2017/04/19

中山道六十九次・街道歩き【第10回: 新町→高崎】(その3)

そこから先に進むと、すぐに右手から群馬県道136号綿貫倉賀野停車場線が迫ってきて、下町三叉路で合流します。

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この群馬県道136号綿貫倉賀野停車場線がかつての日光例幣使街道で、この下町三叉路が追分(分岐路)になります。この日光例幣使街道は【第8回】でも書きましたが、江戸時代の脇街道の一つで、徳川家康の没後、徳川家康の命日である毎年4月に東照宮に幣帛を奉献するための天皇の使者である勅使(日光例幣使)が通った道のことです。倉賀野宿で中山道から分岐し、五料宿(現在の群馬県佐波郡玉村町)で本庄宿の手前の傍示堂から分岐してきた五料道と繋がり、現在の地名で言うと群馬県伊勢崎市、太田市、栃木県足利市、佐野市、栃木市、そして鹿沼市の楡木(にれぎ)宿を経て日光東照宮に繋がる街道でした。追分(分岐点)には文化11年(1814年)に建立された常夜燈と閻魔堂が今もその名残をとどめています。

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例幣使と言えば、公卿。お公家さんです。お公家さんと言えば、なにやら雅でヨワッチイ感じもしますが、なかなかどうして。江戸時代、天皇下賜の長さ四尺の金の御幣(ごへい)を日光東照宮に納める勅使「日光例幣使」の公卿達の行状は、傲慢と欲望に満ちて目に余るものがあったと言われています。例幣使は毎年天子(天皇)を補佐する要職から選ばれたのですが、官位は四位と高くても公卿の収入は極めて低いものだったのだそうです。そのせいか、例幣使の道中は大名行列に比べると貧弱で、警衛の武士らしいのが僅かに数人ほど付くだけで、残りは日頃から公卿の邸に出入りしている商人や職人達が地下官人(じげかんにん:身分の低い役人)になりすましての旅だったのだそうです。

ですが、日光例幣使を一度やると、公卿の邸も立ち直る…というぐらいの大きな役得があったのだそうです。それは“街道泣かせ”と言ってもいい所業、いや悪行の数々でした。随員の地下官人らが、道中疲れたといって駕籠に乗ると、たちまち駕籠を揺さぶり始めます。揺すられたのでは駕籠屋の人足は担げません。それをみて地下官人たちは、暗に袖の下を要求し、それでも応じないとみると、さらに大きく揺さぶり、わざと駕籠からころげ落ち、「おのれ、ようも振り落としおったな。このうえは公儀のお裁きを…」と凄んでみせたのだそうです。こうなると、駕籠屋は「なにとぞ、ご内聞に」と金銭を掴ませてしまいます。

例幣使の悪行に関してはまだまだあります。例幣使一行の凄まじさは、宿場では予め宿を取らず新築した家に泊まり、日光への奉幣の御用を済ませて戻る際に、この新築した家に付属している家財や什器など残らず長持ちに入れて京へ持ち帰ってしまうなんて信じられないようなことも平気でやったのだそうです。この長持ちは最初から空で、このためにあるものだったという話もあるくらいです。中には沢庵の重石まで長持ちで運んだ者もいるそうです。まるでハゲタカ強盗集団ですね。公卿の悪行と言えば、お茶壷道中も似たり寄ったりで、大名行列すらお茶壷行列を避けて、大迂回して脇道に逃げ込んだといわれています。

「人を脅かして相手の動揺につけ入って、無理やり金品を出させること」を「強請る(ゆする)」と言いますが、この「強請る(ゆする)」は日光例幣使が駕籠を揺すって駕籠屋を脅し、無理やり金品を出させたことに由来しているのだそうです。元々は「揺する」だったのかもしれません。

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この追分の常夜灯は文化11年(1814年)に日光例幣使道・五科宿の高砂屋文之助が建てたものです。ここから分岐する日光例幣使道の次の宿場が五科宿でした。その常夜燈の前に本当の道標が立っており、「従是 右江戸道 左日光道」と赤字で彫られています。設立年代は不詳だそうですが、ここが日光例幣使道の起点であることを示しています。

この下町三叉路から先が倉賀野宿に入ります。倉賀野宿(くらがのしゅく)は、中山道六十九次のうち江戸・日本橋から数えて12番目の宿場です。江戸時代には、利根川の支流である烏川を利用した江戸通いの物資運搬船の遡航終点である河岸もあり、江戸から西上州、信州、越後との水陸運送の拠点として大変賑わいました。近くの高崎藩や安中藩の外港として、また松本藩や飯山藩など信州の大名、旗本などから運ばれる米を扱う回米河岸として、10軒もの米問屋を抱えていました。宿場の長さは11町38間(約1.2km)で、上町、中町、下町があり、中町が中心地でした。 天保14年(1843年)の記録によれば、倉賀野宿の宿内家数は297軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠32軒で、宿内人口は2,032人でした。明治17年(1884年)に鉄道が敷設されるまでは、前述のように東京(江戸)や信越方面を結ぶ水運の河岸としても栄え、料理屋や遊郭などもあり、たいそう賑わった宿場だったそうです。

道は倉賀野宿中心部に入っていきます。現在、街道は交通量も多くなっていますが、古民家や蔵など歴史のありそうな建物もちらほら見えます。こちらは矢島邸。卯建(うだつ)が立派です。

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卯建(うだつ)は日本家屋の屋根に取り付けられた小柱のことで、町屋が隣り合い連続して建てられている場合には隣家からの火事が燃え移るのを防ぐための防火壁として造られました。倉賀野宿は宿場全部を焼き尽くすほどの大火災に何度も遭っていることから、大きな商家にはこうした卯建(うだつ)が設けられました。江戸時代中期頃になると装飾的な意味に重きが置かれるようになり、自らの財力を誇示するための手段として、上方を中心に商家の屋根上には競って立派な卯建(うだつ)が設けられる(上げられる)ようになります。卯建(うだつ)を上げる(設置する)ためにはそれなりの出費が必要だったことから、これが上がっている家は比較的裕福な家に限られていました。これが「生活や地位が向上しない」、「状態が今ひとつ良くない」、「見栄えがしない」という意味の慣用句「卯建(うだつ)が上がらない」の語源のひとつと考えられています。

矢島邸は「上州櫓造り」という建築方法で作られていて、前述の卯建(うだつ)に加えて、屋根の上には立派な櫓が設けられています。

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前述のように、当時の倉賀野は鳥川などを利用した物資の集積地で上州、信州、越後などの名産品だった「米、煙草、砥石、麻、大豆」などが集まり、水運により江戸に運ばれました。倉賀野には土蔵が建ち並び宿場は繁盛し、また飯盛女も他より多かったといわれています。

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「勘定奉行 小栗上野介忠順公と埋蔵金ゆかりの地」の碑です。小栗上野介と徳川埋蔵金ですか…。いっときは民放テレビで盛んに扱っていましたが、今はすっかり下火になっているようです。小栗上野介忠順が徳川幕府の埋蔵金を隠したところは赤城山山中というのが有力な説になっていますが、この碑が建っているということは倉賀野の地も関係があるのでしょうか。真新しい石碑なので、観光客誘致のために最近建てられたものでしょう。

ちなみに、徳川埋蔵金とは次のような都市伝説です。

明治元年(1868年)4月に江戸城が無血開城となった際、当時財政難に喘いでいた明治新政府は幕府御用金を資金源として期待していました。ところが江戸城内の金蔵は空っぽであったため、幕府が隠匿したと判断した新政府軍による御用金探しが始まりました。探索の手は大政奉還当時勘定奉行であった小栗上野介忠順にも及びました。小栗忠順は勘定奉行職を辞任した後、上野国(群馬県)群馬郡権田村に隠遁していました。彼が徳川幕府の財政責任者であったということから「小栗忠順が幕府の金を持って逃げた」といった流言が飛び、更には「利根川を遡って来た船から、誰かが何かを赤城山中へ運び込むのを見た」と証言する者まで現れました(もしかすると、この石碑はこの利根川を遡ってきた船が埋蔵金を降ろしたのが倉賀野河岸ってことを示す石碑なのかもしれません)。

加えて小栗忠順が江戸城開城に伴う幕府側の処分者の中で唯一命に関わる刑罰(斬首)となったことも重なり、「幕府の隠し金が赤城山に埋められていることは事実である」と信じた人々が赤城山の各所で発掘を試みました。赤城山での発掘が次々と失敗に終わって行くのを見た一部の人々の間では、赤城山は本当の埋蔵場所を隠すための囮ではないか…と考えるようになり、「真の埋蔵場所」を求めて勝手な持論を展開するうちに、全国各地で様々な徳川埋蔵金伝説が誕生しました。実際には、徳川埋蔵金に関しては今も多くの発掘プロジェクトが各地で行なわれているようですが、そのほとんどが全く成果を出しておらず、埋蔵金自体も発見されておりません。

午前10時に柳瀬の船渡し場跡を出発して2時間。正午ちょうどにこの日の昼食会場である「倉賀野古商家おもてなし館」に到着しました。「倉賀野古商家おもてなし館」は古商家・大山邸を、高崎市が所有者から寄付を受け、中山道を散策する観光客の憩いの場として復元し、平成27年7月1日に開館した施設です。運営は地元の主婦の皆さんのようです。

倉賀野には旧宿場町の面影を残す貴重な建物が点在しており、この「倉賀野古商家おもてなし館」として復元された「大山邸」もその一つです。旧中山道に面した母屋は、江戸時代から各地に広がった土蔵造り店舗(見世蔵又は店蔵)の特徴を顕著に備えています。また、母屋の西側路地から北側にかけては、なまこ壁の塀と門が続き歴史を感じる景観となっています。

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ここでお昼のお弁当をいただきました。このところの「中山道六十九次・街道歩き」の昼食は停車した観光バスの車内でのお弁当でしたが、今回はゆっくり室内でお弁当をいただきました。嬉しいですね。昼食をいただきながら、地元高崎市の観光ボランティアガイドの方から倉賀野宿についての説明をお聞きしました。

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大山邸は、明治中期において大谷治三郎により創業された米屋「大黒屋」です。早くに親を失い貧しかった治三郎は、大谷家へ養子に入り、馬を飼育し、全国を巡りながら売買する商いで成功を収めた後、「大黒屋」を創業しました。「大黒屋」は燃料や荷役などを手広く扱い、敷地内には多くの蔵が建並んでいたといいます。明治40年代初頭に母屋を近所の呉服商ふじやから手に入れ、当地に曳き家をしてきたと言われています。治三郎は、かつて奉公先だった藤田屋から七男の七次郎を娘の婿に迎え入れ、「大黒屋」を継いだ七次郎は、その傍らで昭和38年に倉賀野町が高崎市と合併するまで、倉賀野町長として町政に尽力しました。「大黒屋」はその後七次郎の長女が後を継ぎ、昭和30年頃まで商いを営んでいました。

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雛祭りの時期なので、由緒のありそうな古い雛人形が飾られています。

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壁には大正時代を思わせる古い振り時計がかかっています。確か愛媛県今治市にある越智本家にも同じような振り時計がかかっていました。今も現役のようで、ほぼ正確に時を刻んでいます。

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昼食後、口直しのデザートに最中(モナカ)付きの珈琲セットをいただいたのですが、この最中(銘柄は河岸最中)の餡子が絶品で、こりゃあ餡子好きの妻と娘にお土産に買って帰ってあげようと思い、「倉賀野古商家おもてなし館」の3軒隣にある「丁子堂 房右衛門」さんへ。そう思ったのは私だけではないようで、今回の「中山道六十九次・街道歩き」に参加した人はほとんどこの河岸最中をお土産に買いに来ていました。この「丁子堂 房右衛門」さんは餡子に自信があるようで、最中だけでなく羊羹も自慢の名物のようです。私は河岸最中に加えて“幸三郎まんじゅう”も購入しました。試食品を食べたらあまりに美味しかったので。妻と娘の評価もこの“幸三郎まんじゅう”のほうが良かったですね。もちろん河岸最中も絶賛されましたが…。このところ出張等で買って帰るお土産のお菓子は妻と娘からは不評続きだったので、面目躍如ってところです( ´ ▽ ` )

ちなみに、「丁子堂 房右衛門」さんは明治36年(1903年)創業の老舗の和菓子屋さんで、軒先に「塩大福」の暖簾を掲げています。高崎銘菓らしく達磨の形をした塩最中もあります。

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……(その4)に続きます。

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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