2017/03/08

中山道六十九次・街道歩き【第9回: 本庄→新町】(その1)

年が明けて1月8日(日)、今年最初の『中山道六十九次・街道歩き』の【第9回】は本庄宿から新町宿を目指します。新町宿のあるところは、現在の地名で言うと群馬県高崎市新町。ついに埼玉県を離れて群馬県に入ります。

今年(2017年)は年が明けてからよく晴れて、気温も平年より高めの穏やかな日が続いていたのですが、この日は一転。未明に九州の南西の海上で発生した低気圧が日本列島のすぐ南の海上を急速に発達しながら東へと進み、西日本から天気は崩れて関東地方も午後から雨になる予報が出ています。それも低気圧の進むコースは関東地方にとってはこの時期最悪と言ってもいいくらいのコースで、伊豆諸島と小笠原諸島の間を通り過ぎると思われる…という予報が出ています。

自宅を出発する前に調べた午前6時に気象庁が発表した気象予報データによると、伊豆諸島と小笠原諸島の間を通り過ぎると予想される21時の時点での低気圧の中心気圧は984hPa。この低気圧、午前6時には九州の大隅半島のすぐ南の海上にあって中心気圧が1006hPaなので、15時間の間で22hPaも急激に発達することになります。これはいわゆる「南岸低気圧」と呼ばれる低気圧の移動コースで、関東地方の平野部、特に首都圏で雪が降るのは、たいていこの「南岸低気圧」が通過する時だと言われています。この南岸低気圧が伊豆諸島の八丈島から鳥島の間付近を通過するコースを取る時にその可能性が高いと言われています。八丈島より北のコース、すなわち関東地方の南岸により近いコースを通る時は、低気圧によって南から運ばれる暖かい空気により気温が上がり、たいていの場合雨になります。逆に鳥島より南を通過するコースだと、低気圧の影響を受けにくくなり、雨や雪が降らないことが多くなります。まさにドンピシャのコースです。

関東地方の平野部の雪のほとんどはこの「南岸低気圧」に伴うものである一方、その予想は難しいとされています。低気圧がこの伊豆諸島の八丈島から鳥島の間を通過すると関東地方の平野部で雪が降る確率が高まるものの、関東地方上空に北から流れ込む寒気も関東地方の平野部、特に首都圏で雪が降るかどうかの重要な要素となります。関東平野では北と西に高い山脈を擁する地形の影響で、「滞留寒気」と呼ばれる地表に接する厚さ数百メートルの冷気の層が形成されることがしばしばあります。この滞留寒気は、低気圧が接近してくる初期の段階では乾燥した大気中で雨や雪が蒸発して大気から気化熱を奪う効果、また雨や雪が本格的に降り出した後では冷たい雨や雪自体の冷却効果により、降水の開始とともに形成され、降水(降雪)とともにさらなる気温の急降下を招きます。そして、滞留寒気の層内は冷たいままほぼ等温となるため、雪が融けずに地表まで降ってくる確率が高まります。このため、日本海側では上空850hPa(約1,500メートル)の気温がマイナス6℃以下になる時が雪が降る目安とされていますが、滞留寒気のために関東平野ではマイナス4℃以下が雪が降る目安とされていて、場合によってはマイナス3℃より高くても雪となる事例もあります(地上では2~3℃以下まで気温が下がる時に雪となります)。

滞留寒気の層内の地表付近では北風もしくは西風が吹きます。関東平野の北側と西側には秩父山脈など標高2,000メートルを超える高い山々が屏風のように聳えていて、この北風、もしくは西風はそうした山々から一気に吹き下ろしてくるため、非常に強く冷たい風となります。これに対して南の低気圧からは暖かく湿った南風や東風が吹き込んでくるため、寒気と暖気が関東平野の上空でぶつかり合って大気の状態が不安定となり、雨や雪となるわけです。このように、滞留寒気が雪が降る重要な要素となるため、「東京都心で降雪がある時は、必ずと言っていいほど北北西から北西の風が吹いている」とされています。

ちなみに、昨年(2016年)の11月24日は11月としては珍しく強い寒気の到来と南岸低気圧の通過により関東甲信地方を中心に降雪となり、東京都心では54年ぶりに11月の初雪、また、観測史上最速の積雪(北の丸公園で2cm)を観測しました。その他の地域でも11月としては記録的な積雪を観測し、千葉市で2cm 宇都宮市で4cm、茨城県のつくば市で4cm、長野市で12cm、松本市で5cm、飯田市で14cm、諏訪市で13cm、軽井沢で23cm、河口湖町で22cmの積雪がありました。この時も関東地方の平野部には北西から北北西の風が吹いていました。

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よりによって私の今年最初の『中山道六十九次街道歩き』の日が「南岸低気圧」が通過する日とは…。

この日、「南岸低気圧」が日本列島の南の海上を進みそうだということは実は1週間ほど前から気象予報データから判っていたので、私は気になってこのところ毎日のように気象予報データを眺めていました。あくまでも趣味でやっている街道歩きなのですから、さすがに前も見えなくて、足元も悪い大雪の中を歩くわけにはいきません。最悪、参加を中止しようと思っていたくらいでした。ですが、3日前(1月5日)くらいの気象予報データから低気圧が関東地方の南の海上を通過していく時刻が当初出されていた予報よりも6時間ほど遅れるようになり、また通過するコースも当初の予想よりも若干北に上がって八丈島のすぐ北を通るコースに変わってきたので、「よしっ! これなら大丈夫だ!」と判断して、予定を変えずに参加することにしたのでした。

出発前に確認したこの日の埼玉県北部地方(熊谷市)の天気予報は「晴れのち雨」。降水確率は午前中が20%で、午後からが80%。弊社のオリジナル気象情報サービス「HalexDream!」によると新町宿あたりで雨が降り出すのは15時前後。本庄市付近の15時の予想気温も5℃。この地上気温なら心配した雪ではなく、降られたとしても0.5ミリ/時程度の小雨で済みそうです。これなら大丈夫そうです。

ただ、この日のコースには埼玉県(武蔵国)と群馬県(上野国)の県境に神流川を渡る神流川橋というちょっと長い橋があり、また、新町宿を過ぎてしばらく利根川の支流の烏川の土手を歩く区間があるということなので、強い風、それも向かい風がちょっと気懸りです。なんと言っても、冬のこの時期の北関東では、“上州のカラっ風”と呼ばれるメチャメチャ強い北西の風が吹きますからねぇ~。加えて、南岸低気圧の接近に伴い、滞留寒気の層が発生して途中から強い北北西から北西の風が吹いて来られたのではたまりませんからね。北北西や北西の風というと、進行方向に対して向かい風になりますから。雨や雪以上に今回はこのカラっ風がちょっと心配でした。

午前8時に観光バスでさいたま新都心駅を出た時には青空も顔を覗かせていたのですが、さすがに天気は下り坂で、この日の街道歩きのスタートポイントである本庄宿に到着した午前10時頃には薄い雲が空一面を覆うようになり、その薄い雲を通して太陽が顔を覗かせています。風はほぼ無風。低気圧の接近に伴い、夜は間違いなく雨になるのでしょうが、私が新町宿に到着するまではなんとかこのままの天気がもってほしいと望むばかりです。

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前回と同じようにさいたま新都心駅から観光バスに乗り、前回【第8回】のゴールだった本庄市役所に着きました(本庄市役所前の道路が工事中のため、正しくは本庄市役所近くのコンビニの駐車場)。今回はこの本庄市役所前がスタートです。本庄駅入口交差点で右折し、埼玉県道392号勅使河原本庄線へ入ります。この埼玉県道392号勅使河原本庄線が旧中山道で、国道17号と合流する埼玉県児玉郡上里町神保原の勅使河原(北)交差点までは、一部を除き基本的にこの埼玉県道392号勅使河原本庄線を進みます。

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本庄駅が出てきたところで、ちょっと鉄道ネタに脱線。日本最初の私鉄で、現在の東北本線や高崎線、常磐線など、東日本のJR東日本の路線の多くを建設・運営していた日本鉄道は、明治16年(1883年)7月28日、最初の区間である上野駅~熊谷駅間を開業したのですが、その年の10月21日には熊谷駅からこの本庄駅間を延伸開業させ、さらに12月27日には本庄駅から今回の目的地である新町の新町駅までの間を延伸開業させました。翌明治17年(1884年)5月1日には新町駅~高崎駅間を延伸開業させ、その後の国鉄高崎線(現在のJR高崎線)となります。今から振り返ると物凄い勢いで線路を敷設していったのですね。日本初の鉄道路線である新橋駅~横浜駅間に日本最初の鉄道が開業したのが明治5年(1872年)のことですから11年後のことです。こうした明治初期の時代に、西南戦争の出費などで財政が窮乏してしまった国になり代わって華族と士族を含む民間資本を取り入れて最初に敷設した鉄道路線がこの高崎線だってことで、当時、この路線の沿線がいかに人とモノの交流が多く、明治政府をはじめ当時の日本国にとって重要なところであったかが窺い知れると思います。

前回【第8回】の最後でも触れましたが、本庄駅入り口交差点の右角、「埼玉りそな銀行」の支店があるあたりが「田村本陣跡」(当時は北本陣と呼ばれていました)で、その先の道路左側、東和銀行と足利銀行が並び立つあたりが「内田本陣跡」(当時は南本陣と呼ばれていました)です。現在はビルばかりで、当時を偲ぶものは何も残っていません。

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田村本陣は、南の内田本陣に対して北本陣と呼ばれていました。代々、田村作兵衛が本陣を勤め、建坪約200坪、門構え、玄関付きで間口5間(幅約9メートル)の専用道路を持ち、奥にも門があったと言われています。本陣入り口の前に高札場がありました。いっぽう、南本陣は代々、内田七兵衛が勤めました。こちらも建坪205坪、門構え、玄関付きで敷地3反3畝10歩であったと言われています。

ここに出てくる“反”、“畝”、“歩”とは昔ながらの面積の単位のことです。今でも農業の分野では極々一般的に使われる単位ですので、参考までに書かせていただくと、1反(たん)は約1,000平方メートル(10アール)、1畝(せ)は約100平方メートル(1アール)、1歩(ぶ)は約3平方メートル(面積としては1坪、すなわち畳2畳分と同じ)です。さらには町という単位もあって、1町(ちょう)は約10,000平方メートル(1ヘクタール)に相当します。なので、3反3畝10歩とは約3,330平方メートルのこと。約3,330平方メートルというと60メートル×50メートルの四角よりも広いということですので、相当の広さの敷地だったようです。

両本陣は協力することもあったのですが、基本、常に競争をし、半年または1年先の参勤交代や帰国にあわせて諸大名の国許や江戸屋敷への書状を送ったり、出向いて予約を取ったりという“営業活動”のほか、当日は宿はずれはもとより、遠く鴻巣宿や坂本宿まで出迎えをするなど、両本陣の客引き合戦は激しかったと言われています。


……(その2)に続きます。

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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越智正昭

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