2017/07/28

中山道六十九次・街道歩き【第13回: 松井田(五料)→軽井沢】(その11)

「碓氷山荘」の前に『碓氷権現 熊野神社』の石碑が建っています。

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碓氷峠の頂上には、碓氷峠を登ってきた参勤交代の諸大名が、必ず参拝に立ち寄ったと言われる熊野神社があります。上野国の坂本宿からやって来ると大変な山道を大汗をかきながら登ってくる必要があるのですが、信濃国の軽井沢宿側からは近くまで国道が延びていて、クルマや路線バスを使っていとも簡単に上がってくることができます。なので、この日も結構な人出がありました。

熊野神社の鳥居の前に店を構える「元祖力餅 しげの屋」さんです。地面に引かれた赤いラインが群馬県と長野県の県境です。県境は店の中も通っています。こういう場合、税金はいったいどちらの県に納めればいいのでしょうね。気になります。

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この熊野神社は「安政遠足」のゴールとされており、その表示が出ています。「安政遠足(あんせいとおあし)」については安中宿のところでも書きましたが、黒船来襲により沿岸警備が重要視された安政2年(1855年)、安中藩主・板倉勝明が50歳以下の藩士の鍛錬のため、藩士96人を安中城の城門からこの碓氷峠の熊野神社まで徒競走をさせたのが始まりとされています。今でも5月の第2日曜日に「安政遠足マラソン」が開催されていて、今年も私達が訪れた日の2週間前の5月14日(日)に開催されました。当時の武士の格好に仮装したランナー達が、「刎石坂」や「座頭ころがし」、「長坂」といった急勾配の悪路を走って、ここまでやって来たのですね。本当にご苦労様です!…と言いたいです。

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鳥居の両脇に一対の「阿吽の狛犬(こまいぬ)」があるのですが、長野県内で1番古く、なんと室町時代中期(1400年頃)に造られた狛犬なのだそうです。この狛犬は、一般的な狛犬のように怖い顔をしておらず、なかなか愛嬌のある可愛い顔をしています。

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神社に続く石段を登ります。ここまで碓氷峠の急な坂を登ってきたので、この程度の石段なんか軽いものです(笑)

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熊野神社の社殿は長野県と群馬県の両県にまたがっており、参道と本宮の中央が県境にあたります。

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この日も大勢の人達が参拝に訪れていました。軽井沢が近いので、外国人の参拝客も目立ちます。

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熊野神社の社宮は3つあり、本宮は伊邪那美命(いざなみのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、長野県側の那智宮は事解男命(ことさかのおのみこと)、群馬県側の新宮は速玉男命(はやたまおのみこと)と、和歌山県にある熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)に所縁の神々を祀っています。

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熊野神社であり、熊野皇大神社でもある社殿には、なんと、お賽銭箱が2つ並んでおり、鈴も2つあります。一瞬あれっ!?…と思うのですが、この神社は上野国と信濃国の国境上に建っており、上野国側では熊野神社と呼ばれ、信濃側では熊野皇大神社と称されているのだそうです。それでお賽銭箱も鈴も2つあるのですね。これは第二次世界大戦後に宗教法人法が制定された際、都道府県ごとに宗教法人の登記がされることになったため、ひとつの神社でありながら県境を挟んで、長野県側が熊野皇大神社、群馬県側が熊野神社という別々の宗教法人となった。そのため、元々は一つの神社だったのですが、今は宮司や社務所、賽銭箱、お守り、ご祈祷は別々という不思議な形になったのだそうです。

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この熊野神社の歴史は大変に古く、社伝によると…、日本武尊が東征の帰路、碓氷峠に差し掛かった際、濃霧が生じて道に迷ってしまった。この時に一羽の八咫烏(やたがらす)が紀州熊野の梛木(なぎ)の葉を咥えて現れて、葉を落としながら道案内をし、それについて行ったことで無事に碓氷峠の頂上まで登ることができた。日本武尊はこの八咫烏の導きを熊野神霊の御加護によるものだと考え、その熊野神霊に感謝してここに熊野三山の神々を祀ることにしたのが熊野神社の由来である…とされています。坂本宿の手前にあった白鬚神社もそうでしたが、このあたりには日本武尊の伝承が多く残され、日本武尊に所縁の神社が多いですね。

まぁ~、あの碓氷峠越えの険しい山道で突然濃霧が発生して一寸先も見えない状況になったら、道にも迷うでしょうし、身の危険を覚えてしまいますわね。自分1人だけのことではなく、東征の帰りということで、大軍団を率いていたわけですから。軍団の統制にも重大な影響を与えますから。

山に雲がかかっている時、その雲の中では濃霧、そして細かい雨になります。そして、それは突然やってきます。いくら麓のほうは晴れていると言っても。登山をやっているとそういうことに度々遭遇します。碓氷峠の頂上の標高は約1,200メートル。しかも関東平野の一番奥のどん詰まり。南からの暖かく湿った大気と、北からの冷たく乾いた大気とがぶつかり合って雲が発生しやすい場所ですから。今回の街道歩きでも、1日目(5月27日)の坂本宿では雨が降る心配はなかったのですが、山のほうは雲がかかって頂上あたりの山容がわからない状況でしたので、おそらく碓氷峠越えの道を含め標高の高いところでは濃い霧がかかっていたのではないか…と思われます。この日(2日目)の朝の安中市のホテルのところで、「昨夜から朝方までの間で霧雨のような雨が降っていたようだ…」ということを書きましたが、夜になって気温が下がったので、その濃い霧が麓のほうまで降りてきていたのでしょう。こういうことが起きるので、まさに山の天気を予想することは難しいのです。

日本武尊が碓氷峠を越えた時も、まさにそういう気象状況だったのではないでしょうか。そこを通りすがりのどなたかの案内で無事にここまでたどり着くことができ、九死に一生を得た思いがした…ってことなんでしょうね。東征の帰り道ということで大軍団を率いていたわけですから、全軍が無事にたどり着いたということで、これは日本武尊にしてみれば、神の御加護があったに違いないと思ったのは当然のことのように思います。

そういう意味で、今回の『中山道六十九次街道歩き』の碓氷峠越えがこの日で本当に良かったです。前日だったら、おそらく日本武尊と同じように濃霧の中であの険しく細い急勾配の道を歩くことになったのではないか…と思われます。今回も“晴れ男”のレジェンドは健在でしたd(^_^o) 天気次第で旅行の印象って大きく変わりますからね。ここまで書けるのも、お天気に恵まれたからです。悪天候の中だったら、気分が乗らないので、おそらくここまでは書けません。それにしても木漏れ日の中での山歩きは本当に気持ち良かったです。

ちなみに、国境に位置する熊野神社は社家も上州、信州の両国に分かれていました。そのため、江戸時代には上州と信州の神職が1年ごとに交代で神社を管理していたのだそうです。

八咫烏と言えば日本サッカー協会のシンボルマーク、及びサッカー日本代表のエンブレムの意匠として用いられている事でも知られています。これは天武天皇が熊野に通って蹴鞠をよくやられたことにちなんだもので、よくボールをゴールに導くように…との願いが込められていると言われています。頑張れ!サッカー日本代表!! 2018年W杯ロシア大会には絶対に出場してほしい…との願いを込めて、しっかりと参拝させていただきました。

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境内の左には樹齢800余年といい伝えられているシナノキの古木もあります。このシナノキ、樹皮は「シナ皮」と呼ばれ、繊維が強く主にロープの材料とされてきました。また、古くは樹皮の繊維で布を織り、衣服なども作られました。長野県の古名である信濃は、古くは「科野」と記していたのですが、これはシナノキを多く産出したからだとも言われています。

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この他にも熊野神社の境内周辺には大変多くの見どころがあります。

まずは、『日本武尊「吾妻者那」詠嘆の碑』が建っています。日本武尊(やまとたけるのみこと)は碓氷峠の山頂から遠くの海を眺め、相模湾で荒波を鎮めるために自ら海中に身を投じた最愛の妻、弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)を偲び、「吾嬬者耶(あずまはや:ああ、いとしき我が妻よ)」と三度嘆いたとされています(日本書紀に記載。古事記ではその場所は足柄峠ということになっています)。このことから、この山を「長く悲しんだ山」と呼ぶようになり、それが濁って“長倉山”になり、軽井沢では長倉の地名が多いのだそうです。同様に、「霧積」「吾妻」「嬬恋」という軽井沢近隣の地名も日本武尊の故事にちなんだ地名なのだそうです。

また、伊達政宗が慶長10年(1614年)に峠に登ってきた時に詠んだ一句「夏木立 花は碓氷の 峠かな」の句碑が建っています。鎌倉時代の正応5年(1292年)に奉納されたという群馬県内最古の古鐘もあります。神門の前には「碓氷峠のあの風車 たれを待つやら くるくると」と追分節に歌われた「石の風車」があります。聞くとこれらにも興味が惹かれるところですが、今回は中山道の街道歩きがメインです。見学はまたの機会とすることにしました。

赤門屋敷跡です。東京都文京区本郷にある東京大学の本郷キャンパスにある赤門と同様、この碓氷峠頂上にある赤門屋敷も加賀藩百万石・前田家の屋敷の跡です。ここは加賀藩前田家の休息所で、江戸藩邸の御守殿門(現在の東大赤門)に倣って建てられました。碓氷峠に到着した前田家の参勤交代の行列は、まず熊野神社に参拝して道中の安全を祈念し、赤門屋敷で休息しました。その際、無事に碓氷峠まで到着した旨を知らせる早飛脚を国元(金沢)と江戸藩邸に送りました。また、皇女和宮の降嫁の際にも、ここで休息をとられたそうです。今は跡地を示す表示が残るだけです。

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熊野神社を出て軽井沢側にちょっと下ったところ(私達が昼食を摂った「碓氷山荘」の門前)には、「渡辺重石丸(いかりまろ)の数字歌碑」なるものが建っています。

「四八八三十 一十八五ニ十百万 三三一ニ 五十四六一十八 三千百万四八四」


「よはやみと ひとはいうとも まさみちに いそしむひとは みちもまよわじ (世は闇と 人は言うとも正道に 勤しむ人は道も迷はじ)」

碓氷峠ではこのような暗号のような歌を作るのが流行っていたのでしょうか。

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見晴台の入り口です。案内書によると、この碓氷峠の見晴台からは上州の山々や浅間山のパノラマが広がり、彼方には蓼科山の頂上も望めると書かれています。丸々1日ここにいても飽きないほどの素晴らしい眺めだということですが、そのわりには観光客の姿は意外なほど少ないですね。群馬県の坂本宿からここまでやってくるのは大変ですが、長野県の軽井沢宿からだと歩いて1時間ほどですし、旧中山道はともかく、近年整備された遊歩道だと坂道もそれほど急ではありませんから。皆さん、軽井沢にお越しの際には、是非とも遊歩道で旧碓氷峠の見晴台まで登ってみられることをお勧めします。とは言え、私達は時間の関係で見晴台の入り口を眺めただけで、旧中山道を今度は軽井沢宿の向かって下っていくことにしました。

見晴台の入り口の柱に「ヒル(蛭)に注意」の張り紙が出されています。ここにも蛭(ヤマビル)が出るんですね。

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……(その12)に続きます。

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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越智正昭

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