2017/12/06

中山道六十九次・街道歩き【第17回: 和田峠→岡谷】(その11)

中山道から少し離れたところに武家住宅である渡辺家があります。渡辺家は、代々高島藩(諏訪藩)主に仕えた散居武士(城下町ではなく在郷の村々に住んだ藩士)の家で、この建物が建てられたのは18世紀中頃だそうで、その後19世紀中頃に改築されています。現存する武士の家としては、全国的にも大変に貴重なものであり、長野県の“県宝”に指定されています。また、この家からは3人の大臣が生まれているのだそうです。その3人の大臣とは、渡辺千秋(宮内大臣)、その弟の渡辺国武(大蔵大臣・逓信大臣)、千秋の三男の渡辺千冬(司法大臣)で、内部にはその3人の大臣の関係資料が展示されているのだそうです。時間の関係で外から眺めるだけで、立ち寄りませんでした。

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平福寺です。寺の創建は古く、弘法大師の密教を擁護する道場であったと伝えられています。もともとは横河川の左岸にあったのですが、天正年間(1573年以降)に、織田信長軍の兵火のために全焼してしまって礎石を残すのみとなり、一度再建されたものの、今度は慶長年間(1596年以降)に洪水で流され、横河川左岸の地を捨て、現在の地に移転してきたと伝えられています。

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この平福寺に祀られているのが日限地蔵尊(ひぎりじぞうそん)。通称“おひぎりさま”。この日限地蔵尊は「日を限って一心に願掛けすれば、不思議にも聞き届けてくださる」ということで知られ、日々多くの人が参拝に訪ずれるのだそうです。毎月23日の縁日、特に4月の例大祭には、大般若法要が行われ、桜の咲きほころぶ中、露店や青空市が立ち並ぶのだそうです。

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旧街道らしい雰囲気の残る道を先に進みます。

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平福寺の先の十字路の角に道標が立っています。道標には「右中仙道 左いなみち」という文字が刻まれています。伊那街道との分岐点(追分)を示す道標で、寛政3年(1791年)に立てられたものだそうです。

住所表記板に「岡谷市長地柴宮二丁目」という地名が書かれています。確か諏訪大社下社春宮を建造した大隅流の宮大工の棟梁の名前が「柴宮長左衛門」でした。この柴宮と関係のある方なのでしょうか…。

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製糸業というとUNESCOの世界文化遺産に登録された「富岡製糸場と絹産業遺産群」のある群馬県富岡市が有名ですが、ここ長野県岡谷市もかつて製糸生産高が国内の4分の1を占めたというほど製糸業が栄えた地です。小学校の社会科の授業で、諏訪地方、特に岡谷市は製糸業が盛ん…と習ったような記憶があります。ですが、このあたりは同じ岡谷市でもそういう感じはしません。あくまでも落ち着いた旧家が建ち並ぶ旧街道筋って雰囲気です。

ちなみに岡谷市は明治7年(1874年)に筑摩県諏訪郡岡谷村・小口村・小井川村・今井村・若宮新田村・小梅沢新田村・西堀村の7村が合併して平野村となり、その平野村が昭和11年(1936年)に市制施行する際に改称して岡谷市となったものです。地図を眺めてみると諏訪湖に面したところから、少し内陸に入った標高の高いところまであり、この先、塩尻峠を越えていく中山道は標高の高いところを通っているので、同じ岡谷市であっても製糸業が栄えた地区とは少し離れているようです。製糸業が栄えたのは諏訪湖に面した地区のようですから。

緑に囲まれた家並が続きます。かつての中山道もこんな風景だったのでしょうか?

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ナツメ(棗)の実です。ナツメは中華料理などでは干したものが使われるので知られています。日本ではあまり食用とされてはいませんが、庭園樹などに用いられていることが多いようです。

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東堀の交差点で国道20号線を斜めに横切り、旧道を進みます。

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道標の少し先に、江戸の日本橋から数えて中山道56番目の一里塚である「東堀一里塚」跡碑が立っています。街道から離れた北側に2つの塚があったそうなのですが、今は塚はなくなり、この碑のみが残っているだけです。

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おやおや、かなり手の込んだ庭をお持ちのお宅です。門は生け垣になっていて、上からは瓢箪(ヒョウタン)の実が下がっています。ここまで手入れするのは大変だろう…と思ってしまいます。そのお隣の家では柿がちょうど食べ頃に実っています。美味しそうです。早く採って食べてしまわないと、野鳥が寄ってきて突かれてしまいますよ…と余計なことを考えてしまいます。

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緩やかな登りの道が続きます。道端には、道祖神や天満宮などの石塔が散見されます。

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正面に塩尻峠の山並みを眺めながら先を進み、横河川に架かる大橋を渡ります。橋の上から左側を見ると、諏訪湖を望むことができます。

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道祖神をはじめとした石塔群があります。諏訪大社を模したのか御神木と思しき杉の木も植えられ、周囲には四隅に御柱のような木の柱が立ち、注連縄で結界が作られています。

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民家の中に白い漆喰の土蔵を組み込む「建グルミ(たてぐるみ)」と呼ばれる諏訪地方特有の建築が点在しています。それぞれの蔵には家名や字名(あざな)を示す文字が掲げられています。

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緩やかな上り坂を登っていきます。沿道は旧街道らしい佇まいの家並みが続きます。

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横河川を渡ったあたりから旧今井村に入ります。その名も「今井中山道」というバス停が立っています。

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旧今井村は中山道塩尻峠の東の入り口にあって、古来交通の要衝として栄えたところです。中山道の沿道には蔵を持った大きなお屋敷のような民家が幾つも見受けられます。

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おや、こんなところに男女の双体道祖神像が立っています。

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横河川を渡り15分ほど歩くと、左手に「今井番所跡碑」が立っています。ここでは高嶋(諏訪)藩が設けた米穀の不正搬出などを取り締まる穀留番所と、江戸幕府の関所に相当する口留番所の両面で検問を行っていました。なので、ここを通過するためには高嶋藩の手形が必要でした。この番所には高嶋藩の出役が交替で勤め、添役として村役人の名主や年寄りが当たったそうです。当時、幕府は諸大名が勝手に関所を設けることを禁じていたのですが、藩側も治安上の理由から関所に相当する施設を必要としていたので、「関所」の名称を避けて「番所」の体裁で設置したのが口留番所なのだそうです。

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今井番所跡の向かい側に堂々たる門構えの建物があります。旧今井村には当時4軒の茶屋があり、四ツ家立場と呼ばれていました。ここは茶屋本陣が設けられていたところで、江戸末期の本棟造りで、玄関などが今に残されています。塩尻峠を越えてきた尾張徳川家をはじめとした多くの大名や皇女和宮、そして明治天皇もこの今井茶屋本陣で休憩を取られています。茶屋本陣の向かいに「明治天皇今井御膳水碑」が立っています。この今井茶屋本陣からは遠くに富士山が遠望でき、富士見茶屋という別名でも呼ばれていたそうです。

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中山道の道標が立っています。「右しもすは 左しほじり峠」と刻まれています。

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道標を過ぎると家並みが途切れてきます。ここから塩尻峠に向けての登りが始まるようです。

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今回の中山道六十九次・街道歩きはここまで。左の写真で、真っ直ぐ延びているのが中山道で、この先が塩尻峠になります。私達はこの三叉路を左折し、国道20号線沿いのコンビニの駐車場へ。そこがこの日のゴール地点でした。

この日は1日中雨の中での街道歩きでした。とは言え、ずっと時間雨量1ミリ以下と思える小雨だったのがせめてもの救いでした。救いと言えば、この翌週の10月21日(土)、22日(日)は超大型で強い台風21号の接近の影響で東日本も大荒れの天気となり、今回の中山道六十九次街道歩きの【第17回】が1週間後の開催であったなら、【第16回】に引き続き中止になったか、催行したとしても悲惨な状況下での街道歩きになったような気がします。その意味で、「晴れ男のレジェンド」の神通力は辛うじて残っている…と前向きに考えるしかないな…と思っています。

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このコンビニは長野自動車道の岡谷インターチェンジのすぐ傍にあり、すぐに長野自動車道に乗ることができます。帰りは、岡谷インターチェンジから長野自動車道、さらにはそのすぐ先の岡谷ジャンクションで中央自動車道に入って、JR新宿駅西口を目指しました。池袋駅西口から和田峠までやって来るまでは関越自動車道→上信越自動車道→中部横断自動車道→国道142号線というルートを使ったのですが、帰りは中央自動車道を使って新宿駅西口を目指す…。前日、JR中央本線のE351系「スーパーあずさ」を見て、違和感を覚えた…ということを書きましたが、この中央自動車道を使って…というルートにも違和感を覚えてしまいます。

考えてみれば、東京から諏訪地方までやって来るにはJR中央本線や中央自動車道といった甲州街道沿いを走る経路のほうがよっぽど距離が短くて便利だと思うのですが、それでも昔は中山道のほうが幹線ルートだったのですね。甲州街道のほうが便利だと思うのはあくまでも現代人の感覚であって、昔の人にとってはそうではなかったってことなのでしょう。その証拠が宿場の数に現れているように思います。下諏訪宿は、中山道六十九次のうち江戸日本橋から数えて29番目にあたる宿場で、同時に甲州街道の江戸日本橋から数えて39番目で終点にあたる宿場でもあるということを書きました。同じ江戸日本橋~下諏訪宿でありながら、中山道に比べて甲州街道は10個も宿場の数が多いのです。宿場が多いということは、それだけ道が険しく、たくさんの休む場所を必要とする…ということを意味します。なるほどぉ~。

そう考えると、甲州街道に大いに興味が湧いてきました。中山道と並行して甲州街道も江戸日本橋から終点の下諏訪宿を目指して歩いてみるのも面白いかも…と思ってきました。

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この日は21,891歩、距離にして16.0km歩きました。次回【第18回】は、今回のゴールだった岡谷インターチェンジ付近のコンビニ前をスタートし、諏訪盆地と松本平を分ける塩尻峠を越え、塩尻宿へ。さらに中山道と善光寺道との追分がある洗馬宿や当時の旅籠の姿を色濃く残した民家がある本山宿を経て、木曽路の北の入口である贄川宿まで歩きます。今回の【第17回】は下諏訪宿1宿だけでしたが、次回【第18回】は4つの宿場を巡ります。そして、ついに木曽路の北の入口にまで到達します。



――――――――〔完結〕――――――――


執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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