2017/08/04

中山道六十九次・街道歩き【第14回: 軽井沢→塩名田】(その1)

6月24日(土)、25日(日)、中山道六十九次・街道歩きの【第14回】に参加してきました。

前回【第13回】でついに中山道最大の難所と言われる碓氷峠を越えて関東地方を脱したので、ここからは信州、信濃国を歩きます。標高も一気に高くなり、それに伴って周囲の山々や沿道の風景も大きく変わってきたので、『中山道六十九次・街道歩き』もいよいよ第2ステージに入った感じがします。

6月の下旬と言うことで全国的に梅雨入り宣言が出された以降ということもあり、さすがに今回だけは雨の中の街道歩きを覚悟したのですが、さすがに“晴れ男のレジェンド”の私が参加したからでもないのでしょうが24日(土)は快晴。今年は梅雨入り宣言が出された以降も北からのオホーツク海高気圧の張り出しが強く、梅雨前線が日本列島の南の海上にずっと停滞してなかなか北上してこなかったこともあって、例年に比べ少雨の梅雨になっています。中山道最大の難所と言われる碓氷峠を越える時だけは晴れて欲しいと願っていて、前回【第13回】ではその願いが天に届いたのか晴れ空の下、気持ちよく碓氷峠を越えることが出来ました。なので、今回は「まぁ~雨に降られても仕方ないかな…」と思っていただけに、この快晴は嬉しい限りです。晴れの中を歩くのと、雨の中を歩くのでは印象が随分と違ったものになりますからね。

ただ、日本列島の南の海上にずっと停滞していた梅雨前線が徐々に北上してきつつあり、西日本のほうから天気が崩れて、九州南部では大雨になっているようなので、2日目(25日)の天気がいささか気掛かりではあります。

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1日目は前回【第13回】のゴールだった軽井沢宿の京方枡形跡に近い駐車場をスタートし、沓掛宿を経て、追分宿にある中山道69次資料館まで歩きます。予定歩行距離は10km、予定歩行時間は約3時間。また、2日目は追分宿から小田井宿、岩村田宿を経て塩名田宿まで歩きます。予定歩行距離は15.3km、予定歩行時間は約4時間。中山道最大の難所である碓氷峠を越えた前回【第13回】とは一変し、起伏の少ない整備された道を歩きます。軽井沢宿から次の難所である和田峠の麓にある和田宿までは宿場の間の距離が短く、宿の数も多い区間となります。1泊2日ですが、この【第14回】だけで5つの宿場を通ります。

東京・池袋駅西口を午前8時30分に出発してこの日のスタートポイントである軽井沢宿に到着したのが昼の12時直前。観光バスの車内でお弁当の昼食を摂り、ストレッチ体操の後、街道歩きに出発しました。この日の参加者は同じ東京池袋駅西口発と言うこともあり、前回【第13回】でご一緒した方々がほとんどでした。1泊2日ご一緒し、あの碓氷峠を一緒に越えた皆さんなので、もう気心が知れたお仲間のような方々ばかりで、行きのバスの車内から話が盛り上がっています。今回も楽しく中山道の街道歩きが楽しめそうです。

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軽井沢宿を出ると、それまでの長野県道133号旧軽井沢軽井沢停車場線と分かれ、西南方向へ歩くのですが、現在は「離山通り」と呼ばれているこの道路が旧中山道です。

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3本の道が交差する「六本辻」を過ぎます。この六本辻交差点は、文字通り6本もの道路が交差するのにもかかわらず、信号機が設置されておりません。まぁ~、交通量はあまり多い交差点ではないので、いいのですが…。ここから左折、すなわち右の写真で観光バスがやってきている道を進むと北陸新幹線のJR軽井沢駅、しなの鉄道(旧JR信越本線)の終点・軽井沢駅へ出ます。

ここからしばらくは軽井沢の別荘地の中の唐松(からまつ)林の中を進んでいきます。ジィーーージィーーーというハルゼミの鳴き声がカラマツ林の中から聞こえてきます。

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進行方向右側に見えるお椀を伏せたような形の山は離山(はなれやま)です。この山は文字通り周囲の山から独立した(離れた)独立峰で、浅間山の寄生火山の1つです。軽井沢自体が標高1,000メートルのところにあるのでさして高い山だと思わないのですが、山頂の標高は1,256メートルです。皇女和宮の通行の際は「離」の字を嫌って、「子持山」に改名させられたのだそうです(碓氷峠越えで通った子持山とは違う山です)。離山への登山口の案内表示も出ています。

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右手に見える瀟洒な建物は軽井沢ホテル ロンギングハウスです。まさに避暑地・軽井沢に相応しいお洒落なホテルで、若いカップル向けという感じなので、私のようなオッサンには縁が遠い感じもします。きっとお食事込みなので、宿泊代はそれなりに高そう…。でも、素敵です。

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カラマツ(唐松)林が途切れてからしばらく歩くと石仏群に出会えます。軽井沢というと、なんとなく瀟洒な別荘地のイメージ ばかりが先行しちゃいますが、ほんの少し足を延ばすと、実はこんな素朴な風景にも出会えます。

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離山交差点で国道18号線に合流します。

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市村記念館(旧近衛文麿別荘)です。この和洋折衷の建物は大正時代に洋風住宅建築会社『あめりか屋』によって建てられたもので、大正15年(1926年)に近衛文麿が別荘として野沢源次郎から購入したものです。昭和7年(1932年)に、政治学者で近衛文麿と親交があった市村今朝蔵(けさぞう) 、きよじ夫妻が別荘として購入し、翌年に市村夫妻が別荘地として開発した軽井沢南原の地に移築されました。その後、平成9年(1997年)に現在の場所、雨宮池の東端に再度移築され、市村家の遺族より軽井沢町に寄贈されました。

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近衛文麿は“文麿”というお名前から連想されるように、五摂家の1つ近衞家の第30代目当主で、後陽成天皇の12世孫にあたります。昭和初期の激動の時代に3度にわたり内閣総理大臣に指名され、第1次近衞内閣(1937年~1939年)、第2次近衞内閣、第3次近衞内閣(1940年~1941年)を率いた政治家です。その際に、外務大臣、拓務大臣、農林大臣、司法大臣などの要職を一時兼務しました。

第1次近衞内閣では、盧溝橋事件に端を発した日中戦争が発生し、北支派兵声明、近衛声明や東亜新秩序などで対応、戦時体制に向けた国家総動員法の施行などを行いました。また、新体制運動を唱え大日本党の結党を試みるものの、この新党問題が拡大し総辞職に追い込まれました。その後も国内の全体主義化と独裁政党の確立を目指して第2次・第3次近衞内閣では自ら設立した大政翼賛会の総裁となり、外交政策では八紘一宇と大東亜共栄圏建設を掲げて日独伊三国軍事同盟や日ソ中立条約を締結しました。そのほかでは、枢密院議長や日本放送協会第2代総裁なども務めました。

大東亜戦争中は、後に内閣総理大臣となる吉田茂などとともに昭和天皇に対して「近衛上奏文」を上奏するなど、戦争の早期終結を唱え、また、戦争末期には独自の終戦工作も展開したりもしました。大東亜戦争終結後、東久邇宮内閣にて国務大臣として入閣し、大日本帝国憲法改正に意欲を見せたものの、A級戦犯に指定され、服毒自殺なさいました。享年54歳、3度も内閣総理大臣に就任されたにしては、若くしての御最期でした。

近衛文麿元内閣総理大臣は上記のような激務の中、時々、ここを訪れては身と心をリフレッシュなさっていたのでしょうね。ホント木々に囲まれた静かな癒される空間って感じの別荘です。

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本来、旧中山道はこの市村記念館のあたりから国道18号線、そして“しなの鉄道線(旧JR信越本線)”を斜めに横切って直進していたのですが、現在はこの先で道が消滅しているようなので、右折してその先の軽井沢中学校前交差点で国道18号線を渡り、さらに「しなの鉄道線」の線路を踏切で渡るルートで迂回します。

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「しなの鉄道線」は、平成9年(1997年)10月1日、長野新幹線(北陸新幹線の金沢延伸前の通称)の開業に際して、並行在来線となった信越本線の軽井沢駅~篠ノ井駅間がJR東日本から第三セクターである「しなの鉄道株式会社」に経営移管された路線です。現在はJRがまだ国鉄と呼ばれていた時代に大量導入された115系直流近郊型電車がグレーと赤の“しなの鉄道”オリジナル色の塗装をまとい、2両あるいは3両の短い編成のワンマン運転で運行されています。

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踏切を渡るとすぐ右に入る道があるのでそちらを曲がります。この右折した道が旧中山道です。振り返ると、鬱蒼と茂る木々の中を少し蛇行しながら延びる道があります。この道の先は先ほど通った市村記念館のあたりになり、この道が本来の旧中山道です。現在は途中で行き止まりになっているようです。

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旧中山道は今はクルマもほとんど通らないような、国道の脇道のような道路になっています。周囲は静かな住宅街で、浅間山の噴火石で積んだと思われるような、石垣になっている住宅が建ち並んでいます。

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進行方向前方に信州長野県を代表する山の1つ、浅間山の雄大な姿が見えます。山頂の標高は2,568メートル。【第11回: 高崎→安中】(その2)でも書きましたが、浅間山は数十万年前から今に至るまで活発に活動を続けている活火山で、美しい円錐形の山体(成層火山)をしています。気象庁が常時観測をしている火山の一つで、現在は「100年活動度または1万年活動度が特に高い活火山」として、ランクAの活火山に指定されており、火山活動レベルに応じた入山規制が行われています。現在も浅間山は山頂直下のごく浅いところを震源とする体に感じない火山性地震が多い状態が続いており、また、二酸化硫黄の放出が増加していることから火山活動が高まっていると判断され、平成27年6月11日15時30分、噴火警戒レベルが1(活火山であることに留意)から2(火口周辺規制)に引き上げられ、今に至っています。この日は梅雨前線が接近しつつある影響で雲が多く、浅間山の山頂付近には雲がかかっているので、噴煙が上っている様子は確認できませんでした。スッキリと晴れていれば、さぞや雄大な景色なのだろう…と推察されます。

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中山道での人の往来が盛んだった天明3年(1783年)、浅間山は大噴火(天明噴火)を起こしました。4月に活動を再開し7月まで噴火と小康状態を繰り返しながら活動を続けたそうです。この浅間山の天明噴火により中山道筋には火山礫、火山砂、そして火山灰などが降り注ぎ、その被害は4月から7月までの長期に渡ったという記録が残っています。

湯川という小さな川を前沢橋で渡り、しなの鉄道の「中軽井沢駅」の裏手に出ました。ここから“しなの鉄道”の線路の下を潜って、再び今の国道18号線に戻るというのが旧中山道のルートです。

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ですが、江戸時代初期の旧中山道(旧旧中山道)はちょうど今の「中軽井沢駅」の駅裏あたりを通っていたといわれ、その証拠が駅裏に見られます。“しなの鉄道”の線路の手前で左折し、すぐにあるこの三叉路の右側の道を少し行ったあたりに「宮之前一里塚」がありました。江戸の日本橋を出てから38里目の一里塚です。安永2年(1773年)、沓掛宿が大火に遭い、宿場まるごと移転することになった結果、一里塚だけがこの場所に取り残されてしまいました。現在は石碑が残るのみです。

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旧中山道に戻って、“しなの鉄道”の線路(鉄橋)の下を潜ります。“しなの鉄道”は今でこそ第三セクターが運行するローカル鉄道路線ですが、かつては首都圏と信州、越後、北陸地方を結ぶ日本の大幹線、国鉄(JR)信越本線でした。複線の線路のうち上り側の線路は、歴史を感じさせる武骨な無道床橋梁(枕木を主桁に直結し、床版や道床を設けない橋梁)になっています。まさに鉄橋です! 渋い!

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浅間山が見えます。ただ、ちょっと違うのは、浅間山が進行方向左手に見えること。中山道を江戸から進むと、浅間山はずっと進行方向の右側に見えるのですが、この“しなの鉄道”の線路の下を潜ったところからのほんの短い区間だけが進行方向の左手に見えます。浅間山が進行方向の左手に見えるのは、中山道では唯一ここだけです。なので、この区間は「左浅間」と呼ばれています。

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国道18号線の湯川に架かる橋の下を潜ります。清らかな水の流れの中で、カモ(鴨)のつがいが気持ちよさそうに水浴び(?)をしていました。すぐ横を私達が通っていくのに、平気なようです。

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橋の下を潜った先で国道18号線の向こう側に出ます。その国道18号線の右手奥に「長倉神社」が見えてきます。このあたりが次の宿場「沓掛宿」の入り口になります。



……(その2)に続きます。

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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