2017/08/28

エッ! 邪馬台国は四国にあった?(その1)

私は3年前から郷里愛媛県の地元紙愛媛新聞社が運営する会員制Webサイト『愛媛新聞Online』でコラム『晴れ時々ちょっと横道』を毎月連載しているのですが、その『晴れ時々ちょっと横道』の昨年10月と11月に掲載した「エッ! 邪馬台国は四国にあった?」はあまりにセンセーションな題名と内容でしたので、地元愛媛県の読者の間でちょこっと話題になったようです。そのコラムの原稿を周囲の人にお見せしたところ、是非、全文をゆっくり読みたいというご希望が多数寄せられましたので、愛媛新聞社さんの許可を得て、このブログ『おちゃめ日記』の場でも掲載させていただきます。

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日本の古代史最大のロマンとも言える謎は『邪馬台国』とその女王『卑弥呼』。どなたも一度は邪馬台国や女王卑弥呼に心惹かれて、本等をお読みになったことがあるのではないでしょうか。特に、邪馬台国のあった場所。邪馬台国がどこにあったかということに関しては、長い間、議論が繰り返されていますが、いまだその結論は出ていません。現在は九州説と畿内説(近畿地方説)が有力ですが、その論争のもとになっているのが『魏志倭人伝』という中国の文書に残された邪馬台国についての文章です。

私はこの日本の古代史最大のロマンとも言える邪馬台国がどこにあったのかの謎について、理系のアプローチで挑んでみました。最初にお断りしておきますが、以下はあくまでも私の立てた大胆な仮説に過ぎません。

まず、基本に立ち返って、『魏志倭人伝』とは何かから始めます。

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「魏志(ぎし)」とは、今から1800年ほど昔、中国にあった魏(ぎ)という国の歴史書のことです。魏は三国志の中に出てくる有名な曹操が初代皇帝を務めた国です。また、「倭人(わじん)」とは倭(わ)の国の人、すなわち当時の日本人のことです。で、その『魏志倭人伝』ですが、そもそも『魏志倭人伝』という書物があるのかというと、実はそうではありません。『魏志倭人伝』は魏(初代皇帝:曹操)・蜀(初代皇帝:劉備)・呉(初代皇帝:孫権)の三国の間で中国の覇権を争った三国時代について書かれた歴史書「三国志」の中で、魏の国のことについて書かれた「魏書」、そのさらにその中の第30巻「烏丸鮮卑東夷伝」の一番最後に書かれている「倭人条」の呼び名です。「烏丸鮮卑東夷伝」は魏と交流のあった周辺諸国やそこに暮らす人々の暮らし等について書かれていて、烏丸、鮮卑、夫餘、高句麗、東沃沮、挹婁、濊、韓、倭の順番に登場し、夫餘以降が東夷、すなわち、中華世界の東の外側に居住していた諸民族のことを指しています。その中でも極東の島国である倭(日本)についての記述は一番最後に登場してきます。

つまり、『魏志倭人伝』は三国志のほんの一部に書かれた文章だということで、文字数はほんの約2,000文字程度しかありません。三国志は司馬炎(武帝)によって建てられた西晋が、魏・蜀・呉の中で最後まで残った呉を滅ぼして、後漢末期以降分裂していた中国を100年振りに統一した後の西暦280年~290年にかけて、西晋の「正史」として編纂されたものであるとされています。三国志といえば前述の曹操、劉備玄徳、孫権に加えて関羽、張飛、諸葛孔明、董卓、呂布、荀彧、さらには赤壁の戦いなどの戦闘が有名ですが、その中に当時の日本(倭國)のこともほんのちょっぴり書かれているってことなのです。

三国志は西晋の陳寿という官僚が、実際に魏から倭國(現在の日本)に行った人(おそらく魏の出先機関である帯方郡の役人か)の話を聞き、それをまとめて記したものです。魏志倭人伝の中には「〇〇(当時中国にあった地名)に似ている」とか「(中国における)〇〇のような風習である」というような感じの文章が幾つか出てきます。そのことから、あくまでも魏(中国)の人が見た倭國(日本)の姿ですので、倭(日本)に対する偏見や先入観が入った文章であることは否定できません。また、事前に記録を残すように指示されて書かれたものというわけではないので、移動した方角や距離に関しても結構大雑把で ザックリしたものだと捉える必要があります。しかしながら、この魏志倭人伝には、魏の領土で朝鮮半島北部ないし中部に当時あったと思われる帯方郡というところから邪馬台国に至るまでの道程と、邪馬台国の様子がかなり克明に記されています。紀行作家になることを秘かに目指している私は、この魏志倭人伝は有史以来第1級の紀行文、紀行文の傑作だと思っています。

また、『三国志』は西晋の「正史」、すなわち、西晋という国家によって公式に編纂された西晋王朝の歴史書です。「正史」である以上、そこには、西晋王朝が正統と認め、対外的に主張し、また国内的にも自国民の教育に使うための自国の政治の流れがまとめられています。「正史」という名称から「正しい歴史」の略と考えられがちですが、実際には事実と異なることも記載されていることが多々あります。理由は、「正史」はたいていの場合、一つの王朝が滅びた後、次代の王朝に仕える人々が著したものであることがほとんどで、新しい王朝の正統性を過度に主張したいあまり、真実の歴史から都合が悪いところを削除したり、粉飾したりすることがあるからです。『三国志』も「正史」である以上は間違いなくそういう部分はあろうかと思われますが、『三国志』の中の魏と倭國の関係について書かれた部分に関しては、西晋の王朝としての正統性を脅かすような部分がほとんど含まれていないことから、粉飾されたり改竄されたりしている部分は少ないと、私は思っています。また、「正史」として対外的に主張するということは、西晋以外の国の人も読むことがあるわけで、西晋の公式歴史書である以上、西晋の王朝としての面目もあることから、倭國をはじめ周辺国に関して書かれている部分の内容の信頼性は比較的高いのではないかと、私は思います。

魏志倭人伝の原文と私なりに翻訳してみた現代語訳を、今回のコラムの文中に幾つかご紹介します。魏志倭人伝はすべて漢字で書かれていて、句読点もなく章や節なども分けられていない文章ですが、高校で習う程度の漢文の知識があれば、かなりの部分、読み解くことができます。あまり難解な文章ではありません。よく読んでみると、魏志倭人伝はかなり整然とした構成をしていて、それぞれの内容が極めて簡潔にまとめられたビジネス文書としても一級品の文書であることが分かります。 この文書を読んで、「三国志」の編纂を担当した陳寿は、現代でもビジネスマンとして十分に通用する有能な逸材だと私は思いました。(ここに示す【原文】には、多少読みやすくするために、私なりに句読点を入れてみました。)

大まかに分けると、魏志倭人伝は次の3つの章に分けられます。

  第1章 倭國を形成する国々 (邪馬台国までの行程はここに出てきます)
  第2章 倭國の風俗
  第3章 倭國の政治と外交

倭國と邪馬台国、さらには魏との関係、女王・卑弥呼のことは第3章にあたる部分の冒頭に記載されています。

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【現代語訳1】
その国も、もともとは男子を王としていた。そのような状態が7~80年間ほど続き、倭国は乱れて、互いに攻撃しあうようになり、幾年かが過ぎた。そこで、1人の女子を共立して王にした。名前を卑弥呼という。鬼道を使いこなし、人々を惑わせる力があった。すでに年長であったが、夫はなく、弟がひとりおり、補佐して国を治めた。王となってから見たことがある者は少なく、千人の侍女をはべらせていた。ただ男子が1人いて、食べ物を運んだり、言葉を伝えたりして、居室に出入りしていた。宮室や楼観は城柵を厳重に設け、常に兵隊を配置して守っていた。
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ここに初めて「卑弥呼」という倭国の女王の名前が登場します。「卑弥呼」は漢字による当て字に過ぎず、漢字にさほどの意味はなく、陳寿が「ヒミコ」に似た響きを持つ漢字を適当に当てはめただけの名前だと思っています。それにしても、いくらなんでも「卑弥呼」はないでしょう。おそらく「ヒミコ」とは「ヒノミコ(日の神子:天照大神の血筋を引く御子)」という意味で、当て字をするならば、もうちょっとまともな当て字をしていただきたかったと思います。いくらなんでも“卑”はないですよね。ふざけるな!…と私は言いたい。ですが、今回のコラムでは混乱を避けるため、敢えて「卑弥呼」という漢字表記を使わせていただきます。

魏との関係については、次のような記述が見られます。

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【現代語訳2】
景初二年(西暦238年)6月、倭の女王は大夫の難升米たちを帯方郡に派遣して、天子に朝貢したいと求めた。太守の劉夏は使いを派遣して、魏の都(洛陽?)まで送らせた。
その年の12月、魏の皇帝は詔を下して倭の女王に答えて言った。親魏倭王卑弥呼と制詔する。帯方の太守劉夏が使者を派遣し、汝の大夫の難升米・次使都市牛利を送り、汝の献上した男の奴隷4人、女の奴隷6人、班布2匹2丈を持ってこさせた。汝の住んでいるところは遥かに遠いところであるにもかかわらず、使者を遣わし朝貢してくるのは、汝の忠孝を示すもので、私は汝をたいへん哀れむ。今、汝を親魏倭王として、金印紫綬を与えよう。それを封印して帯方郡太守に持たせて汝に与えよう。汝の種族を安んじて、孝順に勉めよ。
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ここに「景初2年」という年号が出てきます。この「景初2年」とは、調べてみると西暦238年のこと。魏志倭人伝は西暦280年から290 年代にかけて編纂されたものだとされていますので、書かれた時から40~50年ほど前の倭國のことを書いたものということになります。かなり近い時代のことを書いていますので、そういう意味では実際に魏から倭國(邪馬台国)に行った役人の体験や見聞に基づいたことがほとんどでしょうから、信憑性はかなり高いのではないかと考えられます。

さらに、こういう記述もあります。

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【現代語訳3】
正始元年(西暦240年)、太守である弓遵が、建中校尉の梯儁らを派遣し、詣書・印綬を捧げて倭国に到着して、倭王に与え、詔をもたらし金帛・錦織りの絨毯・刀・鏡・采物を下賜した。それに対し倭王は使者を送り、上表して詔に感謝した。
その4年(西暦243年)、倭王はまた大夫の伊声耆・掖邪狗ら八人を遣わして、生口・倭錦・青い上質の絹織物・真綿でできた衣・絹の布・丹・木フ ・短弓矢を献上した。掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。
その6年(西暦245年)、倭の難升米に黄幢(黄色い旗?)を下賜し、郡(の太守?)に託して授けた。
その8年(西暦247年)、太守王キ(オウキ)が着任した。倭の女王卑弥呼は、狗奴國の男王卑弥弓呼と以前から不仲であった。倭の載斯烏越らを帯方郡に遣わし、互いに攻撃しあっている状況を報告させた。(そこで帯方郡から)塞曹掾と史張政らを遣わし、詔書・黄幢を持って難升米に与え、檄文をつくってこれを告げさせた。
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ここからは魏と倭國(邪馬台国)の役人の往来がその後の約10年間で5回もあったというくらいに濃密なものであったことが読み取れますし、その後、国交が断絶されたという記述もないことから、その後も引き続き両国の役人の往来は続いていたのではないかと思われます。



……(その2)に続きます。