2017/10/04

中山道六十九次・街道歩き【第15回: 塩名田→長久保】(その10)

「石打場」の地名は奈良県や新潟県、群馬県などに見られ、「石打」は当て字で、「石内」が本字らしいとのことです。すなわち、「石内」とは「境界」または石敢当(せきかんとう)の意味があり、「災害除け」、または防御のための場所というのが本来の意味なのだそうです。この芦田の石打場周辺は、かつては旧芦田村と横鳥村の境にあたる場所でした。

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芦田宿を出ると途中には道祖神などがあり、その先は再び急な登り坂で、その坂を登って国道に突き当たったところに「芦田宿入口」の碑が立っています。国道を横切り常夜灯の前を過ぎると、見事な松並木が目に飛び込んできます。

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松並木の入り口付近には、菅笠を持った旅装姿の「母娘の道祖神」が立っています。これ、いいですねぇ~。

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長野県の天然記念物に指定されているだけに、素晴らしい松並木です。

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ここから笠取峠を越えます。笠取峠(かさどりとうげ)は長野県北佐久郡立科町と長野県小県郡長和町との境にある旧中山道(及び国道142号線)の峠で、中山道の宿場で見ると芦田宿と長久保宿の間に位置します。標高は900メートル。笠取峠の名称は、余りにも勾配が急な坂だったことから旅人が夏の暑い時など大量の汗をかき、頂上付近になるとついつい頭に被っていた笠を取って汗を拭いた事に由来しています。松並木が残り往時の面影を留めています。

この松並木ですが、慶長7年(1602年) )に中山道が整備された際、芦田宿から笠取峠までの間に小諸藩が江戸幕府から拝領した赤松753本を植えて保護しました。当時は東海道の「御油の松並木(ごゆのまつなみき:愛知県豊川市の御油宿と赤坂宿間)」と並ぶ見事なものだったと言われました。当時の松並木は笠取峠までの両側約1.6kmの長さがあったのですが、今も両側約1kmに渡って残り、「中山道随一の松並木」として地元の人々に愛されています。さらに、幕末から明治期にかけてのイギリスの外交官で駐日公使を務めたアーネスト・サトウ(Sir Ernest Mason Satow)は、その著書『日本旅行記』の中で、この笠取峠の松並木のことを「中山道において最も美しい風景の一つ」と記述しています。現在は国道142号線を迂回させ、この貴重な松並木を保護しています。

途中に道祖神や歌碑が幾つも並んでいます。

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地元の立科町山部の出身で、奇人とも言われた明治の教育者・保科五無斎が「遺言のうた」と題して立てた句碑です。

「我死なば 佐久の山部へ送るべし 焼いてなりとも 生でなりとも」

 保科五無斎 


気持ちは分かりますが、誰の目にも入る句碑として残さなくても…。

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優しい顔をした道祖神です。

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ホント見事な松並木です。このまま時代劇の映画やテレビドラマのロケで使えそうです。三度笠に道中合羽(かっぱ)、手甲(てっこう)・脚絆(きゃはん)、道中振分、そして草鞋(わらじ)といった股旅姿がこの風景には似合いそうです。“木枯し紋次郎”が「あっしにゃぁ関わりのねぇこってござんす」という決め台詞を残して、足早に通り過ぎていきそうです。フォークバンド「上條恒彦と六文銭」が歌ったテレビドラマ「木枯し紋次郎」の主題歌『だれかが風の中で』が頭の中でリフレインしてきます。その力強く希望に満ちた歌詞と、西部劇のテーマ曲を思わせるような軽快なメロディーはこの松並木が続く景色とはいささかマッチしませんが、それでも流れ者の博徒が主役の“股旅物”と言えば“木枯し紋次郎”というのが定番の私の世代ではOKです。

この日はよく晴れて、上から照りつける真夏の太陽で暑いのですが、松並木の中は日陰ができていて、歩きやすいです。街道沿いに並木を作ったのは、このためだったんでしょうね。並木道の意義を身体で実感します。

約2ヶ月前に碓氷峠を越えた時、また約1ヶ月前に軽井沢宿から塩名田宿まで歩いた時、ハルゼミ(春蝉)の鳴き声がずっと聞こえていたのですが、この日は同じセミ(蝉)でも種類が違っています。アブラゼミにニイニイゼミ、時折、カナカナカナ…というヒグラシの鳴き声も聞こえてきます。こういうところに微妙な季節の移ろいを感じます。

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若山牧水の歌碑が立っています。

老松の 風にまぎれず 啼く鷹の 聾かなしけれ 
風白き峰に 岨道の きわまりぬれば
赤ら松 峰越の風に うちなびきつつ

牧水


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約1km続く松並木のほぼ中間に松並木公園があります。昔、ここにはちょっとした出茶屋が置かれ、峠の頂上には大きな立場茶屋が置かれていました。ここでちょっと水分補給のための一休みです。この日は陽射しが強く、年配者が多いので熱中症が心配で、こまめに水分補給のための休憩をとります。並木越しに浅間山が遠望できます。前日に見た浅間山と比べ、少し小さく見えるようになってきました。かなり歩いてきたことを実感します。

その松並木公園の一角に「金明水」と名付けられた水場が造られています。江戸時代、笠取峠の頂上付近の峠の茶屋小松屋にあった水場を再現したものだそうです。峠の頂上付近には「金明水」に加えて「銀明水」もあり、その跡が残っているそうです。

また、この休憩所には「和宮東下の行列」や「笠取峠の茶屋風景」などのレリーフ、さらには「松並木説明板」や「歌碑」などがあり、なかなか見所が多いところです。

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松並木公園を過ぎると国道142号線の笠取バイパスを横断します。和田峠を越えて長野県の軽井沢町と下諏訪町を結ぶ国道142号線は上田・佐久地域と諏訪地域を結ぶ主要道路です。また北関東と東海・関西を結ぶ最短経路として、大型トラックの通行が多い路線でもあります。にも関わらず、ここには信号機はおろか横断歩道すらありません。ちょっとスリリングな横断を余儀なくされます。

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道路を渡ってから振り返ると、小県領(上田藩)と佐久領(小諸藩)との境界を示す領界碑(従是東小諸領)や道祖神、常夜灯が復元され、中山道の左右に立っています。

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松並木碑です。前述のように、この笠取峠の松並木は江戸初期に753本植えられ、その後の調査では、大正13年(1924年)に229本、昭和46年(1971年)には129本が確認され、平成22年(2010年)3月現在の調査では70本の古木が現存しています。現在はそれよりも数を減らしているようですが、それでも中山道随一って呼ばれるほどの立派な松並木です。

現在松並木があったところもかつては国道142号線が走っていたようなのですが、国道142号線笠取バイパスの完成後は旧道となり、江戸時代から脈々と続く松並木周辺を再整備(復元)して公園化し、併せて長野県の天然記念物にも指定して、後世へと伝承できるように大切に保護しているようです。

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やがて松並木は国道142号線に合流し、峠のサミット(頂上)まではキツイ登り坂が続きます。元々旧中山道は山道の連続で、坂が多いのが特徴ですが、この笠取峠もその1つ。昔の旅人は雨が降れば滑るこの坂を登り下りすることは本当に大変だったろうと思います。今歩いてみても、いささかキツク感じますから。この笠取峠、碓氷峠ほどではないですが、難所です。

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安藤(歌川)広重が中山道六十九次の各宿場を描いた有名な浮世絵「木曽海道六拾九次」で、芦田宿を描いた絵が下の左側の絵で、望月宿を描いた絵が右側です。この2つの絵、よく見るとどこかおかしいのです。

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芦田宿を描いた絵は明らかにこの笠取峠を描いたもので、峠の頂上と下に出茶屋が描かれています。しかしながら、道の両側に描かれている樹木は杉並木のようにしか見えません。ここまで歩いてくると分かるように、笠取峠の名物は立派な赤松の松並木で、前述のように、今や長野県の天然記念物にも指定されているほどです。

いっぽう、望月宿で描かれているのは八幡宿(茂田井の間の宿)と望月宿の間にある瓜生坂と思われます。しかしながら、この瓜生坂には立派な松並木が描かれています。瓜生坂は昨日通ったのですが、松並木は1箇所もありませんでした。杉の木もあるにはありましたが、杉並木というほどのものではありませんでした。まぁ~鬱蒼と茂る木々の中を歩いたのは確かですが…。

これは明らかに取り違えでしょうね。これから類推するに、安藤広重は直接現地に出向いて自分の目で見て、スケッチなどをして各宿場の絵を描いたのではなく、あくまでも訪れたことのある人から聞いた話をもとに頭の中でイメージした光景を描いたのではないでしょうか。だから、うっかり芦田宿の笠取峠に杉並木を、望月宿の瓜生坂に松並木を描いちゃったのでしょう。まぁ~、当時は売れっ子の浮世絵絵師だったので、現地を取材する時間もなかったのでしょう。

街道歩きはある程度まとまって隊列を組んで歩くのですが、さすがにこの長い登り坂はキツイので、隊列が長~く伸びてきました。年配の参加者が多いので、熱中症が心配です。こまめに水分補給を行いながら、坂を登ります。

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野草のゼンマイです。いっぱい生えているのですが、誰も採ろうとはしません。そんな余裕はまったくなくなってきました。

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国道142号線はここから登坂車線が設けられます。一般国道で登坂車線が設けられるということは、それだけ急な登り坂が長く続くということです。この笠取峠はまさにそういう坂です。怯むような急な坂ではないのですが、これだけ登り坂が長く続くとボクシングにおけるボディーブローのようにダメージが効いてきます。おまけに上からは真夏の直射日光が容赦なく照りつけて、相当にキツイです。

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江戸の日本橋を出てから47番目の一里塚「笠取峠一里塚」です。峠に近い傾斜地に北塚のみが残っています。一里塚といえば、榎の木を植えるのが定番ですが、この笠取峠一里塚では塚の上に赤松、その横に枝垂れ桜が植えられています。

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笠取峠一里塚の近くにある民家の軒下にでっかいスズメ蜂の巣がありました。ここまで大きくなるとスズメ蜂もいっぱい潜んでいそうで、ちょっと心配になります。

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登坂車線がやっと終わりです。この案内標識を見て、私もホッと一安心しました。ここまで直射日光に曝される中、ダラダラ坂をただひたすら黙々と登ってきたので、さすがに疲労もピークに近づいています。この登坂車線の終わりの標識は、この長い登りがまもなく終わるということを意味していますからね。それだけキツイ登り坂でした。

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英国人アーネスト・サトウが絶賛した笠取峠のサミット(頂上)です。標高は900メートル。旅人が少しキツい登り坂で暑さと疲れのあまり、皆いつの間にか笠を取っていることから「笠取峠」と呼ばれるようになったと伝えられているのですが、まさにこの日は暑く、汗でビッショリになったので、私も登り終えた時に思わず帽子を取ってしまいました。やれやれ、ふぅ~~~~~~。

登り坂と言っても碓氷峠への道ほどの急傾斜ではなく、路面も舗装してあって歩きやすいのですが、とにかく登りの距離が長い。しかも真夏の直射日光が容赦なく照り付ける炎天下。碓氷峠の場合には道幅が狭く、左右の木々が日陰を作ってくれるので、暑さにやられることはなかったのですが、この笠取峠はそうはいきませんでした。どのくらいペットボトルの水を飲んだことか。碓氷峠を越えてきた者としては、若干油断していた(ナメてかかっていた)ところもあります。碓氷峠は中山道最大の難所と呼ばれ、登るにあたっては相当に覚悟してから登ったので、中山道最大の難所と呼ばれていても、まぁ~大丈夫だったのですが、この笠取峠はその油断を突かれたようなところがあります。とにかくキツかったです。ここも難所です。中山道は、どこもナメてかかってはいけないってことのようです。

笠取峠のサミットには復元された領界石が置かれています。佐久と小県の領境の笠取峠にあったものの復元品です。実物は小諸市の小諸懐古園に移され、展示されています。ここから下りとなります。

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下りに入ってすぐに「峠乃茶屋小松屋」があります。前述のように、ここには、当時、大規模な立場茶屋が置かれていました。この「峠乃茶屋小松屋」は今も営業をしています。元々は峠の東側、すなわち、手前側にありました。

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笠取峠の頂上(サミット)にある峠の茶屋付近には、その昔旅人達の喉を潤していた「金明水」、「銀明水」と呼ばれる清水がありました。残念ながら今はどちらも枯れているようですが、かつて旅人達の喉を潤した清水のあった場所には木標が立っています。どちらも林の中で、下草が鬱蒼と茂る今は近くまで行けませんが、手前が銀明水、奥が金明水です。

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峠の茶屋に到着したので、ここでお昼休みの昼食です。昼食は、この峠の茶屋ではなくて、ここから観光バスに乗って、この日のゴールである長久保宿に近い長野県長和町の国道152号線沿いにある「道の駅マルメロの駅ながと」に移動し、そこの駐車場に観光バスを停めて、お弁当をいただきました。

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私は目敏く藤棚を見つけて、その木陰でお弁当を広げました。日向(ひなた)は直射日光が照りつけてメチャメチャ暑いのですが、日陰に入ると青々とした田圃を渡ってくる風が心地良いです。

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ここで気になるのが長和町という町名。この長野県小県郡長和町(ながわまち)は平成17年(2005年)、近隣の長門町、和田村が合併して発足した自治体です。町名は長門町、和田村両町村の頭文字より採って命名されました。それ以前に長門町は昭和31年(1956年)、近隣の長久保新町、長窪古町、大門村が合併して発足した自治体で、長窪古町と長久保新町の「長」と大門村の「門」より採って命名されました。なので、中山道の長久保宿と和田宿が合併してできた自治体だと理解すればいいようです。

先ほどまで笠取峠の長く急な坂を登ってきて汗ビッショリになっていたので、ここで上着を着替えました。着替えをしたトイレのところにツバメ(燕)の巣があります。1ヶ月前の【第14回】でもツバメの巣を幾つか見掛けたのですが、その時はまだ卵から孵化したばかりのような小さなヒナ(雛)だったのですが、1ヶ月経って随分大きく育ってきたようです。巣から顔を出して競うように親鳥が運んでくる餌を食べています。きっと、あと半月もするとこの巣から巣立っていくのでしょうね。

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……(その11)に続きます。

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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