2017/04/28

中山道六十九次・街道歩き【第10回: 新町→高崎】(その7)


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新(あら)町交差点から右に行くと高崎駅です。左側には高崎市役所や高崎病院、シティギャラリー、音楽センターのある広大な敷地があり、その一帯が高崎城址です。高崎城址は市街化が進んでしまっていますが、水堀や土塁が現存し、城域の原形を今も残しています。また高崎城にあった16の城門のうち唯一、東門が現存し、乾櫓とともに高崎城址のシンボルとなっています。元々この地には鎌倉時代初期、和田正信の築城と伝わる和田城という城がありました。上杉家、武田家、北条家と巧みに主を変えながら、代々和田氏が守ってきた和田城も、天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原攻めによって、後北条氏の滅亡とともに落城し、いったんは廃城となりました。徳川家康の関東入府後、家臣の井伊直正により廃城となっていたこの地に近代城郭の高崎城が築かれると、高崎藩12万石が成立し、井伊直正が初代藩主となりました。今年(平成29年)のNHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』の主人公・井伊直虎(いいなおとら)は、この井伊直正の養母にあたります。

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いったん廃城になったこの高崎に再び城が築かれることになったのが、この地が中山道と三国街道の分岐点に当たる交通の要衝であり、その監視を行う城が必要とされたためです。以後、諏訪氏、酒井氏、戸田氏、松平(藤井)氏、安藤氏、松平(長沢・大河内)氏、間部氏、再び松平(長沢・大河内)氏…と幕府の要職に就くような有力な譜代大名が目まぐるしく入れ替わって藩主を務めました。幕府の要職に就くような有力な譜代大名が藩主を務めるということは、それだけこの高崎が幕府にとって重要な街であったことが窺えます。このように高崎は城下町として発展し、高崎城は明治4年(1871年)の廃藩置県により廃城となるまで、約270年間にわたり存続しました。(ちなみに、井伊家は、石田三成の旧領であった近江国佐和山(滋賀県彦根市)18万石、さらには彦根藩30万石に移封となり、彦根藩は明治時代になるまで井伊家の藩として大いに栄えることとなります。)

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新町交差点脇にある諏訪神社です。小さな社殿ですが、造りが変わっています。土蔵造りで瓦葺き、彫刻も漆喰でできています。高崎宿は度重なる火災を受けた教訓として、火事に強いこのような社殿が造られたのだそうです。

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連雀町を右手奥に入った大信寺には第3代将軍徳川家光の実弟、徳川忠長の墓があります。徳川忠長は慶長11年(1606年)、江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の三男として江戸城西の丸にて生まれました。幼名は国千代(国松)。父の秀忠や母の江は、病弱で吃音があった兄・竹千代(後の第3代将軍家光)よりも容姿端麗・才気煥発な国千代(国松)のほうを寵愛していたといわれていますが、それらに起因する竹千代擁立派と国千代擁立派による次期将軍の座を巡る激しい争いがありました。この争いはのち、春日局による家康への直訴により、竹千代の後継指名で決着します。元和2年(1616年)、甲府23万8000石を拝領し、甲府藩主となり、さらに、寛永元年(1624年)には駿河国と遠江国の一部(掛川藩領)を加増され、駿遠甲の計55万石を知行して、駿河大納言と呼ばれるようになります。しかし、寛永8年(1631年)、家臣数人を手討ちにしたという不行跡を理由として甲府への蟄居を命じられます。寛永9年(1632年)、改易となり領国全てを没収され、高崎藩第2代藩主・安藤重長に預けられる形で上野国高崎へ幽閉の処分が下され、翌寛永10年(1633年)、幕命により高崎の大信寺において自刃しました。享年28。忠長改易の理由は彼個人の狂気と奇行にせいとされていますが、実は今も謎に包まれたままです。

田町絹市場の跡です。田町絹市場、正しくは高崎生絹太織売買所と言い、現在の田町絹市場の西隣に位置していました。明治27年、この地に市場の建物が建築され、その後すぐに高崎商業会議所が設立され、そこに同居しました。高崎は周辺の農村で生産される白絹の取り引きが早くから行われ、毎月、五と十の日に市が立ちました。絹市場はこうした取り引きを一定の場所で公正に行うための場所であり、多くの取り引き業者で繁盛をみせました。現在は当時のままに復元された建物に多くの飲食店が入る飲食店街になっています。

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高崎市は交通の要衝として栄えた経済都市なので、すっかり近代的な都市に生まれ変わっていて、旧中山道の往来で賑わっていた当時の面影はほとんど残っていません。しかし、ところどころに往時を偲ばせるような建物が残っていたりします。

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創業が天保7年(1836年)の老舗の寝具店「金澤屋」です。

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旧中山道は本町3丁目交差点を左折し、高崎城の北側を直進します。この本町3丁目交差点付近に江戸の日本橋を出てから26番目に高崎一里塚があったと推定されているのですが、現在は何も残されておりません。

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この本町三丁目交差点は追分(街道の分岐点)になっていて、中山道はここで左折しますが、まっすぐ進む道が前橋街道です。前橋街道は次の交差点ですぐに右折し、前橋(厩橋)に向かいます。

あっさりと左折してしまいましたが、この高崎市の本町三丁目交差点での左折は中山道六十九次・街道歩き全体で見ると非常に大きな転換点となる左折だったように思えます。江戸の日本橋を出発してからこれまでは概ね北北西の方角に向けて歩いてきたのですが、ここからはほぼ真西に進行方向を変えます。交差点を左折した時には気づかなかったのですが、自宅に帰ってお風呂に浸かってのんびりとこの日の行程を振り返っている時に、私はこのことに気づきました。この日の第10回中山道街道歩きに参加した皆さんのうちで、いったい何人の方がこのことに気づかれたでしょうか。

高崎市の景観重要建造物に指定されている6つの建物の1つ、山田家(旧山源漆器店)です。この山田家のある本町地区は、明治13年の大火により町家の大半が焼失しました。その後、この一帯の町家は防火を考慮し、土蔵造り瓦屋根葺きに変貌するのですが、この店蔵と主屋もその頃建て替えられたものと思われています。その後、昭和37年、都市計画道路の整備に伴い多くの建物が建て替えられ、土蔵造りの店蔵がほとんど失われていったのですが、そんな中でこの山田家は、曳き屋をして残された数少ない例となっています。

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北側の通りに向かって熨斗瓦積みの棟瓦、鬼瓦及びカゲ盛を見せる屋根、それを受ける3段の軒蛇腹、2階の2つの窓に備え付けられた軸吊り形式の防火扉、そして漆喰で仕上げられ、更に黒く塗られた外壁を持つこの店蔵はドッシリとした重厚感に溢れ、通行する人々が思わず足を止めるほど印象深い建造物です。このような関東地方の代表的な店蔵造りの特徴を今も大切に残している建物は、高崎市にはこの山田家以外にはないそうで、大変貴重な歴史的遺産になっています。

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旧中山道は高崎城の北側を本町三丁目、二丁目、一丁目と進んでいきます。本町二丁目の交差点です。このあたりにも往時を偲ばせるような商家の建物が残っています。

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群馬県道25号高崎渋川線は本町1丁目交差点で右折するのですが、旧中山道はそのまま直進します。なので、2車線の道路は本町1丁目交差点から1車線の細い道路となり、赤坂町に入ります。ちなみに本町1丁目交差点で右折する群馬県道25号高崎渋川線が三国街道で、ここ中山道の高崎から分かれて、三国峠を越え、北陸街道の寺泊(現在の新潟県長岡市寺泊)へ至る旧街道でした。この三国峠越えの三国街道は関東地方と越後地方を結ぶ交通路として極めて古くから利用されてきた街道で、上杉謙信の関東遠征の際にも利用されました。

今回はここで左折し、今回の街道歩きのゴールである高崎神社へ向かいます。

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高崎の総鎮守の高崎神社です。高崎神社は寛元年間(1243年?1247年)、和田城主・和田小太郎正信が相模国三浦より城内に勧請したことに始まります。慶長3年(1598年)に井伊直政が高崎城を築城するにあたり現在の地に遷し、高崎の総鎮守として歴代藩主の崇敬を集めてきました。主祭神はイザナギノミコト(伊邪那岐命)とイザナミノミコト(伊邪那美命)で、夫婦の契りを交わしたことから「縁結びの神社」として崇められています。現在の拝殿は駐車場のために2階に上げられているので、大変に申し訳ないのですが、歴史のある建物のわりには神社っぽくありません。

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今回の中山道六十九次・街道歩き【第10回】はここまでです。今回も23,469歩、距離にして17.0km歩きました。上州に入ったのだから、一度は体験しておきたかった上州名物の“からっ風”もしっかり体験することができました。地元の人に言わせると、「いやいや、こんなの“からっ風”のうちに入らない」という程度なのかもしれませんが、十分に強い向かい風でした。

次回、【第11回】はここ高崎宿を出発して、次の安中宿を目指します。次回も高崎宿を出てすぐに君が世橋で烏川を西に向かって渡ります。からっ風を真っ正面から受けることも予想されるため、気合いを入れて臨まないといけません。

中山道最大のハイライトの1つ、『碓氷峠越え』が徐々に近づいてきました。


――――――――〔完結〕――――――――

GWに入るので、『おちゃめ日記』をしばらく休載させていただき、
5月8日(月)より掲載を再開します。

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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