2017/05/26

中山道六十九次・街道歩き【第12回: 安中→松井田(五料)】(その2)

「安中大木戸跡」を過ぎてすぐの右手に愛宕神社があります。実はこの神社は前方後円墳の上に建つ神社です。すなわち、神社の下のこんもりとした丘のような部分が実は前方後円墳なのです。

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実は群馬県は古代の遺跡が数多くあるところとして知られています。昭和21年に黒曜石でできた石器が発見され、日本列島に今から2~3万年前の旧石器時代が存在したことが初めて科学的に証明されたのが、群馬県みどり市にある岩宿遺跡でした。

3世紀後半~7世紀にかけての古墳時代には関東は東国と呼ばれ、その中でも群馬は大事な拠点でした。大和政権のある近畿と未開拓の東北を結ぶ陸路(東山道)の通過点であり、当時貴重な軍事力だった”馬匹(ばひつ)生産”を積極的に行っていたからです。そのため4~6世紀にかけて豪族らの古墳が群馬県内に沢山作られました。群馬県内には15,000基ほどの古墳があるとされています。現在、県内には「保渡田古墳群(高崎市)」「白石古墳群(藤岡市)」「八幡古墳群(高崎市)」の三大古墳群があり、朝鮮渡来系の遺物等も多く発見されています。

保渡田古墳群には井出二子山古墳、保渡田八幡塚古墳、保渡田薬師塚古墳という3つの前方後円墳があり、いずれも墳丘長が約100メートルという規模の大きなものです。埴輪などの副葬品も多く、身分の高い豪族を葬っていた状態がよく分かります。白石古墳群は南北約2kmにわたって白石稲荷山・十二天塚・七輿山など大小合わせて300以上の古墳があります。前方後円墳、円墳、方墳と形も様々で、中でも伊勢塚古墳の石室は全国でもここだけと言われる珍しい”模様積み”と呼ばれる積み方で、胴張り型のアーチ構造を見事に支えています。碓氷川に面した高崎市八幡地区にある八幡古墳群は平塚古墳・二子塚古墳・観音塚古墳の3基の大きな前方後円墳を中心に20以上の古墳で構成されます。このうちの観音塚古墳は古墳時代最末期の前方後円墳と言われ、巨大な石を使っていることが特徴です。そのほかにも、今から約1,500年前の榛名山の噴火で犠牲となった男性が、鎧兜を身に着けた状態で発見された金井東裏遺跡(渋川市)などがあります。

埼玉県内を含め、旧中山道沿いではこれまで幾つもの古墳を見てきました。この中山道(東山道)は、3世紀から7世紀にかけての古墳時代から畿内地方を含む西国との間で人や物の行き来があったということなのですね。歴史を感じます。

八幡古墳群と同じく碓氷川に面した安中市にはこのほかにも幾つもの前方後円墳が発見されていて、特に原市小学校の南400mほどの碓氷川中流域の段丘上にある簗瀬二子塚古墳が有名です。この簗瀬二子塚古墳は全長約130mの比較的規模の大きな前方後円墳で、6世紀初頭の築造と推定されています。また、2段築造の墳丘には多量の円筒埴輪の樹立が認められています。

その前方後円墳(愛宕神社)のすぐ先に「新島襄先生旧邸宅入口」いう石碑が建っています。ここを左に入った奥に新島襄先生の旧邸宅があるのですが、実際にはそこは新島襄の両親の家で、新島襄本人が滞在したのはアメリカ留学から戻ってきたすぐ後の僅か3週間ほどだったのだそうです。ですが、この僅か3週間ほどで、新島襄は安中に大きな影響を与えました。新島襄は明治7年(1874年)11月29日に、この家で元治元年(1864年)以来10年ぶりに父母姉妹と再会しました。そして、この旧邸宅は10年間にわたるアメリカでの苦学の経験を活かして、日本での活動を始める第一歩となったところでもあります。

新島襄はこの3週間の滞在中に安中藩主板倉勝明によって基礎が築かれた「文教のまち安中」に大いに感化を受けました。反対に、新島襄自身も安中にキリスト教の教えを伝えるなど、安中の文化に多大の影響を残しました。その後、新島襄は京都に同志社英学校を設立し、キリスト教を基にした人格教育を行うことに全力を尽くし、明治23年(1890年)1月23日に病気療養中の神奈川県の大磯で亡くなりました。

残念ながら、時間の関係で立ち寄れませんでしたが、現在、「新島襄先生旧邸宅」には新島襄の記念館があり、新島襄ゆかりの品や写真等が展示されています。

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その「新島襄先生旧邸宅入口」の碑のすぐ先に「原市の杉並木」の碑が建っています。この先にある「原市の杉並木」が国の天然記念物に指定されたことを記念する石碑なのですが、実際に杉並木が見えるのは、もうちょっと先に進んでからです。「原市の杉並木」が国の天然記念物に指定された当時は、ここから先に杉並木が続いていたということなのでしょう。

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このあたりで安中宿内を進んできた旧中山道は群馬県道125号一本木平小井戸安中線から群馬県道48号下仁田安中倉渕線に変わります。

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群馬県立安中総合学園高校のところで旧中山道は国道18号線を横断し、安中市原市に入ります。下の左側の写真で右奥に延びる道路が旧中山道(群馬県道48号下仁田安中倉渕線)です。

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このあたりに江戸日本橋を出てから30里目の一里塚があったはずなのですが、何も残されておらず、案内標識すら立っていません。

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原市の集落の中を歩きます。ここも旧街道沿いの集落らしく、歴史を感じさせる落ち着いた雰囲気を漂わせています。

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しばらく国道18号線と並行しながら旧中山道を先へ進むと、杉の並木道が約1km続きます。江戸時代、街道には一里ごとに一理塚が築かれ、また通行する人を風や日差しから守るために並木が植えられていました。この杉並木は「原市の杉並木」と呼ばれ、かつては6里(約24km)にも及び、「日光の杉並木」と並び称されるような杉並木だったのだそうです。天保15年(1844年)の記録によると街道筋には732本もの杉が連なり、昭和7年(1932年)には321本で、昭和8年(1933年)には天然記念物にも指定されるほど美しい杉並木でした。ですが、その後の自然災害や交通公害で杉並木の杉は枯れて激減していき、昭和42年(1967年)、残念ながら天然記念物の指定は解除されてしまいました。そして現在、現存する当時の杉の木は僅かに16本と、ほぼ絶滅状態になってしまっています。現在、新たに杉の若木が植えられてかつての「原市の杉並木」の再現が図られているようですが、「日光の杉並木」と並び称されるほどに美しかったかつての姿を取り戻すまでには相当の時間が必要のようです。一度失われた自然はなかなか元には戻りません。自然環境は大事にしないといけませんね。

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まだ安中宿を出たばかりのところなのですが、時刻は既に12時半を回っています。安中市商工会館前をスタートしたのが午前11時過ぎなので、仕方ありません。この日の昼食は「原市の杉並木」の近くにあるコンビニエンスストアの駐車場に停めてある観光バスの車内でのお弁当でした。

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……(その3)に続きます。

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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