2017/12/25

中山道六十九次・街道歩き【第18回: 岡谷→贄川宿】(その8)

洗馬宿は、松本盆地の南端、標高750メートル前後の奈良井川右岸に置かれた中山道の江戸・日本橋から数えて31番目の宿場町です。慶長18年(1613年)に、下諏訪宿から小野宿・牛首峠経由で贄川宿に至る旧中山道が廃止された翌年の慶長19年(1614年)、塩尻峠経由の路線が新たに中山道として設定された際、塩尻宿や本山宿とともに新設された宿場で、当時の洗馬は上の段を大怒田、下の段を新町と呼び、これらの村や近郷から人々を集めて宿場造りが行われました。上町・中町・下町(伊勢町)に分かれ、平均3間間口を1軒役として、計画的に屋敷割りがなされました。

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その際、宿場の南には新福寺と上神明宮、宿場の北には下神明宮が置かれました。いっぽう、先ほど通ってきた宿場の北方で北国西街道(善光寺街道、善光寺西街道とも言います)が中山道から分岐していました。また宿場内には街道を通行する伝馬の荷物の重量を検査するための「荷物貫目改所」が置かれていました。中山道を進むと桔梗ケ原を経由し塩尻宿へ1里30町、本山宿へ30町、善光寺街道を進むと次の郷原宿へ1里半の道のりで、天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によると、洗馬宿の宿内家数は163軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠29軒で宿内人口は661人、伝馬は50人50疋であったそうです。

JR洗馬駅から中山道に戻ったところにある宗賀農林漁業体験実習館ですが、ここに洗馬学校の跡という案内板が出ています。案内板によると洗馬学校は、明治6年民家に開設され、開智学校(重文)を建てた立石清重を棟梁に明治11年ここに新築移転されました。近隣に例を見ない廻り階段やバルコニーの付いた洋風3層の校舎は、その威容からバビロン城と呼ばれ、屋上には今井兼平洗馬の像が飾られたのだそうです。

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洗馬宿中心部の光景です。洗馬宿は何度も大火にあって、維持に苦労したのだそうです。特に昭和7年(1932年)にあった大火では200戸あまりの家が焼失したのだそうで、往時の面影を残すものは残念ながらほとんど残っていません。人通りはほとんどなく、宿場の中は静かそのものです。

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左手に見える火の見櫓の隣に洗馬宿本陣跡があります。洗馬宿の本陣は上問屋を兼ねたもので、初期は三沢氏が本陣を勤めたのですが、後に百瀬家が勤めました。

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荷物貫目改所跡です。荷物貫目改所とは、街道を通過する公用荷駄の重さを調べる検問所のことで、中山道では板橋宿、追分宿、そしてここ洗馬宿の3ヵ所に設けられました。規定を超えた荷物には割増金を徴収するなど、伝馬役に加重な負担がかからないようにするためのもので、脇本陣の屋敷内にありました。

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脇本陣跡です。脇本陣は代々志村家が努め、本陣を勤めた百瀬家と半月交代で問屋を兼ねていました。両家ともに広い敷地を有し、大きな庭園を持っていたようで、中山道中でも評判のものだったといわれています。しかし両方とも前述の昭和7年にあった大火で焼失してしまい、自慢の庭園もJR中央本線の敷設により大部分が失われてしまったといわれています。

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「明治天皇駐輦之處碑」です。

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万福寺です。真言宗大谷派の寺院で、赤い山門に特徴があります。

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立派な門構えの民家が建っています。こういうところ旧街道沿いの街って感じがします。

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これは旧旅籠だった建物でしょうか。

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このあたりで宿場は終わるのですが、その手前の左手に公園があり、高札場跡の案内が立っていて、中山道のモニュメントがあります。案内板によると、このあたりは「後に御判形(おはんぎょう)と呼ばれた。伝馬駄賃御定や幕府のお触れなどが掲げられていた。明治以後裁判所の出張所(後に宗賀村役場)敷地の一部になり、その建物は「どんぐりハウス」として移築利用されている」と書かれています。ちなみに、ここは「洗馬宿」ではあるのですが、このあたりは旧宗賀村で、旧洗馬村は西側の山間部に別にあるのだそうです。

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その傍らに松尾芭蕉の句碑が立っています。
「入梅(つゆ)ばれの わたくし雨や 雲ちぎれ」

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このあたりが洗馬宿の京方の出入り口でした。後ろを振り返ってみると、どことなく旧街道の宿場の雰囲気が漂っている感じもします。

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下り坂の途中のJR中央本線(西線)のガードを潜る手前から左に曲った先に地蔵山新福寺跡と「言成(いいなり)地蔵堂」があります。地蔵山新福寺は善光寺の出開帳も行われていた大きなお寺だったそうなのですが、明治4年に廃仏毀釈により廃寺になってしまいました。言成地蔵尊は、新福寺が廃寺になった際、新福寺に納められていたお地蔵様を地元住民の手で救い出し、この道の奥にある隣の山にお堂を建てて安置したものなのだそうです。

この「言成地蔵堂」は「このお地蔵様に願い事をすれば必ず叶えて貰える」といわれていたそうで、洗馬宿が栄えた時代から周辺の信仰を集めていたそうです。願い事をしたいことは山ほどあるのですが、時間の関係で「言成地蔵堂」には立ち寄れませんでした。

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JR中央本線(西線)のガードを潜るちょうどその時、下り塩尻方面に向かう「特急しなの」が通過していきました。鉄道マニア的には嬉しい瞬間です。

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これぞ旧街道!…と思える微妙なS字カーブです。

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中山道をさらに進んで行くと、途中に江戸の日本橋から数えて60里目の「牧野一里塚跡」の標柱が建てられています。塚はなくなってしまい、ちょっと朽ち果てかけている柱だけが残っているだけです。隣接して薬師堂の跡があり、庚申塔や道祖神が多数祀られています。一里塚の盛土の中腹に集会施設が建てられています。「京へ七十二里、江戸へ六十里」と刻まれています。碓氷峠と和田峠、さらに塩尻峠と3つも大きな峠を越えてきたのに、まだ中間地点にも届いておらず、江戸の方が近いようです。この『中山道六十九次・街道歩き』の旅、まだまだ先は長そうです。

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旧街道らしい風情が残る道を進みます。前方を見ると左右から山が迫ってきていて、まさにV字になった地形を形成しています。そのV字になった地形のところが“木曽谷”。これからその木曽谷に入っていくのだな…ということがこの風景からも実感できます。周囲の山々は紅葉が進み、見事に色づいています。綺麗です。

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……(その9)に続きます。

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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越智正昭

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