2017/08/21

中山道六十九次・街道歩き【第14回: 軽井沢→塩名田】(その8)

咬月ヶ原を抜けると、次の宿場である岩村田宿まで国道沿いの道が続きます。デッカイ「はなびやさん」の文字に思わずカメラのシャッターを切ってしまいました。花火の直売所のようですが、花火の販売だけで経営が成り立つのでしょうか?

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しばらく行くと左手に、初期の中山道の道筋を示すという、「鵜縄沢端一里塚」がほぼ原形をとどめて残っています。この「鵜縄沢端一里塚」は江戸の日本橋を出て42里目の一里塚です。現存しているのは東側の塚で、寛永12年(1635年)、中山道の街道付け替えによって街道筋からは少し外れたものになってしまいました。

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信州長野県と言えば、リンゴ。道中、いたるところにリンゴ園があります。ちょうど摘果作業の真っ最中で、地面には摘果されたリンゴの小さい実が大量に転がっています。あと数か月すると、真っ赤な大きなリンゴとなって店頭に並ぶのでしょうね。

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この辺りは、佐久インターができた関係か、左右に新しいスーパーなどが林立して賑やかです。

上信越自動車道の上を岩村田橋で越えていきます。

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おやおや、これは佐久長聖中学校・高校ではないですか。佐久長聖高校といえば、スポーツの名門校として全国的に有名です。野球部は夏の甲子園大会へ過去7回(1994年、1995年、1998年、2002年、2012年、2014年、2016年)、春のセンバツへ1回(1997年)出場しています。全国高等学校駅伝競走大会へは1998年の第49回大会から13大会連続出場中で、2008年の第59回大会では全国優勝を果たしています。また女子も女子バスケットボールではウィンターカップへ13回、インターハイへ12回出場しています。ふむふむ、ここがその佐久長聖高校なのですね。

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佐久IC東交差点を越えます。

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左側に千手観音像があります。

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その千手観音像の先に、岩村田の住吉神社が同じく道路の左側にあります。

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かつてこのあたりが岩村田宿の江戸方の入り口でした。住吉神社の境内には、溶岩で出来た常夜灯と樹齢400年と言われる大きな欅(けやき)の木があります。中に大きな空洞が出来ています。

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さすがに宿場です。歴史を感じさせる古くて立派なお屋敷が建っています。

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住吉神社を過ぎた右側に大きな「従是善光寺道」の石柱が立っています。これは平成8年に復元建立したもので、江戸時代の道標は交通事故で破損したため、修理されて住吉神社に移設してあるそうです。

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岩村田宿(いわむらだしゅく)は、中山道六十九次のうち江戸・日本橋から数えて22番目の宿場です。岩村田藩内藤家1万5千石の城下町であり、商業の町でした。城下町でもあったので、堅苦しい城下町の雰囲気が嫌われ、大名や公家は泊まらず、旅人もあまり寄りつかなかったと言われています。そのためか、宿場の本陣はかつては存在したのですが大破した後は再建できず、また、脇本陣も置かれていませんでした。旅籠も最盛期で8軒のみと小規模の宿場でした。本陣、脇本陣の代わりとして龍雲寺、西念寺、法華堂などの古刹、割元邸(割本邸)が利用されたようです。

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左側にその龍雲寺があります。

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城郭風の山門が見事です。その山門の前には、冬の間、大活躍したであろう小型の除雪用のパワーショベルが置かれています。

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ここで地元の観光ボランティアガイドさんの解説をお聞きしました。この龍雲寺は曹洞宗の寺院で山号は太田山。当初は正和元年(1312年)に鎌倉時代からこのあたりを支配していた豪族・大井氏が開いた曹洞宗の寺です。かつての大井庄で、その中心がここ岩村田でした。現在の寺院は、戦国期後期に武田信玄が佐久に進軍し大井氏を破った後に再建されたものです。

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ここは戦国時代を代表する武将・武田信玄とたいへんに所縁の深い寺院です。武田信玄は父・武田信虎の時代からここ龍雲寺の北高禅師と交流があり、信玄は禅師を深く信奉していました。「北高禅師に対する奉公は、信玄に対する奉公と同じである」という条目を定めたほどです。

天下統一を目標に、その第一歩として信濃攻略に心血を注いだ武田信玄は北信濃で越後の上杉謙信と数々の名勝負を繰り広げ、永禄4年(1561年)に行われた川中島の合戦は戦国史上最も名高い合戦と言われています。武田信玄もその川中島の合戦の後も着々と領土を拡げ天下統一を目指していったのですが、志半ばで病により生涯を閉じました。信州長野県というとどうしても上杉謙信のイメージが強いのですが、ここ佐久地域は武田信玄のテリトリーなのです。

寺の裏手に「信玄公霊廟」があります。

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武田信玄が京を目指して上洛の途上、病気が悪化して死去した際、その死を秘匿するために遺骨を生前信玄と親しかったこの龍雲寺に運び、ここに葬られたとされています。昭和6年(1931年)、ここで発見された骨壷から骨と短刀、袈裟環が出てきたのですが、なんと、これが武田信玄の遺骨であると確認されたのだそうです。その骨壺が発見された場所には「武田信玄霊廟」として五輪塔が建てられています。

なお、武田信玄の死は秘匿とされ、しばらく影武者が使われていたとされています。

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ちなみに、ここまでの証拠が揃っていながら、この龍雲寺の「武田信玄霊廟」は国(文部科学省)からは正式に認められておらず、国の史跡に指定されておりません。これが甲斐国(山梨県)にあったのなら間違いなく国の史跡に指定され、もしかしたら一大観光地になって多くの歴史好きの人々が訪れていたことでしょう。聞くところによると、山梨県の人達が龍雲寺から発掘された遺骨が武田信玄のものである事実を認めておらず、歴史学者も文部科学省もそうした山梨県の方々の声を意識して、正式に認めることを躊躇っているということのようです。信濃国(長野県)と言ってもこの佐久平周辺は武田信玄の領地だったのですがねぇ~。でも、こういう話が今も残るほど、武田信玄って凄い武将だったってことです。

そんな龍雲寺を後にして、旧中山道を先に進みます。

岩村田宿の中心はこのあたりでした。今は、アーケード付きの商店街となっています。今までずっと寂しい街を歩いてきたので、アーケードのある商店街に少し驚きます。近くに北陸新幹線の佐久平駅ができたりしたこともあるのでしょうが、高崎宿以来の都会的な商店街です。ですが、その分、宿場時代の面影が失われてしまっているのが街道歩きをする者にとってはちょっと残念な気がします。最近整備された商店街のようで、同じような看板造りの商店が連なっていて、それはそれでなかなか壮観です。

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信州と言えば“信州味噌”。その味噌蔵が岩倉田にもあります。「和泉屋商店」さんです。

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信州、特に岩村田における味噌作りの歴史は古く、鎌倉時代に南宋に留学した経験を持つ禅僧・覚心上人が岩倉田にある臨済宗の寺院・安養寺に自らが中国で学んできた味噌作りの技を伝えたことから信州における味噌作りが始まりました。これが安養寺味噌です。従って、この佐久地方は今や全国ブランドになった信州味噌発祥の地とも言えます。この岩村田にある和泉屋商店は、浦賀に黒船が来航した嘉永6年(1853年)に創業されたという老舗の味噌蔵ですが、平成16年、信州味噌のルーツでもある安養寺味噌を復活させたことで有名なのだそうです。安養寺の圃場で栽培した大豆を用いて、鎌倉時代に禅僧・覚心上人が伝えたままの技法により作ったホンマもんの安養寺味噌。その復活って、信州味噌発祥の地にある老舗のプライドってやつですね。素晴らしい!!

この奥の鬱蒼と茂る林のあるところが王城公園、大井城の跡です。大井城は承久3年(1221年)頃、清和源氏小笠原流大井氏の祖、大井朝光が大井庄の地頭としてこの地に居を構えて以来、文明16年(1484年)に落城するまで、佐久郡東北部を中心に勢力を振るった大井宗家の本拠地であったところです。

ちなみに、江戸時代、この地には信濃岩村田藩1万6千石(内藤氏)の藩庁が置かれていたのですが、城は築かれることはなく、写真でいうとこの王城公園の手前に岩村田陣屋が置かれ、その岩村田陣屋で藩政が行われました。

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この日の昼食は前日の夕食と同じく佐久ホテルさんでした。前日は観光バスで追分宿の分去れから強引にやって来ましたが、この日は街道歩きの中でごくごく自然に到着です。いわゆる「草鞋を脱ぐ」ってやつですね(笑)

この佐久ホテルは割本(わりもと)邸でした。割本とは、江戸時代、郡代・代官などの指揮の下に名主(庄屋)を支配して近隣の十数ヶ村から数十ヶ村を統轄し、年貢の割り当てや命令の伝達などを行った村役人のことです。割元総代とも割元庄屋と呼ばれることもあります。割本邸は、江戸時代、中山道を往来した大名や奉行などに宿泊や食事を提供したお屋敷のことで、本陣も脇本陣も置かれなかった岩村田宿においては、この割本邸が本陣、脇本陣の代わりでした。明治初年に佐久ホテルとなり、現在に至っている…と書かれています。なるほどぉ~。こういう古い歴史を持つところが今でもホテルとして営業しているわけです。中山道街道歩きのツアーとしては当然組み入れてくれないといけないところですし、前日に引き続いて2回使うのも大いに結構です。

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2日の昼食は佐久ホテル特製のお弁当。鯉の南蛮漬けに鮎の塩焼きも入って、お弁当といっても、とっても豪華です。若女将直筆の絵が添えられ、それぞれの品の説明が書かれています。こういうちょっとした心遣いに元々中山道を往来した大名や奉行などに宿泊や食事を提供した割本邸っていう歴史を感じさせてくれます。さすがです。

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……(その9)に続きます。

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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