2017/10/20

日光街道ダイジェストウォーク【今市宿→大沢宿】(その1)

8月24日(木)、夏休みをいただいて、日光街道ダイジェストウォークの【第2回】、今市宿から大沢宿を歩いてきました。

今年の夏は例年と異なり太平洋高気圧の勢力が弱く、そのいっぽうでオホーツク海高気圧の勢力が強いため、関東地方から東北地方にかけての東日本の太平洋側ではぐずついた天気が続き、曇りや雨の日が多くなっていました。東京の都心でも微量の小雨も含めると22日間連続で降水を観測し、気象庁の発表によると、東京都心では統計のある昭和43年以降、8月中の連続日数としては昭和52年と同じく最多タイの記録になりました。

ぐずついた天気が続き、曇りや雨の日が多かったことで、8月に入って以降、東日本各地の気温は例年よりも低めで推移し、日照時間の不足も相まって農作物の育成にも影響が出るほどだったのですが、今週に入ってから(8月20日以降)北海道の北に停滞して猛威をふるったオホーツク海高気圧が日本列島の東の海上に抜けて、勢力も徐々に弱まってきたため、太平洋高気圧の勢力が徐々に強まって日本列島上空に張り出してきたため前日の8月23日(水)あたりから夏らしい猛暑が戻ってきました。

この日(8月24日)も関東地方は太平洋高気圧に覆われて晴れの予報が出ていました。しかも、各地で日中の最高気温が35℃を越える「猛暑日」になることが予想され、気象庁が高温注意情報を出して、熱中症に十分注意するよう呼びかけるほどでした。このところ日中の最高気温が30℃を越える「真夏日」になる日が少なかったので、いきなりの「猛暑日」の到来に自律神経の調整が追いついていかないほどで、朝から強い陽射しと暑さで目がクラクラするほどでした。くれぐれも熱中症には注意しないといけません。「晴れ男のレジェンド」はこの日も健在ってところですが、さすがに目がクラクラするほどまでの晴れは、いらないのですが……。

また、こういう日は大気の状態が不安定になりがちで、ましてや日光周辺は日光連山が迫った丘陵地帯にあるので、積乱雲の発生による突然の雷雨に注意しないといけません。この日もリュックサックには上下セパレートタイプとポンチョタイプの2種類のレインコートを用意しておきました。

この日のスタートポイントは前回【日光東照宮→今市宿】のゴールであった「今市宿 市縁ひろば」です。

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「今市宿 市縁ひろば」の駐車場で入念なストレッチをして街道歩きを開始しました。日光街道は現在の国道119号線を歩きます。

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日光道中(日光街道)において江戸の日本橋を出てから20番目の宿場が今市宿です。前述のように、この今市宿には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠21軒がありました。“今市”という地名は、江戸時代にここで新しく市が立ったことに因むのだそうです。古くから交通の要衝で、日光道中(日光街道)、日光例幣使街道、会津西街道の追分(分岐・合流点)にある宿場町で市場町でした。典型的な谷口集落である今市は下野国(現在の栃木県)内屈指の材木集散地で、建具、木彫品、木炭、線香等を産していました。特に線香は、材料である杉葉と豊富な水車動力との組合せを活かしたこの地の名産でした。

「今市宿 市縁ひろば」の道路を挟んで向かい側を少し奥に入ったところには、今市宿の鎮守である瀧尾神社があります。戊辰戦争の「今市の戦い」による戦火で本殿や資料をはじめすべて焼失してしまい、創建年代などは不祥とのことだそうです。

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ここが会津西街道(現在の国道121号線)との追分(分岐・合流点)です。この道が、かつての会津西街道で、江戸時代に会津藩主・保科正之によって整備されました。経路は会津の若松城下(現在の福島県会津若松市)から下野国の今市(現在の栃木県日光市今市)までの全長約130kmに及び、現在の福島県道131号下郷会津本郷線、国道121号線に沿っています。会津西街道は関東側における呼称で、会津側からは下野街道、あるいは南山通り(みなみやまどおり)とも称されていました。江戸時代には会津藩、新発田藩、村上藩、庄内藩、米沢藩などの大名の参勤交代や江戸と会津以北の東北地方を結ぶ物流の道として極めて重要な街道でした。

明治17年(1884年)、会津西街道に代わる新道、会津三方道路(国道121号の前身)が整備されたことに伴い、主要街道としての機能は衰退していきました。途中にある大内宿は「半農半宿」の宿場で、現在でもその雰囲気をよく残していることから、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。私もかつて訪れたことがあるのですが、田園の中を進む旧街道沿いに茅葺き民家の街割りが整然と並ぶ様に感動したのを覚えています。

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会津西街道(国道121号線)の交差点の右側に「日光みそのたまり漬」で有名な上澤梅太郎商店があります。このお店は「日光のたまり漬け」なのだそうです。

今市宿は戊辰戦争の「今市の戦い」による戦火で町並みのほとんどが焼失されているとはいえ、中にはこういう古い商家も残っています。

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今市宿市緑ひろばの総合案内所でいただいてきた「今市まち歩きマップ」によると、国道121号線から2本先のこの細い道路が昔の会津西街道の起点で、「相の道」と呼ばれた道路のようです。

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かつてこのあたりに今市宿の本陣があったのだそうです。

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本陣跡の前に美味しい「いまいちの水」(伏流水)と表記された水飲み場があります。この場所は洒落た休憩場となっています。

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本陣跡から道路を隔てて反対側に立つ石柱には星顕山如来寺という文字が刻まれています。この道を少し入った奥に如来寺があります。この寺は室町時代中期に創建された浄土宗の寺院で、江戸時代には東照宮御造営の際、徳川第三代将軍家光が宿泊するために壮大な御殿が境内に建てられました。 また、安政3年(1856年)に、報徳仕法の祖であり、今市の農村を復興した二宮尊徳翁がこの地で死去された際、葬儀が執り行われた寺でもあります。

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この「道の駅日光 日光街道 ニコニコ本陣」には「日本こころのうたミュージアム・船村徹記念館」が併設して建っています。

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船村徹さんは私が改めてご紹介するまでもなく、戦後歌謡界を代表する作曲家のお一人です。船村徹さんは日光市の隣の栃木県塩谷郡船生村(現塩谷町)のご出身。栃木県立今市中学校(現栃木県立今市高校)、東洋音楽学校(現東京音楽大学)ピアノ科をご卒業され、米軍キャンプ専門のバンドでそのリーダーを務めるかたわら作曲家としての活動を開始。昭和30年(1955年)12月にリリースされ春日八郎さんの代表曲の1つとなった「別れの一本杉」の作曲で一躍注目を集めました。

その後、村田英雄さんの代表曲の1つ「王将」や、北島三郎さんが歌って大ヒットした「なみだ船」や「風雪ながれ旅」、美空ひばりさんが歌った「哀愁波止場」や「みだれ髪」、鳥羽一郎さんが歌った「兄弟船」、島倉千代子さんが歌った「東京だよおっ母さん」、ちあきなおみさんや細川たかしさんが歌った「矢切の渡し」などなど、手掛けた楽曲は5,000曲以上にのぼります。また、歌手の育成にも力を注がれ、育てた愛弟子には、北島三郎さん、鳥羽一郎さん、大下八郎さん、香田晋さん等、演歌界の錚々たる顔ぶれが並んでいます。

1995年に紫綬褒章を受章されたほか、2002年には栃木県県民栄誉賞を受賞。2003年、旭日中綬章を受章。2008年、文化功労者。2014年、栃木県名誉県民となり、昨年、平成28年(2016年)には作曲家として初めて文化勲章を受章しました。今年(2017年)2月16日の午前11時頃、神奈川県藤沢市の自邸の寝室で倒れているところを発見され、藤沢市内の病院へ救急搬送されましたが午後0時35分に心不全のため死去なさいました。享年84歳でした。

「日本こころのうたミュージアム・船村徹記念館」は、鉄筋コンクリート3階建て、延べ約2,800平方メートルの大きな建物で。1階の「夢劇場」では、船村徹さんの生い立ちや活躍を最新の映像技術で紹介しているほか。2階には「王将」「みだれ髪」「兄弟船」など船村の代表作が聴けるメロディーボックスや、多くの歌手の皆さんと船村徹さんとのエピソードを映像化したシアターが設置されているのだそうです。

この「道の駅日光 日光街道 ニコニコ本陣」の裏側に「報徳二宮神社」があります。前述のように、二宮尊徳翁は相模国小田原の生まれですが、晩年の約3年間、日光山領の農政指導を行い、ここ今市で安政3年(1856年)に没しました。その二宮尊徳翁を祭神として祀って、この報徳二宮神社が創建されました。また、報徳二宮神社の裏には二宮尊徳翁の墓があり、銅像が立っています。またその背後には「報徳文庫」という建物が建っていて、二宮尊徳翁関連の書籍や遺品が集められ、保存されています。時間の関係で立ち寄るのはパスさせていただきました。

国道119号線を先に進みます。

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日光例幣使街道との追分(分岐・合流点)です。現在3本の道がここで合流しています。左に延びる杉並木が旧日光街道で、真ん中の道が現在の日光街道(国道119号線)。そして追分地蔵尊を挟んで、右側の道が日光例幣使街道です。日光例幣使街道も見事な杉並木の続いています。日光例幣使街道は、旧中山道の倉賀野宿から別れ、太田、栃木、鹿沼を経て、ここで日光街道と合流しています。

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中山道六十九次・街道歩き【第10回: 新町→高崎】(その3)

日光街道と日光例幣使街道の追分には、高さ約2メートルの大きな追分地蔵尊(石造地蔵菩薩坐像)が立っています。東日本有数の巨像で、制作年代は不祥とのことのようですが、8代将軍徳川吉宗の日光参拝の時には、既にこの地にあったと記録されているのだそうです。それにしても、日光例幣使街道が中山道から分かれる倉賀野宿の追分に建っているのが閻魔堂で、この今市宿の日光街道との追分に立っているのがデッカイ地蔵菩薩尊ですか…。なにか意味がありそうです。

また、この巨大な地蔵尊の背中には石ノミで刻まれた幾つかの傷があり、添乗員さんから説明を受けたのですが、ちょっと失念しちゃいました。

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ここからは前回の鉢石宿~今市宿の区間同様、立派な杉並木の街道の中を歩いていきます。

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前回の鉢石宿~今市宿の区間同様、見事な杉並木です。

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植林にあたっては倒木を防ぐため、「四本杉」といって4本の杉の木を固めて植える植樹法だったのだそうです。

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この区間も道路の両脇には用水路が流れています。用水路を流れる水は透き通っていて、綺麗です。

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ほどなく東武鉄道日光線のガードの下を潜ります。ちょうどその時、東武鉄道が誇る特急電車スペーシアが通り過ぎていきました。東武日光駅行きの「けごん」でしょうか、鬼怒川温泉駅行きの「きぬ」でしょうか。東武鉄道日光線は次の下今市駅で新藤原駅までの東武鬼怒川線が分岐し、鬼怒川温泉駅はその東武鬼怒川線の途中にあります。また東武鬼怒川線は終点の新藤原駅で第三セクターの野岩鉄道(やがんてつどう)線と、さらに野岩鉄道の終点の会津高原尾瀬口駅で同じく第三セクターの会津鉄道線と、その会津鉄道線は終点の西若松駅でJR只見線と連絡していて、会津若松駅まで繋がっています。会津鉄道線の会津田島駅までは電化されているため、特急の「リバティ会津」号が東京の浅草駅と会津田島駅を直通で結んでいます。藤原宿も田島宿も旧会津西街道の宿場町です。この東武鬼怒川線、野岩鉄道線、会津鉄道線を経由して会津若松に至る鉄道ルートは、旧会津西街道の再現のようなものになっています。鉄道マニアで街道マニアとしては、これはまた乗りにこないといけません。

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ちなみに、東武鉄道では、今年(2017年)8月10日から、下今市駅~鬼怒川温泉駅間の東武鬼怒川線でC11型蒸気機関車(SL)を使用したSL列車「大樹」を土休日を中心に1日3往復運転を開始しました。東武鉄道における蒸気機関車の運転は、昭和41年(1966年)に佐野線での運転を最後に廃止されてから約51年ぶりの再開となりました。鉄道マニア注目の路線です。いいですねぇ~。

ヤマアジサイです。杉並木の下草のように街道の両脇にはヤマアジサイが植えられ、小さな花を咲かせています。このヤマアジサイは野生のものなのでしょうか? それとも杉並木と同様、人工的に植えられたものなのでしょうか?

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葉っぱの上にアマガエルが休んでいます。ちょっと絵になる光景です。

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……(その2)に続きます。

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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