2017/04/14

中山道六十九次・街道歩き【第10回: 新町→高崎】(その2)

北向子育観音堂の門前の坂を上ると岩鼻町交差点で、そこで旧中山道は直進し、群馬県道121号和田多中倉賀野線に入ります。

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観音寺です。この観音寺の裏手一帯に、江戸時代、浪曲で有名なあの国定忠治の天敵・岩鼻代官所(関東取締出役)が置かれていました。

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国定忠治は江戸時代末期、上州を拠点に暴れまわった博徒です。文化7年(1810年)、上州佐位郡国定村(現在の伊勢崎市国定町)の豪農の家に生まれ、本名は長岡忠次郎。国定村は赤城山の南麓にある村で、生業は米麦栽培のほか養蚕も行っていました。子供の頃から、賭場に出入りし、富農の出ではあるものの武芸を身につけていました。

父与五左衛門が文政2年(1819年)に死去し、家督は子供の頃から博打三昧であった忠次郎ではなく弟の友蔵が継ぐこととなったため、忠次郎は幼くして家を出て無宿の博徒となり、国定村の忠次郎から国定忠治と名乗るようになります。その後、忠治は上州勢多郡大前田村(群馬県前橋市)の博徒・大前田英五郎の縄張りを受け継いで百々村(どうどうむら)の親分となり、日光例幣使街道、間宿の境町を拠点とする博徒で大前田英五郎と敵対する島村伊三郎と激しく対峙することになります。

そして天保5年(1834年)、自分の一の子分である三ツ木文蔵が島村伊三郎の一派と諍いをおこしたのをきっかけとして、忠治は伊三郎を惨殺。またその際に追っ手から逃れるため、信州街道の大戸の関所(群馬県吾妻郡東吾妻町)の関所破りをしました。このため、関東取締出役(八州廻り)から追われる身となります。国定忠治は子分とともに関東取締出役の手の届かない信州にいったんは逃れたのですが、しばらくすると上州へ戻り、一家を形成することになります。

その後は日光例幣使街道の玉村宿を本拠とする玉村京蔵・主馬兄弟と対立し、天保6年(1835年)には玉村兄弟が山王堂村の民五郎(山王民五郎)の賭場を荒らしたことを発端に対立が激化、山王民五郎に子分二人を差し向けて玉村兄弟を襲撃し駆逐してしまいます。また、忠治はこのころ発生していた天保飢饉に際して自らの縄張りの村々への救援活動にも精を出すという善行も行っていたのですが、天保9年(1838年)には世良田(群馬県太田市)の賭場が関東取締出役の手入れに遭い、子分の三ツ木文蔵が世良の賭場で関東取締出役の捕縛されてしまいました。これを聞きつけた国定忠治は、多くの子分どもを集め、文蔵を取り戻そうとしました。しかし、関東取締出役も幕府の威信にかけて、数多くの町民を動員した山狩りを行って忠治を捜索。忠治は当時、他の悪党にもれず、赤城山中に潜伏しながら活動していました。また、国定忠治の行いを批判こそすれ、その義理人情を貫く生き様に同調する者が忠治をかくまったこともあり、忠治はしばらくは逃亡生活を続けることができました。

しかし、次第に手塩にかけて育ててきた子分どもが関東取締出役の手に次々と捕縛されていきます。浪曲で有名な「赤城の山も今宵限りか……」はその時に忠治が発した言葉とされています。中風に倒れた忠治は、ついに嘉永3年(1850年)8月、中山誠一郎の指揮する関東取締出役の手によって一家の主要な子分ともども捕縛されてしまいました。そして、いったん江戸に送られ小伝馬町の牢屋敷で取調べを受けた後、かつて関所破りの大罪を犯した大戸の関所(群馬県吾妻郡東吾妻町)で磔(はりつけ)の極刑に処されてしまいました。享年41歳でした。その国定忠治を捕らえた関東取締出役がこの岩鼻代官所に置かれていました。

この関東取締出役の中山誠一郎という人物、漫画『ルパン三世』における銭形警部のような人物だったようで、2代目広沢虎造さんの浪曲『名月赤城山』においても時々登場し、国定忠治が潜伏していた赤城山中を下る際にも「赤城の山も今宵かぎりか…」という有名な台詞の前に「世話になった中山様にご迷惑がかかっちゃあいけねぇ」っていう台詞が出てきます。

上州と言えば、忘れてはならないのが「博徒」ですね。国定忠治や大前田英五郎がその代表格ですが、それ以外にも各街道の各宿場にはそこを縄張りとする多くの博徒がいました。

私は高校時代、たまたまラジオから流れてきた2代目広沢虎造さんの浪曲を聴いて、広沢虎造さんの浪曲にハマったことがあります(当時は浪曲がよくラジオから流れていました)。2代目広沢虎造さんといえば、「清水次郎長伝」があまりにも有名ですが、名月赤城山に代表される「国定忠治伝」にも心躍らせたものです。また、高校時代には笹沢左保さん原作で中村敦夫さんが主演した時代劇ドラマ「木枯らしの紋次郎」が一種の社会現象を起こすほどの大ヒットをしました。主人公の紋次郎も上州新田郡(にったごおり)三日月村の生まれということになっていました。三日月村は架空の村ですが、新田郡は実在の地名です。

なので、群馬県の方には大変に申し訳ないのですが、私の中では上州・群馬県は大変に多くの博徒を輩出した県というイメージが色濃く残っています。

上州が博徒を数多く輩出した背景には、立派な根拠(?)がありました。

当時の上州は、絹織物の原料となる養蚕業が盛んとなり、商品経済が発達していました。江戸に出荷される蚕糸や絹織物といった商品生産の進展は、従来の自給自足の農村社会に貨幣経済を新しく浸透させました。この貨幣にあやかるべく、より有利な働き場所を求めて、農民や不斗出者(ふとでもの:離村し都市へ流れる者)が頻繁に領内を移動・流入するようになりました。農村では人口が流出し、従来の年貢を中心とした幕府の政策は一気に崩れてしまいました。しかも離村した農民達の移動・流入は国の内外を問わなかったようです。このような中で、無宿者が長脇差や槍、鉄砲を持って横行乱暴を働くようになります。また、上州においては商品作物の換金により現金収入があったことから、幕府が禁じていた博打遊びが極めて盛んでした。そうしたことで、各宿場や(非合法の)賭場は治安維持のため、自衛のための独自の武装集団を置くようになりました。

昔から「上州はカカア殿下にカラッ風」と言われていますが、ここ上州では山から吹き降ろしてくる風も強いのですが、女性達の鼻息も相当に荒かったのだそうです。それは、前述のように、上州では農家の養蚕や換金作物の栽培が盛んで、女手ひとつで一家を支えるだけの収入があったからだと言われています。しぜん豊かな農家の跡を継いだ亭主達にはヒマができ、女達が稼いだそこそこのお金があることから遊ぶことになります。お金があって遊ぶとなれば、現代と違って「飲む、打つ、買う」ということになります。当時の男達の代表的な三つの道楽ですね。交通不便な田舎では、飲む酒にしてもさして美味しいものは手に入らず、買うにしても女がそうそういるわけでもありません。そうなると残る楽しみは、博打に血道をあげることになります。彼ら博徒は、賭博につきものの争いを制すべく、上州に盛んになっていた剣術を学びました。そうして、上州で斬った張ったを繰り返しているうちに、故郷上州にはいられないお尋ね者となって、無宿渡世の世界に足を踏み入れる人が多かったといわれています。このように、上州には博徒どもが横行するのにもってこいの土壌があったというわけです。

加えて、旅の兵法者であった樋口太郎兼重の一派が上州に土着し、その末裔が実戦向きの剣術である馬庭念流の道場を開き、上州は極めて武道の盛んな土地柄となり、上州の名物であった博徒たちの間にも剣術が浸透したということもあったようです。

余談ですが、上州の博徒は「一本刀」と呼ばれていました。「一本刀」とは、武士の二本差しに対しての言葉で、刀一本を帯びた博徒のことを言います。国定忠治も木枯らし紋次郎、いわゆる一本刀で、上州出身の無宿の博徒、いわゆる渡世人でした。上州出身の渡世人はやけに剣の腕が立ち、実戦的な大刀と脇差の中間くらいの長さの中刀を帯びていたことから、一本刀の中でも特に「上州長脇差(ながドス)」の異名があったそうです。

このような背景で、国定忠治は誕生したのであり、また、こうした無宿・悪党に対して関東取締出役が設置されたのでした。関東取締出役は文化2年(1805年)、群馬郡岩鼻村(現在の高崎市岩鼻町)に設置されました。通称「八州廻り」と呼ばれていて、その八州廻りの活動の拠点となったのが岩鼻代官所、「岩鼻陣屋」でした。その任務は、関八州(上野・下野・常陸・上総・下総・安房・武蔵・相模一円)を私領・天領の区別なく巡回して無宿悪党を取り締まることにありました。特に上州は藩領、幕府領、旗本領、寺社領が複雑に入り組んで治外法権を生み、犯罪の温床になっていたからです。八州廻りは、現地の事情に精通する博徒上がりの岡引きに任務を補助させたり、改革組合村といわれる村横断的な組織を作ったりして取り締まりの強化にあたったそうです。

広大な敷地に「岩鼻代官所(陣屋)及び岩鼻県庁跡」という表示があります。関東取締出役が置かれ関八州に睨みをきかせていたさしもの岩鼻代官所も、幕末の動乱の中で翻弄されます。慶応4年(1868年)、幕府の大政奉還とともに岩鼻代官所が閉鎖されると、明治新政府は廃藩置県により岩鼻県を設置し、旧代官所跡が岩鼻県庁となり、上野国、武蔵国内の旧幕府領及び旗本領を管轄するようになります。明治2年(1869年)には、廃藩した吉井藩を併合。しかし、明治4年(1871年)10月、岩鼻県は廃止され、群馬県が成立すると、県庁は高崎城内に移されました(その後、群馬県の県庁は前橋市に移されました)。

そうした歴史を持つ岩鼻代官所(陣屋)及び岩鼻県庁跡から岩鼻町の交差点に戻り、旧中山道を進むとほどなく旧中山道はY字になった三叉路を群馬県道121号和田多中倉賀野線から左に入り、県道から離れて旧街道の面影を残す小道に入ります。その小道も300mほどでまた群馬県道121号和田多中倉賀野線に合流します。

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ここから1kmほど、ただひたすら群馬県道121号和田多中倉賀野線の歩道を歩きます。相変わらず“からっ風”は強く、完全に向かい風の中での街道歩きになりました。そうした中、途中に旧中山道を示す標識が立っていて、それを見るとちょっと心が和みます。

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新柳橋北交差点で国道17号線を横断し、次にJR高崎線の線路を陸橋で渡ります。JR高崎線のこのあたりの区間は上り線と下り線の間の間隔が大きく離れていて、その両線の間に工場や畑があったりします。そのため、跨線橋も長くなっています。ここからはJR高崎線の西側(南側?)を進むことになります。

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このJR高崎線の跨線橋を渡った先で旧中山道はまた群馬県道121号和田多中倉賀野線からY字路を左に入り、県道から離れて旧街道の面影を残す小道に入ります。その小道も300mほどでまた群馬県道121号和田多中倉賀野線に合流します。

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中山道六十九次・街道歩きの【第9回】で、マンホールの蓋のことを書かせていただきましたが、今回私達を導いてくれた女性のウォーキングリーダーさんがそのマンホールの蓋マニアで、いろいろと解説してくれるので、パチリ!。これは高崎市のマンホールの蓋で、表面には毎年8月の第1土・日に群馬県高崎市の中心街で行われる高崎祭りの様子が描かれています。この高崎祭り、群馬県最大規模の祭りで、来場者数は公称約70万人。花火大会・山車などの催しがあります。特に初日の夜に行われる花火大会は北関東では茨城県の土浦全国花火競技大会に次ぐ規模で、種類も豊富。花火の打ち上げ数は約1万5,000発を誇るのだそうです。

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……(その3)に続きます。

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

株式会社ハレックス
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越智正昭

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