2017/06/23

全国の越智さん大集合!(その7)

【しまなみ海道:大三島】
大三島(おおみしま)は、面積64.54平方km。愛媛県の最北に位置し、愛媛県に属する島の中では最大の島です。古くから「神の島」として知られ、島内には日本国の総鎮守である大山祇神社があります。大三島は呼び名の最後に“島”の字が付いているので、“大三の島”と考えられがちですが、地理上の島に由来するわけではなく、各地にある「三島」と由来を同じで、かつて、三島神社の総本社である大山祇神社のことを「大三島」と呼んだことに由来します。それが後に島全体を指す様になったというわけです。

大三島は島の象徴である大山祇神社をはじめ、国の名勝として大三島全体が日本遺産(Japan Heritage)『“日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島 -よみがえる村上海賊“Murakami KAIZOKU”の記憶-』の重要な構成要素になっています。国の名勝と書きましたが、このあたりは瀬戸内海国立公園の中心地、芸予諸島の多島美を象徴する景観が残っているところです。

平成の大合併により今では今治市の一部となっていますが、それまでは島の西半分が越智郡大三島町、東半分が越智郡上浦町の2町に行政区分が分かれていました。ふつう周囲が海に囲まれた島と言えば漁業が盛んと思われがちですが、「神の島」として魚類を採ることは長らく禁忌とされていたことから、漁業はさほど盛んではありません。

余談ですが、大三島にも越智姓の家は多いのですが、越智姓とは別に、旧越智郡上浦町には曽我(蘇我)姓、旧越智郡大三島町の宮浦周辺には藤原姓の家が異常に多いのだとか。蘇我氏は『古事記』や『日本書紀』に出てくる神功皇后の三韓征伐などで活躍した武内宿禰(たけのうちのすくね)を祖とする氏族で、古墳時代から飛鳥時代にかけて(6世紀~7世紀前半)に勢力を持ち、代々大臣(おおおみ)を出していた有力古代豪族です。また、藤原氏は大化の改新の中心人物として有名な藤原鎌足(中臣鎌足)を祖とする氏族で、飛鳥時代から近世に至るまで多くの公家を輩出した有力氏族です。越智氏、蘇我(曽我)氏、藤原氏…、有力古代氏族の氏を苗字に持つ家が異様に多いこの大三島は、日本の古代史と深く関係のある興味深いところのようです。

【横殿宮跡】 大三島で最初に訪れたのは、『横殿宮(横殿社:よこどののみや)』跡です。ここは大山祇神社が元々あった場所だとされています。現在は小さな祠が1つ建っているだけで、宮浦にある荘厳で立派な現在の大山祇神社と比べると、寂しい限りのものになっています。

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大山祇神社に三島明神が祀られたのは、現在の大山祇神社の境内中央に聳える楠が植えられたとされる2600年前。一般的には越智氏族の祖である乎致命(おちのみこと)が、現在の宮浦の大山祇神社の地に神を祀ったことが始まりとされます。しかし、大山祇神社に伝えられる縁起では、大山祇神社はもともと現在の宮浦の反対側、大三島の南にある現在の上浦町瀬戸のこの場所にあったとされています。

大山祇神社に伝わる縁起によると、推古天皇2年(西暦594年)、推古天皇(第33代天皇)の御代に三島迫戸浜(せとのはま:現在の上浦町瀬戸)に大山祇神社が建てられ、その神社を「横殿宮」と呼んだと書かれています。そして更にこれより5年前の崇峻天皇2年(西暦589年)、崇峻天皇(第32代天皇:すしゅんてんのう)の神託により、小千益躬(おちのますみ)が鼻刳(鼻栗:はなぐり)瀬戸に面した三島逈戸浜の御神木に鏡をかけ、大山祇神を祀ったことがそもそもの始まりとされています。

小千益躬(おちのますみ)とは、越智氏族の祖とされる乎致命から数えて15代目。推古天皇の御代に、靺鞨(まつかつ:現在のロシア連邦沿海地方?)国より“鉄人”が約8千の兵を率いて攻めてきたのを、播磨国蟹坂(かにがさか:現在の兵庫県明石市)で討ちとったといわれる英雄です。それまで越智氏は、ただの伊豫国(現在の愛媛県)の一地方豪族に過ぎず、その名前が伊豫国以外の記録で出てくることはありませんでした。しかし、この時突然その名前が表舞台へと姿を現します。そして、この横殿宮に大山祇神社が建てられることになる原点もまた、この小千益躬です。

大山祇神社を現在の宮浦の地へと遷宮させたのはその小千益躬から7代後の越智玉澄。ちなみに、小千氏はこの越智玉澄の父の玉興の代から越智氏に表記が変わったとされています。また、越智玉澄は河野氏の祖とされています。この大山祇神社の遷宮ですが、大山祇神社に伝わる『三島宮御鎮座本縁』によると、大宝元年(701年)、現在の宮浦の地への遷宮に向け造営が始まり、霊亀2年(716年)、16年の年月をかけて造営が終了。養老3年(719年)4月22日に遷宮の儀が行われたと書かれているそうです。斉明天皇(第37代天皇)が今治市朝倉にあった朝倉宮に行幸されてから40年~60年後のことです。

この宮浦への大山祇神社の遷宮がいったい何を目的として行われたものなのか…私には皆目見当がつきませんが、前述のように、現在、元の横殿社があったとされる旧上浦町瀬戸周辺には古代氏族に繋がる“曽我”という苗字の家が異様に多く、いっぽう、現在の大山祇神社がある旧大三島町宮浦周辺には同じく古代氏族に繋がる“藤原”という苗字の家が異様に多いことに、遷宮の謎の解明に向けてのヒントが隠されているようにも思えます。ちなみに、藤原氏は大化の改新の中心人物として有名な藤原鎌足(中臣鎌足)を祖とする氏族ということを書きましたが、大化の改新のもう1人の中心人物、中大兄皇子(後の天智天皇)は今治市朝倉と関係が深い斉明天皇(第37代天皇)の子供で、その今治市朝倉には天智天皇に関する伝承も数多く残されています。藤原鎌足(中臣鎌足)は大化の改新後も中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍し、藤原氏族繁栄の礎を築いた人物です。これもなにか関係があるのでしょうか?

【みたらしの水】
次に訪れたのは、横殿宮から歩いてすぐのところにある「みたらしの水」です。“みたらし”を漢字で書くと“御手洗”。決して“お手洗い(トイレ)”ということではありません。この井戸の水は禊(みそぎ)の水のことです。禊とは神道用語で、自分自身の身に穢れ(けがれ)のある時や重大な神事などに従う前、又は最中に、自分自身の身を氷水、滝、川や海で洗い清めることを言います。禊の歴史は古く、日本神話で、伊弉諾命(いざなぎのみこと)が、水で心身を清めたことに由来するとされています。皆さんも神社や寺院に参拝した時、神事の前に於ける行として、手と口を水で洗って清めますよね。あれも禊の一種です。手を清めるから“御手洗”です。“御手洗”は“手水舎(ちょうずや)”とも言います。

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この井戸は海岸線がすぐそこまで来ている、と言うか、満潮になると海中に没してしまいそうな砂浜の中にあるのですが、湧き出している水は海水ではなく真水であるという不思議な井戸です。古来、この不思議さから、この井戸の水には神の力が宿るとされ、身の穢れを洗い清めるための禊の水として重要視されてきました。そもそも禊という儀式自体、大山祇神社で神事を行う前にこの「みたらしの井戸」で、手や口を洗い、身の穢れを洗い清めたことが起源とされる…という説もあります。昔はあの伊勢神宮の神職さん達もこの場所に来て、禊を行なっていたのだそうです。大三島や今治市には“継ぎ獅子”という伝統芸能があるのですが、それはそうした伊勢神宮の神職さん達がこの場所に禊に訪れた際に伝えられたとされています。井戸の横に建つ石碑には、本来“山の神”である大山祇神が“水の神”として刻まれています。この不思議な井戸で汲み上げられた「みたらしの水」は、現在も大山祇神社へ献上する禊の水「神饌水(しんせんすい)」となっているのだそうです。

最近は“しまなみ海道”のサイクリングブームもあり、この不思議な井戸もパワースポットして注目を集めているようで、女性を中心に訪れる人も増えてきているそうです。

バリバリ理系の目からすると、この井戸の周囲の地下にはとてつもなくデッカイ岩盤があって、その岩盤が海水の侵入を防いでいるのだろう…と思い、周囲の地形を観察してみたくなるのですが、この神聖な場所ではそういう野暮なことは考えてはいけないようです。

【大通庵】
次に訪れたのは、大三島上浦町にある向雲寺です。この向雲寺には小さなお堂『大通庵』があります。この大通庵は、大山祇神社が元々あったとされる上浦町瀬戸の横殿宮の神宮寺として瀬戸の村の中にありましたが、江戸時代、この向雲寺の境内に移築されました。この向雲寺のお堂の中には、大山祇神社に祀られている神の意味を知る上でもとても重要だとされる「大通智勝仏」と「十六皇子」の仏像が納められています。神仏習合時代に現れた十六皇子。その一つ一つに、神の名前と仏の名前が付けられています。十六皇子は、元々は大山祇神がお亡くなりになった後のお姿(本地仏)である大通智勝仏を東西南北から守護する神として七つの島に祀られていました。現在、大山祇神社の境内のある、十七社はこの十六皇子の神の姿です。

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現在、十六皇子の仏像を見ることができるのは、ここ向雲寺だけです。向雲寺の住職さんから手作りのパンフレットをもとに、大通智勝仏と十六皇子に関するお話をお聞きしました。

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大通智勝仏とは前日訪れた四国八十八箇所霊場の第五十五番札所『別宮山光明寺金剛院 南光坊』の本尊である大通智勝如来(だいつうちしょうにょらい)と同じものです。大通智勝仏はあまり聞き慣れない仏様の名称ですが、『法華経』の『化城喩品(けじょうゆほん)』に出てくる仏様です。この『化城喩品』に次のような内容の記述があります。

「ある日、お釈迦様が説法の中でおっしゃるには、遠い遠い、測ることもできないほど遠い昔のこと。大通智勝仏という仏様がおられました。この仏様は出家をなさる前には王様だった時にもうけた16人の王子がいらっしゃいました。やがて出家して長い間の修行をなさって悟りを開かれ、今は仏の地位にあらせられます。大通智勝仏様はある日のこと王子達や道を求める人達の希望で真実の法として『法華経』を説かれました。これを聞いて感激した王子達は、自分達にもこのお経を説き広めることをお許しくださいと願い出ました。そこで大通智勝仏様はその王子達の願いを許可なされました。ここまで話されたお釈迦様は、“実はその16番目の王子が自分なのだ”と身の上を明かされました。」

この「十六皇子」と呼ばれる16人の王子達は、東西南北の16方位を受け持って大通智勝仏を守護しておられます。この『大通庵』の正面におられるのが大通智勝仏で、左右には16人の王子達が並んでいます。この大通智勝仏と16人の王子の像がここにあるのかということに関しては、大山祇神社との繋がりに大きな関係があります。また、日本の歴史の中で、平安時代から明治維新まで長く続いた「神仏習合」の考え方にも関係があります。

仏教は日本に伝えられた時から、日本古来の神様に対する信仰と対立して、様々な問題を起こしてきました。やがて仏教が盛んになるにつれ、当然のこととして、仏教者の側から日本の神はもとはインドの仏であるという考え方を創り出して、両者の調和を図ることが考え出されます。これを「神仏習合」といいます。そして、天照大神は大日如来、諏訪大明神は普賢菩薩で、鹿島大明神は十一面観音などと考えるようになってきます。これらを見ると、天照大神と大日如来は“日”のイメージで一致しているように思えるのですが、その他の神と仏との繋がりに関しては無理があると言うか、なんらかの根拠があるようにはとても考えられません。

ところが、この大三島に鎮座なさっている大山祇神社では、御祭神の大山祇神と本地仏の大通智勝仏との繋がりに弱いながらもある根拠が認められるのです。その鍵となるのが「16」という数字です。大山祇神社では光仁天皇(第49代天皇:こうにんてんのう)の時代(西暦770年~781年)、本社を中心として周囲の16方位に末社を祀っていました。この頃にはまだ中央における「神仏習合」の思想は大三島には伝わっていなかったと考えられます。この16方位に配置された末社は、単純に中心にある本社を守護するためのものでした。やがて、中央の考え方が大三島にも伝わってきます。すなわち、大山祇神の本地仏(お亡くなりになった後の姿)を特定する必要が出てきたわけです。

ちょうどその頃、播磨国書写山の性空(しょうくう)上人という方が全国行脚の途中で大山祇神社に参詣なさいました。この性空上人は『法華経』を深く信じて、全国にその教えを広めた方です。当然、この時にも『法華経』の解説があったと思われます。その中で、大通智勝仏と十六皇子の説話が出てきたものと考えられます。ここで、大山祇神社では本社を中心として16の方位に末社を祀っていることと、大通智勝仏の説話とが重なったものと思われます。16の方位に祀った末社を16人の王子と捉えれば、その中央にある本社に祀られている大山祇神は大通智勝仏という意味になるというわけです。このようにして、大山祇神の本地仏が大通智勝仏となったと考えられるのだそうです。なるほどぉ~。

次に、大山祇神社とこの向雲寺の『大通庵』との関係についての見解を向雲寺の住職さんからお聞きしました。大山祇神社はこの上浦町瀬戸の地にある横殿社から現在の宮浦の地に遷宮されたものだということは前述のとおりですが、遷宮された後も、横殿社はその置かれている位置から考えるに、おそらく大山祇神社のご神格のうち、航海の安全を受け持っていたと考えられるのだそうです。神様の本地仏が定められると、神社の傍にはその仏様を祀る寺院ができることになります。これを神宮寺と言いますが、横殿社の神宮寺が『大通庵』と名付けられました。これが大山祇神社とこの向雲寺の『大通庵』との関係のようです。

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向雲寺の住職さんのご厚意で、大通庵に納められている大通智勝仏と十六皇子の仏像を間近で拝見させていただきました。これらの仏像は南北朝期(1336年~1392年)頃に製作されたものとみられていますが、大通智勝仏という滅多に見掛けない特殊な仏様であると同時に、その両脇に十六皇子まで祀られているのは、おそらく全国的にみてもこの大通庵だけということのようです。また、その大通智勝仏の御姿も手を衣の下に置いた珍しい形で、絵図としてはたくさん見かけるのですが、彫刻としては京都・東大寺のお釈迦様と並んだ多宝如来像のほかにはないとのことです。これらの仏像、現在の住職さんがここに来られるまでは倉庫の中にあり、人目に触れることがなかったのだそうです。

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大通庵に納められている大通智勝仏のお顔をよく見ていただくと、唇に紅をさしているのに気がつかれるかと思います。お顔も女性的で柔和なお顔をなさっています。これっていったいどういうことでしょう? 大通智勝仏は大山祇神がお亡くなりになった後のお姿(本地仏)です。ということは、男神だと伝わっている大山祇神って、本当は女神だったってことなのでしょうか? 謎がまた1つ増えました。

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大通庵の屋根には兎が波の上を飛んでいる姿の棟瓦がのっています。これは「兎が飛ぶ」と言って、強い風が吹く時に波頭(なみがしら)が白く見える様子のことです。そういう状態の時、確かに兎が海面の上を飛んでいるように見えます。これは船乗り達が出帆するかどうかを決める風の状態の目安にしていたことを表しています。帆船の時代には、今の時代のように「今日は風もなく、いい航海でした」というようなことはありませんでした。風がなければ帆船は進むことができませんからね。それも、かなり強い風のあるほうが航海の効率は上がります。しかしながら、風が強すぎて嵐になると難破する恐れも出てきます。これ以上に風が強くなるか、それともこの程度で収まるか、その判断の境目が「兎が飛ぶ」状態の波だったってわけです。そこで、船乗り達はその「兎が飛ぶ」姿をお堂の棟に飾って、航海の安全を祈願しました。大通庵の棟瓦はそのことを物語っているのだそうです。

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向雲寺の向こうに見える海は鼻栗瀬戸。その先の島は伯方島です。



【宮浦】

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観光バスで、(現在の)大山祇神社がある大三島北部の宮浦に向かいます。車窓には多々羅大橋(たたらおおはし)が見えます。多々羅大橋は、大三島と広島県尾道市の生口島を繋ぐ“しまなみ海道(西瀬戸自動車道)”を構成する道路橋です。吊り橋の一種であるファン形斜張橋で、全長は1,480メートル。主塔(支柱)間の距離890メートル。現在、国内最長の斜張橋で、世界でも有名なフランスのノルマンディー橋を超えて、世界有数の規模と言われる斜張橋です。斜張橋は、巨大なハープや鳥が羽ばたく姿に形容され、見惚れるような非常に美しい形状をしています。どこかロマンに溢れていますが、さすがにこの橋は世界有数のスケールだけあって、優雅さに加えて雄大さを感じさせます。

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大山祇神社の海の玄関口宮浦港には、大山祇神社に相応しい朱塗りの神殿風の桟橋が浮かんでいます。石造りの巨大な「一の鳥居」とともに門前町であった往時の賑わいを偲ばせます。宮浦港を囲む御串山の麓にある阿奈波(あなば)神社は、「阿奈波さん」として地元住民に親しまれています。大山祇神社の祭神・大山祇神には岩長姫(いわながひめ)と木花開耶姫(このはなさくやひめ)という2人の姫がいました。岩長姫は天照大神(あまてらすおおみかみ)の子供で、天照大神の命により葦原中国を統治するため高天原から地上(高千穂峰)に天降ったという天孫降臨で知られる瓊々杵尊(ににぎのみこと)の子を身籠るのですが、瓊々杵尊は美しい木花開耶姫のほうを妻にしました。岩長姫は失意のうちに身を引き、大山祇神社の宮の外に産殿を建ててそこに移り住みました。この産殿が宮浦港を囲む御串山にある大山祇神社の境外摂社・阿奈波神社とされています。健康及び長寿の神様として崇められ、また、子宝に恵まれない人や花柳病(女性の下半身の病)にも霊験があるとされ、特別な信仰がおこりました。夫婦でお参りに行くと子宝に恵まれることや、女性の下着類や賜物を供えて祈る習わしが現在に伝えられているのだそうです。



……(その8)に続きます。

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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