2017/05/17

中山道六十九次・街道歩き【第11回: 高崎→安中】(その5)

板鼻宿(いたはなしゅく)です。板鼻宿は、中山道六十九次のうち起点の江戸・日本橋から数えて14番目の宿場です。日本橋より28里24町40間(112.7km)、京より107里7町20間。天保14年(1843年)の記録によると、板鼻宿人口は1,422人、総軒数312軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠54軒であったそうです。板鼻宿は宿場のはずれにある碓氷川の渡し場が、水深の深い要害地であり、しかも徒歩渡し(かちわたし)だったため、中山道随一の難所と言われ、増水による川留めで多くの旅人が宿に逗留するために宿場は大いに繁盛したそうです。また、その前の高崎宿が城下町でかたっ苦しい雰囲気の宿場だったので、余計にここの宿に泊まる旅人が多かったのだそうです。そのため、中山道の上州七宿(新町宿・倉賀野宿・高崎宿・板鼻宿・安中宿・松井田宿・坂本宿)の中では最大規模の宿場であり、かつ旅籠の数50軒を数える宿場は板鼻宿より京方面(西)では塩尻宿以外にはありません。そうした賑わった宿場町だったのですが、国道や鉄道が整備されると次第に賑わいを失い、衰退していったのだそうです。

また、ここ板鼻宿は、源義経が京都の鞍馬山を出奔し、金売り吉次とともに奥州藤原氏宗主の藤原秀衡を頼って奥州の平泉へ向かう途中で、この板鼻宿で伊勢三郎義盛と出会ったという伝説も残っています。伊勢三郎は後に義経四天王の一人として、数々の源平合戦で活躍した武将です。もとは盗賊であったらしく、義経一行を襲う予定だったのですが、義経の人柄に惚れこみ主従の関係となったと伝えられています。あくまでも物語の中での話であり、伊勢三郎義盛の実際の出自に関しては不明ではありますが…。

かつて賑わっていたであろう宿場の面影を残す街並みは人通りもなく静かです。創業以来百有余年の暖簾(のれん)がかかった板鼻館です。ここは板鼻宿が旧中山道の往来で栄えた当時は、板鼻宿に54軒あった旅籠の1つでした。

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この路地を入った突き当り辺りに、板鼻宿の奉行所が置かれていました。

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越し屋根が二つ乗る、養蚕農家形式の家です。かつて旧中山道で栄えた宿場街らしく、板鼻にも立派な屋敷がところどころに残っています。

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ところてん(心太)屋さんの「こころ」さんです。なぁ~んか懐かしい感じがしてパチリ!

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板鼻宿交差点の角にある板鼻公民館入口に「板鼻宿本陣跡」の標柱が立っています。ここが板鼻宿の木島家本陣跡で、昭和初期までは建物が残っていて、建坪は167坪で、雪隠(トイレ)だけでも10ヶ所もあったという相当に大きな屋敷だったのだそうです。現在はその跡地に板鼻公民館が建っています。

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公民館の裏手には皇女和宮資料館があります。ここは木島家本陣の付属書院であったもので、文久元年(1861年)、皇女和宮が第14代将軍徳川家茂へ輿入れのため江戸へ下向(降嫁)の途中、この書院に一泊されたのだそうです。当時の面影が残っています。その時、皇女和宮は15歳。皇女和宮は、この木島家本陣の書院にお泊りになられた時に初潮を迎えられたとされていて、月の物を処理したものが石の塚として残り、「月の宮」と称され祀られています。板鼻宿の宿場の飯盛り女たちは、仕事柄、月のさわりが無くなることを恐れていたので、この「月の宮」をたいそう崇拝したと言われています。

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この部屋が、実際に皇女和宮がお泊りになったお部屋です。お部屋の畳を上げたところの床に穴が2つ空いていて、その下は空洞になっています。この空洞、実は皇女和宮警護のための伊賀忍者がここに入って、皇女和宮の身辺を守っていたのだそうです。この狭いところに一晩中、じっと身を潜めて隠れていたのですか…。お勤め、ご苦労様です。

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皇女和宮所縁の品々が展示されています。皇女和宮は身長が140cm程度と小柄だったそうで、御履きになった草履も小さいものです。

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中山道ではいたるところで皇女和宮の降嫁についての逸話が残されています。皇女和宮の降嫁の行列は警護や人足を含めると総勢3万人に上り、行列の長さは約50km、御輿の警護には12藩、沿道の警備には29藩が動員されたのだそうです。和宮が通る沿道では、住民の外出・商売が禁じられた他、行列を高みから見ること、寺院の鐘等の鳴り物を鳴らすことも禁止され、犬猫は鳴声が聞こえない遠くに繋ぐこととされ、さらに火の用心が徹底されるなど厳重な警備が敷かれたとされています。その皇女和宮の降嫁の行列で使われた警護用の道具がこの皇女和宮資料館に展示されています。

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板鼻宿の木島家本陣の間取り図が展示されています。前述のように、建坪は167坪で、雪隠(トイレ)だけでも10ヶ所もあったという相当に大きな屋敷だったようです。

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木島家本陣の門前には高札場が設置されていたとのことで、皇女和宮資料館にはその高札場で使われた本物の高札が展示されています。

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浮世絵師・渓斎英泉が描いた『木曽街道六十九次』(木曽街道とは中山道のこと)のうち、板鼻宿を描いた作品です。どのあたりを描いたものなのか、うっかりして聞くのを忘れてしまいました。

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木島家本陣跡を出て、再び街道歩きに戻ります。

板鼻宿の裏手には、清流といっても過言ではないくらい澄んだ水の用水路が流れています。この用水路は板鼻堰(せき)といって、目に前の鷹之巣山麓から発する碓氷川と九十九川の合流点付近から水を取り入れ、ここ安中市板鼻、高崎市八幡町、剣崎町、藤塚町、上豊岡町、中豊岡町、下豊岡町を経て、烏川に流れこむ全長約15kmに及ぶ用水路です。今から約400年前の慶長年間(1596年~1614年)に造られたものだそうです。用水は各家に引き込まれているので、昔は野菜などを洗ったり洗濯したりと、日常生活に使われていました。昔の上水道ってことです。

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牛宿の跡です。牛宿とは荷物の継ぎ立て所の役割を果したもので、公儀、乗馬役人の定宿でもありました。帳付場や宰領部屋があり、裏手には牛小屋があったと言われています。群馬県道137号箕郷板鼻線が群馬県道26号高崎安中渋川線から分かれて板鼻宿に入って来るところに建てられていた顕彰碑は、この牛宿のご主人の功績を讃えたもののようです。

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牛宿の跡あたりで、後ろを振り返ってみました。旧街道らしい落ち着いた街並みが続いています。この板鼻宿、これまで歩いてきた14の宿場の中では、往時の面影が最も色濃く残っている宿場のように思えます。これから先、信州の山の中に入っていくので、こういう魅力的な宿場町をいっぱい通ることになるのでしょうか。期待が高まります。

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鷹巣神社です。鷹巣神社はこの奥の鷹巣山の崖の上に鎮座する板鼻宿の総鎮守です。明治時代後期に板鼻地区のほとんどの神社をここに合祀しました。また、戦国時代後期、板鼻は山内上杉家・武田氏・後北条氏の間で壮絶な争奪戦が繰り広げられたところで、この鷹巣山の上には板鼻城(鷹巣城)が築かれていました。伝承によれば、この板鼻城(鷹巣城)は山内上杉方の後閑氏・長野氏が築城したものとされていて、激烈な攻略戦の後に武田氏家臣の小幡信尚が入り、武田氏・後北条氏の傘下と入ったとされています。

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……(その6)に続きます。