2017/06/16

全国の越智さん大集合!(その4)

【南光坊】
昼食後、まず訪れたところは今治市別宮町にある南光坊(なんこうぼう)。ここは四国八十八箇所霊場の第五十五番札所で、正式名称は『別宮山(べっくさん)光明寺金剛院(こうみょうじこんごういん)南光坊』。真言宗御室派の寺院で、本尊は大通智勝如来(だいつうちしょうにょらい)。大通智勝如来とは大山祇神がお亡くなりになられた後のお姿(仏)なのだそうです。

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この南光坊も越智氏と関係の深い寺院です。創建は大宝3年(西暦703年)。もともと南光坊は推古天皇御代2年(西暦594年)に推古天皇の勅により、伊予の国一宮で大三島に鎮座する大山祇神社の「供僧寺(僧坊)」のうちの1坊として大三島に造立された寺院でした。2日目に訪れるのですが、大三島に鎮座する大山祇神社は日本国の総鎮守の神社でありますが、越智氏族の氏神でもあります。

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南光坊の住職からこの南光坊の縁起についてお話をお聞きしました。河野氏の祖でもある前述の越智玉澄(河野玉澄)が、風雨の時には大三島へ渡れなくなるために大山祇の神への祭祀が欠けることを憂い、文武天皇(在位697年から707年)の勅を奉じて大宝3年(西暦703年)、当地(伊予国越智郡日吉村)に勧請し、「日本総鎮守三島の地御前」として四国の本島側に奉祀し、別宮と称しました。もともと大三島の大山祇神社には24の僧坊があったのですが、その際、南光坊を含む8坊(中之坊・大善坊・乗蔵坊・通蔵坊・宝蔵坊・西光坊・円光坊・南光坊)がその別宮の別当寺「大積山光明寺」の塔頭としてともに和銅元年(西暦708年)に遷されました。この8坊の移動を仕切ったのは行基。行基はこの後、聖武天皇により奈良東大寺の大仏造立の実質上の責任者として招聘されることになります。(なお、これら八坊の移転を正治年間(1199年?1201年)とする説もあります。)

さらに、弘法大師は四国巡錫の時、別宮に参拝して別当寺で御法楽をあげられて修法され、四国霊場第五十五番札所と定められたのだそうです。ちなみに、四国八十八箇所霊場の寺院のうち、“◯◯寺”ではなく“◯◯坊”で呼ばれるのは、この南光坊だけです。この日も白装束をしたお遍路さんが何人も巡礼に訪れていました。

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しかしながら、天正年間(1573年~1592年)、伊予の全土を襲った長宗我部元親の四国平定の際、その軍勢によりこれら八坊はすべて焼き払われてしまいました。慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の家臣・藤堂高虎が今治藩主に任ぜられると、八坊のうち南光坊のみを再興。江戸時代には今治藩主久松家からも尊信を受け、祈祷所として定め、別当職を持続し、広大な寺域を誇りました。

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南光坊の本尊の大通智勝如来像は、今はこの南光坊と大三島に残された16の僧坊の1つ東円坊にだけ残る極めて珍しい如来像で、古仏としては唯一現存している大通智勝如来像と言われています。この大通智勝如来像の如来が胸の前で結ぶ印は、右手を拳に握って人さし指だけ立て、それを左手で握る…という通常のものとは逆になっていることに特徴があります。これはいったい何を意味しているのでしょうか? 写真で住職の奥の扉の向こう側に鎮座なさっておられるのが、本尊の大通智勝如来です。



【別宮大山祇神社】
南光坊に続いては、南光坊に隣接する別宮大山祇神社(べっくおほやまづみじんじゃ)を訪れました。ここは南光坊の住職の話に出てきたように、河野氏の祖でもある前述の越智玉澄(河野玉澄)が、風雨の時には大三島へ渡れなくなるために大山祇の神への祭祀が欠けることを憂い、文武天皇(在位697年から707年)の勅を奉じて大宝3年(西暦703年)、この地(伊予国越智郡日吉村)に勧請し、「日本総鎮守三島の地御前」として四国の本島側に奉祀したもので、大三島の大山祇神社本宮の別宮(べっく:地御前とも言います)と称しました。

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和銅5年(西暦712年)に神殿をはじめとする各種社殿が造営されたのですが、別宮とはいえ、大三島にある大山祇神社の本社に劣らず、壮観な神社であったと豫陽盛衰記に記されているそうです。この社殿の造営以降、大山祇神社の社家・大祝家の分家である別宮氏が神職を勤めてきました。この大祝家、別宮氏とも越智氏族です。

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天文20年(1551年)、落雷により社殿が炎上。現存する別宮大山祇神社の拝殿は天正3年(1575年)に来島城主の村上三郎九郎越智通総(来島通総)が再建し奉ったもので、この地方唯一の切妻造檜皮葺の純和様神社建築で、愛媛県の有形文化財に指定されています。

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別宮大山祇神社にある清高稲荷神社です。別宮大山祇神社には阿奈波(あなば)神社、奈良原神社、清高稲荷神社、荒神社の4つの摂末社(せつまつしゃ)があります。

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【さいさいきて屋】
越智氏族とは直接関係はないのですが、越智今治農業協同組合(JAおちいまばり)の運営する野菜等の直売所を中心とした複合施設『さいさいきて屋』に立ち寄り、休憩を取りました。『さいさいきて屋』は今治市の国道196号沿いに立地していて、立地の良さもあり平日は600人前後、土・日曜日には1,800人前後の買い物客が県内外から訪れています。『さいさいきて屋』の店名は「再々」と、いろいろな野菜や果物が揃っているという造語「彩菜」をかけて付けられています。直売所では地元で採れた野菜や米、果実、精肉のほか、地元の漁業協同組合でとれた魚介類、地元農産物を活用したジュースやジャム等の加工品など様々な地元産品が販売されています。また、施設内には、地元食材を活用した食堂「彩菜食堂」やカフェ「SAISAICAFE」、市民農園、研修施設などが設置されています。

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『さいさいきて屋』は2000年に遊休施設を改装した小さな店と94人の出荷者でスタートしたのですが、1年目で約2億1,000万円と予想以上の売り上げを記録。2002年にはAコープを改装した新店舗に移転したのですが、2004年には出荷者が700人を超え、売り上げも約7億円に達し、すぐに売り場が手狭になりました。そこで、職員有志が直販事業拡充のプロジェクト検討に着手し、2007年、現在地に現在の大型直売所が誕生しました。直売所の売り場面積562坪は全国一であり、売上高(平成23年度)は22億5千万円と全国4位を誇っているのだそうです。直売所の優等生のようなところです。この日もビックリするくらい大勢の買い物客が押し寄せていました。

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青果物は今治市周辺のJAおちいまばりの会員1,500人が直接直売所に持ち込み、自由に陳列・値決めを行っています。販売手数料は生鮮食品が売上の15%、加工品が18%となっており、運営経費に充てられています。また、野菜や果物のその日の残りは基本的に生産者の方に持って帰ってもらうことになっているのですが、『さいさいきて屋』で引き取って食堂の食材などにも活用されているのだそうです。

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「農強」ですか…。いいですねぇ~。

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何故、ここにロンドンバスが…。『さいさいきて屋』には私と同じバス好きの方がいらっしゃるのでしょうか。

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さすがに地元。「がんばれ!! FC今治」の幟があちこちにはためいています。ちなみに、株式会社ハレックスはFC今治のスポンサーです! 今年のFC今治はJリーグ(J3)昇格を目指してJFLで戦っていますが、やっと本来の調子が出始めたようです。大いに期待しています。前述のようにFC今治のチームエンブレムも「折敷に縮み三文字」。すなわち、越智氏族の家紋です。



【矢矧神社】
次に訪れたのは、今治市朝倉(旧越智郡朝倉村)に鎮座する矢矧神社です。主祭神は乎知命の子供である天狭貫王(あめのさぬきのおう)。社伝によると、「二名の州の主で越智氏の祖、小千の天狭貫王の廟として祀られ、往古には朝倉宋廟本社と号していた」…と記されているのだそうです。二名の州とは四国のこと。『古事記』の中で「国産み」と言って、イザナミとイザナギが日本の島を次々と産んでいく話があります。最初に産んだのが淡道之穂之狭別島といって淡路島、そして次に伊予之二名島といって四国が誕生します。「二名の州の主で越智氏の祖、小千(おち)の天狭貫王」とあるのは、乎知命の子供である天狭貫王の時代には、越智氏族は四国全土にその勢力圏を伸ばしていたとも読み取れます。天狭貫王の読みは“あめのさぬきのおう”、“狭貫(さぬき)”とは讃岐(現在の香川県)と同じ読みですので、なにか関係があるのでしょうか。ちなみに、その当時の狭貫(讃岐)の国とは、西讃地方(香川県の西部地域:観音寺市、三豊市)から中讃(同じく中部地域:善通寺市、丸亀市、坂出市、仲多度郡、綾歌郡)までで、高松市をはじめとした東讃地域は含まれていなかったようです。

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前述のように、矢矧神社は古くは朝倉宋廟(そうびょう)本社と号し、近隣の越智氏族が祖先(主祭神)を祀るところでした。斉明天皇(第37代天皇)が朝倉へ御幸なさった時(西暦661年?)にこの朝倉宋廟を御参拝なされ、その時に「朝倉宮」と改めたのだそうです。弘仁11年(820年)に八幡宮を御勧請、その後、清和天皇(第56代天皇)の御代(858年~876年)に朝倉宋廟八幡宮と改められたのだそうです。

以前はこの近隣の八幡ヶ窪に鎮座し、社地八丁四方を有し(本郷・宮の窪・立丁・新田等の地名が残っています)、高縄山城主河野公の祈願所ともなり祭礼も盛大に行われていたのですが、天正10年(1582年)、長宗我部元親による四国平定の戦乱の被害により古文書等が全て損失、社殿も荒廃して維持が困難になり、慶長18年(1613年)、現在の場所に奉移されました。延宝5年(1677年)、矢矧神社と神社名称を改め、今治藩主・久松家の祈願所となりました。もともとの八幡ヶ窪の神社跡地は元禄6年(1693年)に田地となったのだそうです。

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矢矧神社には斉明天皇(第37代天皇)が朝倉へ行幸なさった時に御参拝なされ、その時に「朝倉宮」と名を改めたというふうに書きましたが、ここ今治市朝倉(旧越智郡朝倉村)はその斉明天皇とそのお子様である天智天皇(第38代天皇)に関する様々な伝承が残っているところです。そして、私・越智正昭の本籍地(先祖代々の地)でもあります。

日本全国の各市町村には、たいていその土地の歴史や伝承を集めた「〇〇誌」という文献が作られていて、調べてみると、旧越智郡朝倉村にも昭和61年(1986年)に上巻と下巻の2巻からなる『朝倉村誌』というものが刊行されています。さらには、周辺の12市町村が広域合併する直前の平成16年(2004年)には村制施行48周年記念事業として『朝倉村誌 続編』も刊行されています。特に、昭和61年に刊行された『朝倉村誌 上巻/下巻』の「上巻」、こちらのほうには第二章「朝倉の歴史」と題して縄文時代まで遡って朝倉の地の歴史が書かれているので、非常に興味深い内容になっています。その第二章「朝倉の歴史」の第三節が「飛鳥・奈良時代」(61ページ~)に関する記録で、その二項(189ページ~)に「斉明天皇と伊予国小千郡朝倉郷」という記述があります。これから類推すると、確かに斉明天皇と朝倉の地には深い関連があるようです。

愛媛県立図書館 朝倉村誌・上巻 目次

で、その次の三項(220ページ~)は「白鳳十三年の大地震」という表題になっています。「白鳳十三年の大地震」とは白鳳時代(飛鳥時代後期)の天武天皇13年(西暦684年)に起きた、南海トラフ沿いを震源として発生した超巨大地震と推定される地震のことです。日本書紀に記述されていることに加えて、様々な甚大な被害をもたらしたことが全国各地の伝承として残っていて、南海トラフ巨大地震と推定される地震の確実な記録としては、日本最古の地震と言われています。現代では、「白鳳十三年の大地震」ではなく、通常、『白鳳大地震』と呼ばれています。今治市朝倉にもその『白鳳大地震』の爪痕がしっかりと残っているわけです。

『朝倉村誌』を調べてみると、この旧朝倉村、今でこそ人口5千人ほどの過疎の小さな寂れた、“ド”という接頭語が付くくらいの(失礼!)田舎の“村”なのですが、もしかしたら1300年以上も昔の飛鳥・奈良時代には、この朝倉の地がこのあたり(今の愛媛県)一帯の中心地だったようなんです。『朝倉村誌』で注目すべきは、第二章「朝倉の歴史」の中で、縄文時代から飛鳥・奈良時代にかけての記述の割合があまりにも多いことです。目次を見ていただくとお分かりいただけるように、80ページから258ページまでの180ページ弱がこの時代の記述に割かれています。明治維新までの第二章全体で460ページほどのボリュームなので、その割合の大きさは異常とも思えるほどです。特に古墳時代から白鳳大地震までの間の記述が多いことが、この『朝倉村誌』の特徴です。まんぞくに記録も残っていないような1300年以上も昔のこの時代の記述がこれほど多いということは、それだけその時代に朝倉の地は栄えていて(なので、記録や伝承が数多く残っているわけです)、そして白鳳大地震によって一気にそれが衰退してしまったと考えるのが適切かと思われます。

実際、この周辺には野々瀬古墳群、多伎の宮古墳群、牛神古墳など、5世紀~7世紀の間に造られたと推定される古墳が50基以上現存しています。中でも、野々瀬古墳群の1号墳(七間塚)が有名です。野々瀬古墳群は横穴式石室を中心とした古墳時代後期の古墳群で、中には数基石室に入室できる古墳もあります。特に1号墳(七間塚)は愛媛県下最大の石室を持つ古墳です。今治市朝倉には今治市営の『朝倉ふるさと美術古墳館』があり、それら朝倉の遺跡と古墳群から出土した資料の収蔵と展示をしています。主な展示資料としては、銅鏡、銅剣、木簡、土器、装飾品等があり、ここ朝倉が5世紀~7世紀にかけてかなり栄えたところであったことが分かります。

今治市朝倉ふるさと美術古墳館HP

また、平安時代中期に作られた辞書『和名抄』に、この地のことを“朝倉”と称するという記述が見られるとかで、この地は古くから「朝倉」と呼ばれていたようです。この「朝倉」という地名の由来については諸説あるようですが、第37代天皇の斉明天皇が大きく関わっているようなのです。斉明天皇自らが陣頭指揮して窮地に立っていた朝鮮半島の百済の国に援軍を派遣しようとしたのですが、その際に、どういうわけかこの愛媛県の朝倉の地に約3ヶ月間滞在され(おそらく兵糧の確保のため)、これにちなんで「朝倉」と命名されたとされているようなのです。この斉明天皇にちなんだ地名には何故か「朝倉」という名称が多いとのことです。斉明天皇は、通説では愛媛県の朝倉に滞在した後、九州の筑紫(今の福岡県)の国にまで兵を進め、そこで急逝されたとされているのですが、その地もどういうわけか朝倉(現在の福岡県朝倉市)という名称なんです。斉明天皇が立寄られたところは、古くから朝倉郷と呼ばれたところが多いのだとか。斉明天皇がご滞在されている時に、どこも斉明天皇のご希望の建築様式により木造の御殿を建てたようなのですが、その建築様式というのが“校倉(あぜくら)づくり”であったことから、その「あぜくら」が「あさくら」に転訛したという説が有力なようです。

で、斉明天皇は、「大化の改新」を起こした天智天皇(中大兄皇子:なかのおおえのおうじ )と、その弟で「壬申の乱」で有名な天武天皇(大海人皇子:おおあまのおうじ)という日本の古代史を学ぶ上で超が付くほど有名な2人の天皇の“母親”なんです。夫君であられる第34代の舒明天皇が崩御なさった後、跡継ぎとなる皇子がいろいろな“大人の事情”があったようで定まらなかったので、仕方なく49歳の時に、ワンポイントリリーフのような感じで第35代の皇極天皇として、推古天皇(最初の女帝)から一代おいて即位(642年)して女帝となられます。

しかし、息子である中大兄皇子が大化の改新(645年)を起こした責任をとったのか、大化の改新があった年に弟である孝徳天皇にすぐに譲位したのですが、その孝徳天皇が10年後に崩御し、62歳にして再び即位し(655年) 、第37代の斉明天皇となられた方です。同じ人物が二度天皇に即位することを“重祚(ちょうそ)”と言いますが、現在までに重祚を行った天皇はお2人のみで、この皇極天皇が斉明天皇として、また孝謙天皇(第46第天皇)が称徳天皇(第48第天皇)としてそれぞれ重祚した2例だけで、そのどちらも女帝です。

この斉明天皇、在位中の実権は中大兄皇子(後の天智天皇)にあったとされているのですが、女帝に関わらずなかなか精力的と言うか、男気があると言うか、肝っ玉母さんと言うか、好戦的な方だったようで、日本書紀によれば、しばしば大規模な土木工事を行ったために、民の労役の負担が非常に大きかったと言われています。また、阿倍比羅夫を派遣して北方民族の蝦夷を討たせたことでも知られていますし、唐と新羅の連合軍に滅ぼされかけた朝鮮半島の百済国支援のために、自ら兵を率いて出兵。通説では、その途中に、筑紫(今の福岡県)の国の朝倉の地で急逝なさったとされています。在位6年、崩御なさったのは西暦661年のことです。

西暦661年と言えば、7世紀中期。この朝倉一帯が5世紀~7世紀にかけてかなり栄えたところであったと推定されるということは前述の通りですが、ちょうどその頃と一致します。その後、朝倉は突然歴史の表舞台から忽然と消え去ってしまうのですが、それには西暦684年に発生した白鳳大地震が大きく関係していると、私は推定しています(白鳳大地震により壊滅的な被害を受けたことは、「朝倉村史」にその記述があります)。

このあたりのことは『おちゃめ日記』の2014年9月1日に「私の本籍地(愛媛県今治市朝倉)の謎」と題して書いておりますので、そちらも併せてお読みください。

私の本籍地(愛媛県今治市朝倉)の謎



……(その5)に続きます。