2017/05/24

中山道六十九次・街道歩き【第12回: 安中→松井田(五料)】(その1)

中山道六十九次街道歩きの【第11回】に参加した翌週の4月2日(日)、今度は【第12回】に参加してきました。これまでだいたい月1回のペースでツアーに参加し、旧中山道を江戸日本橋から上州安中宿まで歩いてきたのですが、2週連続というのは初めてのことです。まぁ~、様々なスケジュールの都合でそうなったのですが、間が1週間ということで、まだまだ【第11回】の余韻が残るうちでの【第12回】です。余韻が残っているどころか、はっきり言って、まだ【第11回】のブログ執筆にもまったく手をつけていませんでしたからね(^_^;)

この日もよく晴れて、気温も高め。すっかり春らしくなって、街道歩き日和です。実は前日の4月1日(土)、関東地方は一日中どんよりと曇り、時々小雨が降る寒い1日でした。こういう中を歩くのは辛いなぁ~って思っていたのですが、翌4月2日は一転して晴れ、それも快晴! “晴れ男のレジェンド”は今回も健在のようです。開花宣言が出されて以来、気温が低い日が続き、なかなか満開にはならなかった関東地方の桜(ソメイヨシノ)も、この暖かさと陽射しで、一斉に開花し、満開になるのではないでしょうか。

今回の【第12回】は、前回【第11回】のゴールだった安中宿を出発し、松井田宿を経由して、“間の宿(あいのしゅく)”である五料を目指します。いつものようにJRさいたま新都心駅を出発した観光バスはJR北本駅前で北埼玉からの参加者をピックアップし、関越自動車道、上信越自動車道を使って安中宿を目指します。午前8時にさいたま新都心駅を出発して、安中宿に到着したのは午前11時。途中渋滞もなく、順調にここまでやって来たのですが、それでも所要時間は3時間。それだけでも、随分と遠くまで歩いて来たんだな…って実感します。

午前11時ちょうど頃に前回【第11回】のゴールだった安中市商工会館前の駐車場に到着し、軽くストレッチ体操をした後、街道歩きに出発しました。この日のコースは街道だけだと約13km。距離的にはこれまでの回とほぼ同じくらいなのですが、関東平野の一番奥のあたりで山が迫り碓氷峠が近づいて来ているということもあって、アップダウンを繰り返しながら徐々に登っていく…というコースになります。イメージ通りの中山道らしさというものが感じられるようになるのではないか…と期待が膨らみます。

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この日の街道歩きの出発地点の安中市商工会館の前を通る旧中山道と並行した碓氷郡役所前の通りは大名小路と呼ばれていました。この道は道幅三間半(約6.4m)、かつては安中藩士が住む侍屋敷がこの道路の両側に軒を並べていました。宿場から一歩入ると武士の世界、相当規律が厳しい宿場だったのだろうということは想像できます。

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道路を挟み郡奉行役宅の前には武家長屋が建っています。この長屋は当初、四軒長屋であったのですが、そのうちの三軒が現存していました。これを明治初期の間取図に基づき当時の姿である四軒長屋として復元修理したものだそうで、敷地には井戸や門まで配され、当時の武士の家庭の生活の様子を実感できます。なんだか時代劇のセットのようです。残念ながら、この日、武家長屋は茅葺屋根の補修中で、養生材で覆われ、その姿を見ることはできませんでした。

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前回【第11回】でここまで…としたところに戻ってきました。ここから旧中山道街道歩きの再開です。

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このあたりが安中市谷津。「谷津の坂」と呼ばれる緩やかな上り坂になっています。この谷津周辺は安中城とも近く、安中宿の中心地でした。この建物は「サカウエ薬局」という薬屋さんです。昔から薬屋を営んでいたのでしょうか?

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谷津には歴史を感じさせる建物が今も残っています。奥まったところにある神社も由緒正しそうな佇まいを見せています。

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旧商家の住居や店舗、蔵等が残り、旧中山道の街道情緒がそこはかとなく漂う安中宿の「谷津の坂」を上ると上野尻に入ります。天保3年(1832年)創業の醤油醸造の老舗「有田屋」です。この有田屋は安中の名士である湯浅家が経営する醤油味噌醸造会社で、三代目当主である湯浅治郎は新島襄の後援者であり、また安中教会や便覧舎の設立、また、京都の同志社英学校の運営にも尽力された方です。

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この有田屋の三代目当主である湯浅治郎という人物、気になったので調べてみると、私がそれまで知らなかっただけで、相当な人物だったようです。明治13年(1880年)に群馬県会議員となり、同16年(1893年)には県会議長に就任。廃娼運動の先導役となったのだそうです。明治23年(1890年)に行われた第1回衆議院議員総選挙に群馬県第5区から立候補して当選、衆議院議員(自由党所属)となり、1期で国政から引退した後は、家業の発展と社会・文化運動に力を尽くしました。また、安中小学校設立に深く関与し、新島の同志社や義弟の徳冨蘇峰の民友社を経済的に支援したほか、同志社・日本鉄道・日本組合基督教会などの理事も務めました。さすがは城下町でもある安中宿の大店の主人です。次世代を担う人財の育成と文化の振興に力を注がれています。勉強になります。

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また、前述のように、湯浅治郎は京都の同志社大学の前身である同志社英学校を設立した新島襄の後援者であり、有田屋には湯浅治郎と新島襄の関わりを示す品々が転記されています。

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新島襄は天保14年(1843年)、安中藩士の子として生まれ、21歳の時に密航を企て、函館から米国のボストンへ渡ります。ボストンでキリスト教の洗礼を受けた後、各地の大学や神学校で学び、明治5年(1872年)、岩倉使節団に木戸孝允の通訳として参加し、ニューヨークからヨーロッパへ渡り欧米各国の教育制度を視察。その成果を、明治政府の教育制度に大きな影響を与える「理事功程」として編集しました。明治7年(1874年)に帰国すると、その翌年、同志社大学の前身となる同志社英学校を開校しました。

この新島襄は、平成25年(2013年)に放映されたNHK大河ドラマ『八重の桜』で、綾瀬はるかさん演じる主人公の八重が再婚した相手でした。NHK大河ドラマ『八重の桜』ではオダギリジョーさんが新島襄を演じました。

まったくの余談ですが、今から43年前、私が大学を受験した時、どうしても京都の大学に行きたかった私はその新島襄が開校した同志社大学工学部電子工学科を受験し、めでたく(運良く)合格通知をいただきました。憧れの京都の大学に合格して楽な気持ちで次に受験した国立広島大学からもその後合格通知をいただき、どっちに進学するか散々迷った挙句、スポンサーたる両親からの強い勧めもあって広島大学に進学することにしました。その判断を今はまったく後悔はしていませんが、もしかしたら新島襄先生の開いた大学で学んでいたかもしれないと思うと、妙に親近感を覚えてしまいます。

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有田屋は今でも醤油の生産・販売を続けていて、敷地内には甘い醤油の香りが漂っています。

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その建物の裏に回ると、高い煉瓦造りの煙突があります。この煙突は明治時代に作られたものだそうで、今も現役で使われています。

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この有田屋の向かい側には有田屋の三代目当主・湯浅治郎が明治5年(1872年)に私財を投じて設立した図書館の「便覧舎」がありました。この「便覧舎」は日本で初めて民間人が設立した図書館であるといわれ、西洋式の建物に約3,000冊もの書物を備え、誰でも無料で閲覧することができたのだそうです。設立者の湯浅治郎は同志社大学の創立者でキリストの布教家でもあった新島襄の思想と教育を支援し、ここ「便覧舎」で30名の人々が新島襄からキリスト教の洗礼を受け、後にこの人達が安中教会を設立する原動力となりました。残念ながら「便覧舎」の建物は明治26年(1893年)の火災で焼失してしまったのですが、その跡地には「便覧舎址」の石碑が建てられています。

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有田屋の現在の当主(7代目)は随分とクルマ好きのようで、こんなクルマが駐車してありました。右側のクルマのナンバープレートに注目です。こんなナンバープレートを付けているのは、相当に古いクルマです。「1980年代以前のクルマでお越しの方にはコーヒー1杯無料」という案内表示も出ていました(笑)

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有田屋を出て、中山道を先へ進みます。この上野尻の旧中山道の街道沿いにも土蔵や“なまこ壁”など歴史を感じさせる民家が数多く建ち並んでいます。

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旧中山道を進んでいくと、上野尻郵便局の前に「安中大木戸跡」と刻まれた石碑が立っています。上木戸ではなくて大木戸。ここは安中宿の京方の入り口というよりも安中城への京方の入り口という性格が強く、城警護のための木戸があったようです。木戸というよりも“城戸”ですね。ちなみに城下町にある宿場は城の防衛のために曲がりくねった形状の街並みにするのが一般的ですが、安中宿はほぼ一直線の形状をしているのが特徴です。と言うのも、安中城は中山道の北側に位置し、家臣達はこの日のスタートポイントのところで説明した中山道から一歩北側に入った大名小路周辺に固まって長屋状の住居を構えていて、そこを防衛上の最終防衛ラインとした形状の街の作りにしていたからのようです。

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……(その2)に続きます。

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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