2017/08/10

中山道六十九次・街道歩き【第14回: 軽井沢→塩名田】(その4)

追分宿(おいわけしゅく)は、中山道六十九次のうち江戸・日本橋から数えて20番目の宿場です。善光寺を経て直江津で北陸道に合流する北国街道との街道の分岐点でもあり、「追分」の名はこれに由来します。天保14年(1843年)の記録によれば、追分宿の宿内家数は103軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠35軒で宿内人口は712人であったとされています。最盛期の元禄時代には旅籠屋71軒、茶屋18軒、商店28軒を数え、飯盛女も最盛期には200~270人もいたとされるほど栄えました。また、民謡に多く見られる追分節の発祥の地でもあります。さらには、浅間三宿(軽井沢宿・沓掛宿・追分宿)の中では、当時の面影が最も多く残っている宿場です。

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追分宿の入り口の所にある浅間神社です。江戸時代には「すは大明神」と呼ばれていました。巨木の繁茂する大きな社です。

この浅間神社、本殿は室町時代に建てられたもので、木造建築としては軽井沢町内で最古のものです。大変に古い建物なのですが、社殿の中に収められているため、見ることはできません。祀られているのは大山祇(おおやまつみ)神と磐長姫(いわながひめ)神の2神。磐長姫神は大山祇神の娘で木花開耶姫(このはなさくやひめ)命の姉神にあたります。普通、「浅間神社」と書くと「せんげんじんじゃ」と読み、木花開耶姫命を御祭神とした富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)を総本社としていますが、この「浅間神社」は「あさまじんじゃ」と読み、大山祇神と磐長姫神を御祭神としています。「あさま」は火山を示す古語とされ、富士山の神を祀る神社が浅間神社と呼ばれるのも、同様の理由のようです。

明治2年(1869年)5月より浅間山の鳴動が特に激しくなった際、鎮静祈願のために同年9月に明治天皇の勅祭がこの浅間神社で執り行われたそうです。

浅間神社の後ろには気象庁軽井沢測候所があり、浅間山の地震や噴煙を観測し、火山活動情報を全国に発信しています。

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観光ボランティアガイドさんからも浅間山の噴火について詳しく説明していただきました。この観光ボランティアガイドさん、長倉神社で説明をしていただいた方と同じです。各所で地元の説明をしていただける観光ボランティアガイドさんはどなたも地元愛に溢れ、地元のことをよく調べておられて知識も豊富。おまけに話が上手な方ばかりなのですが、この軽井沢町の観光ボランティアガイドさんはそれらの方々の中でも特に傑出した方で、話が実に面白くて分かりやすい。中山道だけではなく北国街道の案内もなさっているとかで、街道歩きの勘どころもよぉ~くお分かりいただけていらっしゃいます。用事があって残念ながら2日目の案内ができないとかで、話の流れで2日目の見どころについても詳しく解説をしていただき、ウォーキングリーダーさんがもう自分達が喋ることがなくなった…と、苦笑なさっていました(笑)

この日は残念ながら5合目付近より上は雲がかかって浅間山も裾野のほうが見えているだけでしたが、晴れていたらさぞや雄大な風景なのでしょうね。そこだけがちょっと残念です。

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奥に追分郷土資料館、そして、境内には芭蕉句碑があります。

「吹き飛ばす 石も浅間の 野分(のわけ)哉」 松尾芭蕉


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追分節の発祥地の石碑も立っています。

「浅間山さん なぜ焼けしゃんす 裾に三宿 もちながら」


「追分ます形の茶屋で ほろと泣いたが忘らりょか」


追分節はもともとは碓氷峠の馬子唄でした。この馬子唄が飯盛女の弾く三味線の音色と相まって洗練され、座敷歌となって北国街道を北上して各地に広まり、越後に入り越後追分として船頭歌になり、さらに酒田追分、新庄追分を経て蝦夷地に渡り、松前追分、江刺追分になったとされています。なるほどぉ~。

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浅間神社を出て旧中山道を西へ向かいます。石畳の道に整備されていて歩きやすく、また、趣きもある道になっています。浅間神社を出てすぐのところに常夜灯が立っていて、その先で昇進川という細い川に架かる昇進橋を渡ります。昇進橋を渡った先が追分宿の中心部になります。

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旧中仙道沿い左手に堀辰雄文学記念館があります。追分宿は文士の別荘地として人気があったところで、堀辰雄も大正末期から昭和の中期までの約30年間ここに住み着き、「美しい村」、「風立ちぬ」、「菜穂子」などの名作を書きました。入口の門は、追分宿本陣の裏)を移設したものです。裏門と言っても、メチャメチャ立派な門です。

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堀辰雄文学記念館の奥には「旧堀辰雄邸」があります。堀辰雄は芥川龍之介らと訪れたこの地をとても気に入って定住し、この家で生涯を閉じました。享年49歳。もう少し長く生きて、活動されておられたら…と思ってしまいます。

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脇本陣だった油屋です。元々の油屋は現在の「信濃追分文化磁場 油や」の向かい側にあったのですが、昭和12年(1932年)の火事で現在の場所に移動しました。この油屋は、堀辰雄や立原道造、室生犀星、加藤周一らの文人・知識人達が好んで執筆に利用した宿として知られ、多くの作品の舞台となった旅籠でした。有名なところでは、堀辰雄の小説『菜穂子』、『ふるさとびと』に登場する牡丹屋という旅館はこの油屋がモデルであるとされています。最近まで高級旅館として営業されていましたが、現在は文化施設「信濃追分文化磁場 油や」として再生しています。2階の一室に堀辰雄資料室が設置されています。

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このあたりが追分宿の中心です。

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この先に「明治天皇追分行在所碑」が建っています。ここが「追分宿土屋本陣」があったところです。門柱だけが残っていて、表札に「中山道追分宿 旧本陣」という文字が刻まれています。

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その先に追分宿の高札場跡があり、当時の高札場が再現されています。

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高札に定(さだめ)が掲示されているので、その一部を書き写します。
  一、毒薬、似せ薬種売買の事禁ず。
  一、新作のたしかならざる書物売買すべからく事。
  一、諸職人いい合わせ、作料、手間賃等高直(たかじき)にすべからず。
なるほどぉ~。この高札に書かれている定って、今の時代にも適用できますわね。

浅間山の登山道の入り口です。浅間山を登山するにあたっての注意書きが出ています。浅間山は平成22年4月15日(木)11時より噴火レベルが「1」(活火山であることに留意)となっていましたが、火山活動の高まりから平成27年6月11日(木)15時30分に噴火レベルが「2」(火口周辺規制)に引き上げられ、現在に至っています。

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追分宿には往時の旅籠の雰囲気を漂わせる建物が幾つか残っていて、大変に魅力的な街並みになっています。

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数分歩いた先の路地を右に入った奥に諏訪神社があります。境内には比較的新しい小林一茶の句碑があります。

「有明や 浅間の霧が 膳をはふ」 小林一茶


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さらに数分歩くと泉洞禅寺という曹洞宗の寺院があります。

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泉洞禅寺は正確には曹洞宗浅間山泉洞寺といいます。この泉洞寺は今から約410年前の、慶長3年(1598年)、上州(現在の群馬県長野原町)常林寺の第5世・心庵宗祥禅師によって開創されました。御開山である心庵宗祥禅師は三河国の人で元は武士。俗名を林主人といい天正3年(1575年)、長篠の戦いに遭遇、数多くの戦死者を目のあたりにして無常心をいだき、当時敵方であった武田軍の本陣地、長篠の曹洞宗医王寺にて剃髪し出家をされたといわれています。泉洞寺は、元々の寺名は「仙洞寺」であったのですが、江戸時代、火災に遭遇したことから、火災等の災難を除けるようにと祈願して「仙洞寺」から、水を持って寺を守るようにと「泉洞寺」と改名して寺の安全を願ったのだそうです。

この寺の特徴はなかなか愛嬌のある顔や表情をした地蔵様が並んでいることです。最近立てた地蔵様のようですが、日本全国で見られるどの地蔵様も最初は作られた当時の流行や人々の好みを反映したこんな感じのものだったんだろうと私は思います。これから100年間も風雨に晒されたら、だんだんと味わいも出てくるものと思われます。石で造るということは、そういう意味もあるのではないか…とも。

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この泉洞寺には堀辰雄がこよなく愛したという石仏があります。裏の墓地入り口で物思いにふけっている半伽思惟像で、その名も「歯痛地蔵」。左の奥歯が痛いのか、手で押さえている格好になっているから「歯痛地蔵」と名付けられたのですが、なんとも素朴なそのお姿がナイーブな堀辰雄のハートを鷲掴みにしたのでしょう、きっと。

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「氷環慈石地蔵尊」と「卓球慈光地蔵尊」です。前者は「カーリング地蔵」、後者は「ピンポン地蔵」と読むようです。さすがに軽井沢です。「カーリング地蔵」ですか…。平成10年(1998年)に開催された長野冬季オリンピックの正式競技種目として、軽井沢で初めてカーリング競技が開催されました。以来、軽井沢町ではオリンピックを記念した国際大会やシンポジウムなどを開催し、競技の普及発展に官民一体となって力を注いできています。その成果は、軽井沢町から日本チャンピオンチームを輩出、オリンピック日本代表候補選手の育成、車いすカーリング選手のパラリンピック出場を支援するなど、大きな成果となって結実しています。来年(2018年)に韓国の平昌で開催される予定の冬季オリンピックには、軽井沢町を本拠地とした「SC軽井沢クラブ」が男子カーリングの日本代表として出場することが既に決定しています。来年の平昌冬季オリンピックでは、メダルが獲得できるように頑張っていただきたいものです。

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参道の入り口に立つ不動明王と思しき石仏です。これも不動明王にしてはなかなか可愛い感じの顔をしています。

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……(その5)に続きます。

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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