2017/05/08

中山道六十九次・街道歩き【第11回: 高崎→安中】(その1)

3月25日(土)、『中山道六十九次・街道歩き』の【第11回】に参加してきました。【第11回】は、前回のゴールだった高崎宿から板鼻宿を通り、安中宿まで歩きます。

いつものように集合場所のさいたま新都心駅から観光バスで出発地点まで向かいます。3月も下旬となり、気候もめっきり春らしくなったので、途中で立ち寄った関越自動車道上里サービスエリアには、上信越地方の行楽地に向かう観光バスが何台も並んでいます。この日はよく晴れて、上里サービスエリアではほぼ無風。恐れていた上州名物の“からっ風”の洗礼は、今回も浴びなくて済みそうです。

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今回のスタートポイントは、前回【第10回】のゴールとなった高崎の総鎮守の高崎神社です。この日は大安吉日にあたり、高崎神社でも結婚式が執り行われていました。前回も書きましたが、この高崎神社の主祭神はイザナギノミコト(伊邪那岐命)とイザナミノミコト(伊邪那美命)で、夫婦の契りを交わしたことから、この高崎神社は「縁結びの神社」としても崇められています。この日、高崎神社の拝殿でめでたく夫婦の契りを交わされたこの新郎新婦が仲睦まじく幸せになられますことを、心よりお祈りいたします。

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高崎神社の駐車場で準備体操をした後、街道歩きのスタートです。本町1丁目交差点を左折して旧中山道に戻ります。前回の最後にも書きましたが、下の写真で右から左方向に延びる道路が旧中山道、この本町1丁目交差点で分岐し、写真では上方向に延びる道路が、三国峠を越え北陸街道の寺泊(現在の新潟県長岡市寺泊)へ至る三国街道です。すなわち、この本町1丁目交差点は旧中山道と三国街道との追分(分岐点)でした。

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三国街道のほうは群馬県道25号高崎渋川線で2車線の道路なのですが、旧中山道のほうは1車線の細い道路となり、赤坂町に入ります。高崎市民の間では、「赤坂通り」と呼ばれているようです。

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本町1丁目交差点を曲がってすぐのところにある初代高崎城主・井伊直正の伯母、恵徳院宗貞尼の菩提寺である曹洞宗恵徳寺です。恵徳寺の参道の入口には『高崎』の地名の由来が書かれた案内板があります。それによると、高崎は、昔は和田という地名だったのだそうです。この恵徳寺を開山した大光普照禅師は高崎城初代城主の井伊直政の信任が厚かったそうで、 ある時 、井伊直政の「和田の名称を松崎と変えたいと思うのだが」 の問いに 、大光普照禅師は「松は枯れるが、高さには限りがない。その意をとって高崎とするのはいかが」 と進言したのだそうです。井伊直政は多いに喜び、『高崎』と命名したということらしいです。

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旧中山道(赤坂通り)をさらに進みます。うっかりして写真を撮影するのを忘れてしまいましたが、左手に黒い重厚な土蔵造りの家があります。明治13年の大火により町家の大半が焼失した本町地区は、防火を考慮し、土蔵造り瓦屋根葺きの重厚な町家が増えました。なにより、漆喰で仕上げられ黒く塗られた外壁はとても風情があります。

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加賀藩の茶屋本陣でもあった長松寺です。この長松寺の書院(庫裡)は、高崎城に幽閉された徳川忠長(江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の三男)が大信寺において自刃した部屋を移築したものと伝えられています。

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延養寺、恵徳寺、長松寺、大信寺…、高崎には数多くの寺院が建っています。これは単に高崎市に限ったことではなく、城下町と呼ばれる都市では共通のことのようで、私の故郷・松山市も同様です。それは寺院が兵舎の役割を持っていたからです。城下町とは領主の居城を中心に成立した都市のことですが、城下町には領主の居城の防衛施設としての機能がありました。いざ戦闘が始まると、領主は配下の家臣に対して集合をかけるのですが、大勢の家来を伴ってやって来る家臣をすべて居城の中に入れるだけの十分なスペースはありません。そこで、寺院を数多く設置し、そこに兵隊を収容するようにしたわけです。城下町に大規模な本堂を持つ寺院が数多く建っているのは、そのためです。

長松寺の向かい側、高崎祭りの山車舎の右奥に建つ公民館のような建物があります。ここは役人が常に詰めて、通行人の往来に目を光らせていた番屋の跡です。言ってみれば今でも警察官が詰めている“交番”のようなところです。高崎宿は城下町でもあったため、中山道を通って不審者がやって来ないようにここで見張っていたわけです。

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旧街道らしい雰囲気を残す狭い赤坂町のダラダラ坂を下ります。ここが長い坂になっているのも、実は高崎が城下町であったことと大きく関係があります。すなわち、敵が侵攻してくる際、上り坂だと侵攻してくる速度を抑えることができ、しかも、坂の上で待ち受けることができるため、防御上極めて有利ですからね。その意味では、この坂の途中にある長松寺と恵徳寺は、その際の最前線の砦の役割を果たすところだったのではないでしょうか。城下町としてうまく都市設計がなされています。さすがは「おんな城主直虎」に厳しく養育され、戦国時代最強と謳われた“井伊の赤備え”、徳川四天王の1人、井伊直正(幼名:虎松)です。

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長松寺の少し先に、煉瓦(レンガ)造りの煙突が見えます。『岡醤油醸造株式会社』の表示があります。店の前に立てられている案内表示によると、この『岡醤油醸造』は天明7年(1787年)創業の河内屋さんという商家が、明治30年(1897年)に醤油醸造に参入したことで開業したのだそうです。その歴史を感じさせる店構えと相まって、街道筋にレトロな雰囲気を醸し出しています。

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その岡醤油醸造の向かい側には、高崎の産業界で中心的役割を担った豪農・山田家の居宅跡があります。煉瓦(レンガ)造りの塀がなかなかのもので、現在は図書館として公開されています。明治以前の建物と思われる母屋、2棟の土蔵、明治16年に移築された茶室、そしてそれを囲むレンガ塀は高崎都市景観重要建築物等に指定されています。明治・大正・昭和と産業界で中心的な役割を担った山田昌吉と、その娘夫婦の山田勝次郎(旧姓蝋山)ととくが、ここを自邸として活躍しました。山田昌吉は、東武鉄道の創始者の根津嘉一郎氏が「高崎における渋沢栄一」と称賛したほどの経済人。山田勝次郎の実父の蝋山政次郎は、商工会議所会頭だった昌吉を副会頭として支え、大正4年から昭和4年までの10年あまり、経済状況が一番厳しい時期に高崎の経済界を牽引した人物です。両家は隣近所にあって仲の良い間柄でした。勝次郎の兄・蝋山政道は、お茶の水女子大学学長、東京都教育委員会委員長など多くの公職を歴任。行政学研究の先駆的存在として知られています。また、弟の小山長四郎は、松井田の小山家の養子となり、旧美峰酒類㈱の社長を務めました。

ちなみに、この煉瓦造りの見事な塀はもともとここにあった塀ではなく、大正時代に旧茂木銀行高崎支店の塀を移築したものなのだそうです。

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平成27年(2015年)に放映されたNHK大河ドラマ『花燃ゆ』は井上真央さん演じる吉田松陰の末妹で久坂玄瑞の妻となる杉文(後の久坂美和→楫取美和)が主人公のドラマでしたが、その文が再婚する相手が大沢たかおさん演じる長州藩士・楫取素彦(かとり もとひこ)。その楫取素彦は後に県令(県知事)として群馬県に着任するのですが、その群馬で江守徹さんと三田佳子さん演じる阿久沢権蔵夫妻とともに富岡製糸場を中心に蚕糸の一大生産地となった群馬の産業育成に努めるわけですが、その阿久沢権蔵はどうも架空の人物のようですが、もしかしたらここに住んでおられた山田昌吉さんもそのモデルのお一人だったのかもしれません。

山田文庫の塀に沿って常磐町交差点を直角に右折します。この建物は煉瓦造りの蔵でしょうか?

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4日前の3月21日に、東京で桜(ソメイヨシノ)が開花したと気象庁より発表がありました。ここ高崎でも開花した桜をところどころで見掛けます。待ちに待った春ですね。

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……(その2)に続きます。