上野国(群馬県)の国境近くに位置するこの本庄は旧石器時代の遺物が出土することや、縄文時代、弥生時代、古墳時代…と、各時代それぞれの遺跡が幾つも発見されていることからも分かるように、数千年前というかなり古くから人々が暮らしていたところでした。特に、本庄の古代遺跡の特色としては、埼玉県内でも最古級かつ最大級(全長約60m)の前方後方墳である鷺山古墳、また、同じく埼玉県内最大の前方後円墳である大久保山古墳群前山1号墳に代表される大規模な遺跡が発掘されていることが挙げられます。

平安時代にはこの地域を群雄割拠した武蔵七党の一つにして最大勢力を誇った児玉党の党首であった庄氏の本宗家がこの地に館(城)を築き、鎌倉時代に庄氏から派生した本庄氏がこの地に土着した事が地名の由来となっています。すなわち“庄氏”の“本宗家”だから“本庄”ってことです。

15世紀には五十子の戦いが始まり、本庄は本庄氏の城下町として街の整備が大々的に行われました。のちに足利尊氏配下の小笠原氏の城下町となり、16世紀の終わりには本庄藩が誕生したのですが、江戸幕府になった17世紀初期には廃藩となってしまいました。

慶長8年(1603年)、征夷大将軍となった徳川家康のもと、江戸幕府が創立され、江戸と京都、大阪などを結ぶ交通網の整備は領国経営の上でも最も重要な施策となりました。内陸を通る中山道の整備もその一つで、その整備の中で本庄も宿場町として生まれ変わることになります。寛永10年(1633年)に本陣が設置され、寛永14年(1637年)には人馬継立場ができました。さらに、寛文3年(1663年)には近くの榛沢郡榛沢村で開市していた定期市を本宿に移転し、宿場町としての形態を整え、そして商人の町へと次なる発展を遂げることになります。

このように、本庄の都市としての歴史は中世に武家の領地(城下町)として始まったのですが、徳川幕府の政策の都合から宿場町として生まれ変わり、18世紀には中山道で最大の宿場町となり、西国や日本海方面より、江戸に出入りする時の内陸の中継点として、宿の機能は年々拡大されていきます。このため、各地から人や物流が集中して商人の町として大いに発展しました。特に、江戸室町にも店を出していた戸谷半兵衛(中屋半兵衛)家は全国的に富豪として知られていました。さらに、明治維新以降は生糸・絹織物の産地として栄え、工場も建てられるようになり、秩父セメントを設立した諸井恒平の東諸井家など日本の近代化に貢献した一族も輩出しました。

元々城下町として街としての整備がなされており、人もそれなりにまとまって住んでいたことが、中山道の宿場の中で最も人口と建物が多い宿場となったことに繋がったと思われます。本庄宿には2軒の本陣と、同じく2軒の脇本陣が置かれ、一般の人々が宿泊する旅籠も77軒と多く軒を並べていました。また、これらとは別に54軒の飯盛旅籠屋もありました。

ちなみに、明治時代には本庄への遷都が計画されていたことがあるのだそうです。知らなかったぁ~。

この先の埼玉りそな銀行の支店があるあたりに、本庄宿の本陣の1つ、田村本陣がありました。今はビルになっていて、門だけが市の歴史民俗資料館に移築されているそうです。現在の本庄市の街並みには宿場らしい跡はほとんど残っていないように思えます。

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この日の街道歩きはここまで。本庄駅入口交差点を右折し、本庄市役所へ。この日のゴールはこの本庄市役所でした。本庄市役所のあるあたりがかつて本庄城があったあたりで、市役所の裏手には城下公園という公園があります。

この日は日曜日だったので、市役所の入り口は閉まっていましたが、ロビーには本庄市のマスコットの「はにぽん」が「ゆるキャラグランプリ2016」でめでたく全国第2位になったことを知らせるポスターが貼られていました。

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この日は12月の上旬でしたが、本庄市役所の前庭にヒカンサクラが既に開花し、紅葉真っ盛りのモミジと素敵なコラボレーションを描いていました。

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本庄市役所の駐車場まで迎えに来た大型観光バスに乗り込んで、さいたま新都心駅まで戻りました。観光バスに乗り込んですぐ、雨脚が強まってきました。その前にこの日のコースを歩き終えて、本当によかったです。雨といっても降水強度が0.5mm/時程度のほんの小降りの雨で、雨合羽を着ているとなんら苦にはなりませんでした。逆に、風を通さない雨合羽を着ていたことで、寒さを感じないでよかったくらいです。そういう意味では、“晴れ男のレジェンド”は、なおも健在なのかもしれません。

【第2回】の途中で戸田橋を渡って埼玉県に入って以来、今回の【第8回】までずっと埼玉県内を歩いてきましたが、次回の【第9回】では、ついに群馬県に入ります。埼玉県、意外と長かったです。ちなみに、この日歩いた歩数は23,964歩。歩いた距離は約17.6kmでした。次回の第9回は本庄宿から新町宿まで歩きます。


――――――――〔完結〕――――――――

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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