2017/06/19

全国の越智さん大集合!(その5)

【伏原八幡宮】
次に向かったのは、その斉明天皇と天智天皇に関する伝承が残る伏原八幡宮(伏原正八幡神社)です。この伏原八幡宮は斉明天皇の御在所であったとか、天智天皇の本丸殿であったという伝承が残るところで、神社としては、建久3年(1192年)、伊予国の守護職だった河野通俊(越智氏族)が主祭神である誉田別命(ほんだわけのみこと:応神天皇)を京都の石清水八幡宮(別名:男山八幡宮)より勧請したことに始まります。この伏原八幡宮は父の生家に近く、夏休みに家族で帰省した時など、私は従兄弟達と一緒にこの神社にセミ捕りに来たものです。そのセミ捕りをした神社が、斉明天皇や天智天皇といった神々しい方々に所縁のある場所であるということを最近知りました。

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また、この伏原八幡宮を中心とした一帯は「才明(さいみょう:斉明から転じたものと思われます)」と呼ばれる集落になっています。さらに、この近くには畏れ多くも「天皇橋」という橋まであります。

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おや? 父の名前が! 知らなんだ…。



【斉明天皇陵】
次に訪れたのは、同じく今治市朝倉にある斉明天皇陵(墓)と伝えられている塚です。前述のように、斉明天皇は第37代の天皇で、女帝。日本の古代史最大の対外戦争である白村江の戦い(西暦663年)に参戦することを決めた時の天皇。大化改新で有名な天智天皇(中大兄皇子)やその天智天皇と壬申の乱で争った天武天皇の母君です。斉明天皇は白村江の戦いに出陣した折、朝倉宮で崩御なされた(享年68歳)とされていて、その朝倉宮は九州福岡県の太宰府の隣にある朝倉市にあったと一般的にはされています。しかし、ここ愛媛県の今治市にも朝倉というところがあり(旧・越智郡朝倉村)、ここにも斉明天皇や天智天皇に関する様々な伝承が残されています。しかも、そこにはその名もズバリ“才明(斉明)”という集落があったり、畏れ多くも“天皇橋”という橋が架かっていたりもします。

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そして、奈良県の明日香(奈良県高市郡高取町)にある斉明天皇の正式な墓陵の名称は『越智崗上陵(おちのおかのうえのみささぎ)』。“越智”という字が入っています。これは宮内庁の公式HPにも載っています。斉明天皇と越智氏によっぽど深い関係がなければ、墓陵に“越智”の名称が付けられる筈がありません。

宮内庁HP 天皇陵

そして、この今治市朝倉にも斉明天皇の墓と伝えられている塚が残されています。しかも、この今治市朝倉の斉明天皇陵と伝えられている塚は、まさに文字どおりの「越智の岡の上のお墓」そのものです。これはあくまでも私の想像ですが、斉明天皇が崩御なさったのは、一般的に言われている筑紫の国(現在の福岡県)にあった朝倉宮ではなく、ここ愛媛県今治市にあった朝倉宮(その3で紹介した矢矧神社)。そしてそのご遺体はこの今治市朝倉の斉明天皇陵に埋葬され、遺髪等が奈良県明日香にある正規の墓陵『越智崗上陵』に納められているのではないでしょうか。当時は土葬が基本で、冷凍技術などもなかったので、ご遺体そのものを長距離輸送するのは不可能だったと思われますからね。

一面に広がる田園地帯の中にポコっとある低い小山(岡)のてっぺん付近に立つ二本の石塔。とても天皇の墓陵とは見えないのですが、それがかえってこの土地に伝わる伝承と相まって真実感があるように感じます。

また、奈良県明日香にある斉明天皇陵『越智崗上陵(小市岡上陵)』には、斉明天皇だけが祀られているのではなく、斉明天皇の娘である間人皇女(はしひとのひめみこ)も合葬されています。日本に現存する最古の正史である『日本書紀』の第27巻には次のような記述があります。「天智6年春2月27日、斉明天皇が間人皇女と小市岡上陵に合葬された。この日、皇孫の大田皇女が陵前の墓に葬られた」。この今治市朝倉にある斉明天皇陵と伝えられている塚にも何故か2本の石塔が建っています。日本書紀の記述通りだとすると、おそらく高いほうの1本が斉明天皇、低いほうが娘の間人皇女ということになります。このあたり、奇妙に一致します。この間人皇女は斉明天皇の娘で、斉明天皇の弟である孝徳天皇(第36代天皇)の妃です。

さらに『日本書紀』の第27巻には「皇孫の大田皇女が陵前の墓に葬られた」と書かれているので、もしかしたらこの近くに大田皇女(おおたのひめみこ)が埋葬された塚も残っているかもしれません。この大田皇女は天智天皇の皇女で、その弟・天武天皇の妃、そして斉明天皇の孫にあたります。この大田皇女、斉明天皇の息子である天智天皇の娘ですが、母親(天智天皇の妃)は蘇我倉山田石川麻呂の娘で遠智娘(おちのいらつめ:越智娘と書かれることもあります)といいます。ここにも“おち”が登場してきます。この大田皇女は日本古代史史上最大の対外戦争である白村江の戦いに向かう船団に斉明天皇とともに同乗し、船団がこの朝倉に着く前に、天武天皇(当時は大海人皇子)との娘、大来皇女(おおくのひめみこ)を出産します。

同じく遠智娘の娘で、大田皇女の妹が、鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ)。この鸕野讚良皇女も天武天皇(第40代天皇)の妃となり、天武天皇が崩御なさった後、女帝として持統天皇(第41代天皇)に即位なさいます。天武天皇は、その強力な政治意思を執行していくために、官僚制度とそれを規定する諸法令を整備することを目指しました。この官僚(官人)と法律を重視する支配方針のことを律令制といい、亡き夫(天武天皇)の跡を継いで、律令制を完成させたのが持統天皇です。

持統天皇は日本史上、最初の体系的な律令法と考えられている『飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)』を制定したことで知られています。制定は持統3年(西暦694年)。この飛鳥浄御原令は令22巻。この『飛鳥浄御原令』の中で『日本』という国号と『天皇』という王号が正式に定められ、現代に続く日本の統治機構や宗教、歴史、文化の原型が作られたとされています。すなわち、法令の上で『日本』という国号、『天皇』という地位・称号が公式に制定されたのはこの西暦689年の『飛鳥浄御原令』であることから、日本という国号、天皇という王号の“正式な始まり”は持統天皇によって『飛鳥浄御原令』が施行された“西暦689年”と定義することもできようかと思います。その中に(その2)で触れた氏姓制度が含まれています。すなわち、氏(うじ)、姓(かばね)の制度を作ったのは遠智娘(おちのいらつめ)の娘である持統天皇で、これにより乎致命を祖とする血縁集団に「越智氏族」という正式な名称が付くことになります。言ってみれば、乎致命(おちのみこと)が越智氏族の祖父で、遠智娘(おちのいらつめ)が祖母ということもできようかと思います。

さらに飛鳥浄御原令の制定と並んで持統天皇の業績の二本柱の1つが藤原京の造営です。藤原京は、日本の歴史上で最初の条坊制を布いて造営された本格的な唐風の都城都市で、完成は持統8年(694年)。そこから和銅3年(710年)に平城京に遷都されるまでの16年間、日本の首都とされました。『日本書紀』には、この藤原京が造営される10年前の白鳳13年(684年)、南海トラフが動いたとされる巨大地震「白鳳大地震」が発生し、西日本一帯が壊滅的とも言える甚大な被害を受けたという記述があります。また、愛媛県立図書館に所蔵されている朝倉村史の上巻第2章「三 白鳳十三年の大地震」の項にも、この白鳳大地震に関する次のような記述があります。

「朝倉は伊予の国のあらゆる中心地であり、先進地として朝倉郷は港として、また近畿と九州を結ぶ航路の中間碇泊地として、盛んに利用された。港としての施設も整い、また、寺社、條里制など、最も早く設けられ、国造家の越智郡司として、居館を定めていた。この朝倉は、天武天皇の御代に起こった、たびたびの大干抜・大洪水によって、水が涸れて、作物が皆無となったり、水が溢れて氾濫したり、山津波による土砂の流出によって、河川の流れを変え、田畑は流失し、屯田川本流をはじめ総社川・浅川などから押し出してくる土砂によって、遠浅であった海は、徐々に陸地化し、府中平野が出現した。天武天皇13年、白鳳13年10月14日午後10時頃に発生した大地震が、朝倉郷を決定的に破滅してしまった。各郷にある官舎は潰れて、朝倉郷行司原の木の丸殿は倒壊、浄禄寺の滅失、歓喜寺も流失し、住職であった輝月妙鏡律尼も同年遷化している。今は僅かに過去の寺塔のあとを残すのみとなっている。古谷にあったと思われる越智郡市居館も倒壊したため、最終的にこれを捨て、桜井郷に近く、国府に隣接する拝志郷上神宮に転居したのである。結果、朝倉港は、陸化して港湾としての役目を失い、新しい府中平野の越智郡桜井港にとって代わられた」(私が短縮し、編纂)

時間的経過から考えても、藤原京の造営は間違いなくこの白鳳大地震からの復興を目指したものであり、日本の古代史の謎、中でも現在の今治市朝倉の古代史の謎を読み解くにあたっては、この白鳳大地震は極めて重要な鍵を握っていると私は考えています。もちろん、この朝倉を中心に現在の愛媛県今治市周辺で繁栄を誇っていた古代血縁集団「越智氏族」の歴史にも多大な影響を与えたことは、想像に難くありません。

また、持統天皇は日本最古の歴史書『日本書紀』の編纂を命じ(完成はお亡くなりになった後の西暦720年)、さらに皇祖神・天照大神を祀る伊勢神宮を尊崇した女帝としても知られています。『日本書紀』は日本最古の“正史”。正史とは主に国家によって公式に編纂された王朝の歴史書のことで、その国の政府が正統と認め、対外的に主張し、また自国の民を教育する自国の政治の流れのことです。この日本最古の“正史”の編纂を命じた持統天皇の祖母が斉明天皇(墓陵の名称が越智崗上陵)、母が遠智娘(おちのいらつめ)。こりゃあ、越智氏族の末裔としては日本の古代史に興味を持たざるをえませんよね。

さらに、伊勢神宮。伊勢神宮において原則として20年ごとに行われる有名な「式年遷宮」ですが、記録によれば、この伊勢神宮の式年遷宮は、天武天皇が定め、持統天皇4年(西暦690年)に第1回が行われたとされています(もしかしたら、この時に持統天皇によって現在のような大規模な神宮が建立されたのかもしれません)。その後、戦国時代の120年以上に及ぶ中断期間や幾度かの延期などはあったものの、平成25年(2013年)の第62回式年遷宮まで、およそ1300年間に渡って式年遷宮は行われています。このように皇祖神を天照大神と定め、そこを祀る伊勢神宮を尊崇したのも持統天皇で、何度も書くようにその持統天皇の祖母が斉明天皇で、母が遠智娘……。これらはどのように読み解けばいいのでしょうね。

このように、どうも舒明天皇(第34代天皇)から持統天皇(第41代天皇)にかけての時代、すなわち、7世紀の中盤から終わりにかけての時代に越智氏族は日本の歴史に大きく関係していたようで、21世紀の現代に生きる越智氏族の一員としては大いに好奇心がくすぐられます。

余談ですが、日本の歴史の中で持統天皇がスポットライトを浴びることは少ないように思います。現代に繋がるこれだけの大きな業績を幾つも残された偉人中の偉人とも言える方なのに、どういうわけか扱いがあまりにも小さい。少なくとも西暦645年の「大化の改新」よりも、律令制が始まった西暦694年の『飛鳥浄御原令』の制定のほうが、よっぽど日本の国の歴史にとっては重要なことだと思うのですがねぇ~。まぁ~、『飛鳥浄御原令』が存在していただろうと推定されるもので、現存していない法典だからだ…と、私は勝手に推測していますが…。

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太ノ原集落の向こうに見える山が朝倉のシンボル、笠松山です。約1400年昔、ここが伊予の国のあらゆる中心地であり、先進地だったとは、とても思えません。

今治市朝倉に斉明天皇の墓とされる墓陵が残されているということは、私は3年ほど前に我が家の菩提寺である朝倉の無量寺の住職との何気ない会話の中で初めて知り、それがどこにあるのか…と、私は最初に旅程表を見たときから楽しみにしていました。それがまさかこんなところにあろうとは…!(◎_◎;)

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このあたりの集落の字名は“太ノ原(たいのはら)”。その斉明天皇陵とされているところから北の方角を見ると、すぐ墓陵の下に見える家は……、越智分家。私の父の生家で、今は私の従兄が継いでいる家(父はここの四男)ではないですか!(◎_◎;) これにはもうビックリです。正確には、現在の家は私の従兄が田圃を埋めて建て直したもので、元々の家、すなわち私の本籍地はそこから西へ約50メートルのところにあります。また、そのすぐ西側の小谷集落に越智本家があります。越智分家は私の祖父の代に越智本家からこの太ノ原の土地(宅地・田畑)を分けて貰い、分家したものです。と言うことは、もしかすると、我が家は斉明天皇がお亡くなりになってから1400年近くも斉明天皇の墓をただ黙々と守ってきた一族の末裔ということになります。ちなみに、この辺りの集落は今は太ノ原(たいのはら)と呼ばれていますが、かつては皇ノ原(こうのはら)と呼ばれていました。

帰宅後、さっそく、太ノ原の従兄に電話をして聞いてみたところ、この斉明天皇陵のある岡は地元の人の間では“防ノ岡(ぼうのおか)”と呼ばれ、この墓のことは昔から“斉明(さいみょう)さん”と呼ばれているのだそうです。また、朝倉には斉明天皇がお召しになられたお衣装を埋葬したと伝承されている塚もあるのだそうです。これにはビックリです。

で、その斉明天皇陵のところで摩訶不思議というか、なにか人知を超えた不思議な力が働いたとしか思えない奇跡のような現象が起きました。その奇跡のような現象は、私達が今治市朝倉の斉明天皇陵に着いたちょうどその時に起こりました。到着してまず代表の大橋さんがバスを降りるためドアを開けようとしたちょうどその時に突然凄まじい突風が渦を巻くようにして吹き、大橋さんは悲鳴をあげ、身の危険を感じて降りるのを断念。観光バスも少し揺れたほどの凄まじい突風でした。この日は朝からよく晴れていたのですが、その直前あたりから西の空が急に暗くなってきました。この日はよく晴れて、4月中旬というのに6月中旬並みまで気温が上昇した暑い1日でした。こういう日は大気の状態が不安定になって、積乱雲が発生しやすい状態になるということは予め分かっていたので、私は昼過ぎあたりから、時々、スマホで雨雲レーダーの様子を確認していました。この時も積乱雲と思われる雨雲が接近して弱い雨域が今治市周辺にも迫ってきていることは確認できていました。ですが、まさかこういう竜巻のような身の危険を感じるほどの凄まじい突風に遭遇しようとは思ってもみませんでした。

で、その凄まじい突風はものの30秒ほどですぐに通り過ぎ、その後には再び眩しい太陽が顔を覗かせて、何事もなかったような穏やかな状態に戻りました。突然発生した竜巻にも驚きましたが、実は私はすぐに晴れ渡ったこっちのほうに、より驚いてしまいました。雨雲レーダーではこの時、この辺り一帯には厚い雨雲(積乱雲)がかかり、今治市内中心部を含め本格的な雨に見舞われていた筈なのですが、この朝倉の斉明天皇陵の周囲だけがまるで天空から光が射しているかのように眩しいまでに晴れていたのです。それまで傘の心配をしていたのが嘘のように…。これはちょっとありえないことです。私は“レジェンド”と呼ばれるくらいの“晴れ男”なのですが、さすがにここまでとは…。

私はバリバリ理系のITエンジニアで、なんでも論理的でないと気が済まないようなところがあるのですが、正直、この時は論理を遥かに超越した何か(超常現象か?)が起こった気がして、しばらく(@_@)???状態でした。これはここに眠っておられる斉明天皇からのなんらかの“お告げ”があったとしか言いようがありませんわね。もちろん斉明天皇からの“お告げ”は私に向けられたもので、「正昭よ、やっとここに来たか。自分に与えられたミッションに目覚めよ!」というものなのかもしれません。自分に与えられたミッションというものがなんであるかは皆目見当がつきませんが、5月のGWに埼玉から2人の孫を含む家族全員で愛媛に帰省する予定なので、取り敢えずその際には斉明天皇陵の周囲の草むしりだけはさせていただこうと思っています。



【無量寺】
斉明天皇陵の次に向かったのは同じ朝倉の水ノ上(みずのかみ)集落にある龍門山無量寺です。ここは前述のように我が家の菩提寺です。無量寺は斉明天皇がこの朝倉の地に僥倖なさった時にお伴の僧侶として随伴した無量上人により、現在のところよりもう少し奥に入った浅地の車無寺 (くるまんじ)というところ開創されました。本尊の阿弥陀如来像は秘仏で、聖徳太子による一刀三礼の御作と伝えられています。開創当時は三論宗で、後に真言宗醍醐派に改め今に至っています。

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無量上人の後を継いだ第二世の宥量上人は伊予の領主であった越智玉輿公の御子さんで(すなわち、河野氏の祖とされる河野玉澄(越智玉澄)とは兄弟)で、その縁により、 以来この無量寺は河野家の祈願寺と務めていました。天正年間(1573年〜1593年)、当時の住職・宥実上人はこのあたりを治めていた龍門山城主・武田信勝公の外護を得て、寺を現在の場所に移転しました。また、宥実上人は天正10年(1582年)、長宗我部元親による四国平定の戦乱により龍門山城が落城し、城主・武田信勝公が討ち死にしたおり、その子、富若丸(当時16歳)を無量寺に隠潜させ、約10年間養育し、ついに天領の大庄屋職に就かせました。この庄屋の代々の記録は『無量寺文書』、または『武田家文書』とも呼ばれ、朝倉の歴史の謎を紐解く貴重な古文書として、現在もこの無量寺に残されています。

ちなみに、この『無量寺文書』には斉明天皇の朝倉僥倖の記述とともに、斉明天皇の夫君であられた舒明天皇(第34代天皇)の僥倖に関する説話も記録されているのだそうです。また、「長坂天皇」「長沢天皇」「朝倉天皇」「牛頭天皇」など一般には知られていない不思議な天皇のお名前も出現するのだそうです。

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余談ですが、武田信玄を輩出し、戦国最強の武族の1つとして知られる「武田家」は本拠地を甲斐国(山梨県)とする甲斐武田家が有名ですが、あまり知られていませんが、愛媛県東予地方にもその分流として伊予武田家がありました。伊予武田家が本拠としたのが今治市・西条市・新居浜市が一望出来る今治市朝倉の龍門山(標高439メートル)の山頂にあった「龍門山城」でした。無量寺の正式名称は龍門山無量寺。上記のように伊予武田家と縁の深い寺院でした。また、朝倉には武田家の末裔や家臣が多く住み着いていたことから、武田姓の家が今も多くあります。また、武田家が入城する前の龍門山城城主が田窪家(越智氏族)。私の伯母の嫁ぎ先を含め、田窪姓の家もこのあたりには幾つかあります。

また、 “天領”という文字が出ましたが、太ノ原の従兄の話によると、伏原八幡宮周辺の才明(斉明)集落と無量寺のある水ノ上集落は、かつては江戸幕府の直轄地である「天領」だったのだそうです。この今治市朝倉というところの謎はもっとあるのです。江戸時代初期、この朝倉には、朝倉上(かみ)、朝倉中(なか)、朝倉下(しも)、古谷(こや)の4ヵ所の村があったそうで、それが江戸時代後期には、さらに朝倉郷7ヵ村に分かれていたのだそうです。しかも、江戸時代後期のその7ヵ村のうち、古谷、山口、朝倉上、朝倉南、朝倉北は今治藩に属し、朝倉上之村は松山藩に属し、さらに朝倉下は江戸幕府直轄領の天領であるなど、支配関係が入り組んでいて、またその境界も複雑に入り組んでいたのだそうです。日本中探してもこのような例は極めて珍しいことです。この田舎に江戸幕府の直轄地である「天領」があったとは…。よっぽど重要なところだったのでしょう。

そうそう、無量寺は“枝垂桜(しだれざくら)”で有名な寺院です。3月末より4月初めにかけて華やかに花を咲かせます。4月も中旬になっていたので、花が残っているかどうか気になったのですが、かろうじて残っていました。この枝垂桜は無量寺32代住職の宥量上人が、豊臣秀吉による「醍醐の花見」で有名な京都の真言宗醍醐派総本山醍醐寺より頂いた桜です。 かなりの老木で、以前見た時よりも花に(木に)勢いがないように感じるのは、気掛かりなところです。

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【休暇村 瀬戸内東予】
この日は愛媛県が誇る名峰石鎚山と瀬戸内海の多島美が眺められる「しまなみ」の温泉宿『休暇村 瀬戸内東予』に宿泊しました。この名峰石鎚山と瀬戸内海の多島美の風景は、時空を超えて、昔も今も変わりません。越智氏族の祖である乎致命も、斉明天皇も天智天皇も現代に住む私達と同じく、この風景を眺めて、心を癒されたのだと思います。愛媛県が世界に誇れる素晴らしい風景だと私は思っています。

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18時半から始まった参加者の懇親会はあまりに話が弾んで、ラウンジに席を移しての2次会は夜遅くまで続き、気がついたら23時を回っていました。今回のツアーの企画者であるtsunaguプロジェクトの大橋理事長からは、ご自身の長年の調査研究による越智氏族の知られざる歴史について大変に興味深いお話を幾つも聞かせていただきましたし、参加した皆さんからもご自分の家に代々伝わっている祖先に関する伝承なども聞かせていただきました。この日初めてお会いした方々ばかりなのに、こんなに話が弾むのも、同じ祖先を持つ者同士ならではのことでしょう。私もこれまでも旅行会社が企画したいろいろな団体ツアーに参加していますが、こんなに参加者全体が一体感に包まれたツアーは初めてのことです。このツアーを企画していただいたtsunaguプロジェクトの大橋理事長と宮根事務局長に感謝いたします。



……(その6)に続きます。

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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