2018/02/02

邪馬台国は四国にあった…が確信に!(その4)

次に向かったのは徳島市の西にある吉野川市山川町でした。ここは平成16年に平成の大合併で吉野川市になる前は麻植郡山川町でした。そこの国道192号線沿いに1軒のスナックがあり、牧さんは徳島を訪れるたびに立ち寄っているのだそうです。この日は徳島市から少し離れたこの店での夕食でした。牧さんが自分はクルマの運転があるので飲めないのに、私達をわざわざこの店まで連れてきたのには訳がありました。

前述のように、この山川町は平成の大合併までは麻植(おえ)郡に属していました。“麻”を“植える”と書くこの麻植郡は、まさに忌部氏の本拠地とも言えるところです。前述のように、阿波忌部氏は祭祀のための木綿や麻を朝廷に納めることを職業としていた一族です。『古語拾遺』によれば、神武東征において忌部氏族を率いて紀伊国の材木を採取し、畝傍山の麓に橿原宮を造営した天富命(あめのとみのみこと:天太玉命の孫)が、肥沃な土地を求め阿波国の開拓をし、吉野川の河岸段丘上に位置するこの地に穀(主に粟や稗)・麻種を植えたことから麻植郡の名になったといわれています。このあたりは前述のように日本三大暴れ川の1つである吉野川が有史以前から何度も氾濫を繰り返し、四国山地のミネラルをたっぷりと含んだ肥沃な土壌が堆積したところですから、粟(アワ)や稗(ヒエ)といった穀類や麻の栽培に最適だったのでしょう。残念ながら、この麻植郡と言う由緒正しき郡名称は平成16年(2004年)の平成の大合併により郡内のほぼ全域の町村(鴨島町、川島町、山川町、美郷村の3町1村)が合併し吉野川市となったため、現在は消滅しています。寂しいことです。せめて麻植市にして欲しかったなぁ~。

で、牧さんがそのスナックのトモちゃんというママさんに「阿波忌部氏のことに興味がある連中を連れて行くので、阿波忌部氏のことに詳しい人を誰か紹介してくれないか」とお願いしてくれていたのでした。私達がそのスナックに到着して、お疲れ様でしたの乾杯をして、トモちゃんママも交えて話をしているところにその阿波忌部氏のことに詳しいという人物が現れました。それも阪神タイガースのスタジアムジャンパー(スタジャン)を着て。その方は宮本さんといって、山川町役場(吉野川市役所山川支所のことか)に勤めている方のようです。この宮本さん、阿波忌部氏の方であることに加えて、「私は高越山(こうつさん)の行者(ぎょうじゃ)です」と自己紹介されました。なんと!

「行者」とは修験道の修行者、はやい話が“山伏(やまぶし)”のことです。また、「高越山」とはこの吉野川市山川町の南にある標高1,133メートルの山のことです。徳島平野から聳え立つ円錐形をした見事な山容から別名「阿波富士」と呼ばれ、地元の方からは「オコーツァン」とも呼ばれ親しまれているようです。山頂からは、剣山(1,995メートル)、三嶺(1,898メートル)、一ノ森(1,879メートル)といった四国山地東部にある標高1,900メートル級の高峰が一望でき、天気が良ければ瀬戸内や淡路島等も望めるのだそうです。また山頂には、修験道の開祖とされる役小角(えんのおづの:役行者(えんのぎょうじゃ)とも呼ばれる)が7世紀に建立したと伝えられ、空海が修業に訪れたともされる「高越寺(こうつじ)」があります。この高越寺、阿波国修験道(忌部修験道)の発祥地とされ、山川町にある忌部神社の別当寺でもあるとのことです。さらに、徳島県に残る伝承では、神話に出てくる高天原(たかまがはら)はこの高越山を中心とした高地一帯のことだとされています。

前述のように、『延喜式神名帳』にも載せられた「阿波国麻殖郡 忌部神社」は名神大社にも列していた由緒正しい神社だったのですが、中世以降、兵火などにより所在が不明となり、近世以降、複数の神社がその式内・忌部神社を主張していました。この山川町にある忌部神社もその1つで、明治7年(1874年)にはこの山川町の忌部神社を式内忌部神社とするという太政官布告がいったんは出された神社でした。しかし、その後も論争が続いたため、結局太政官による妥協策として先ほども訪れた徳島市の眉山中腹の現在地を選定、社殿を竣工して、明治25年(1892年)に遷座したという経緯を持ちます。徳島市の元の地名は名東郡富田浦町。名東郡ですので、厳密なことを言うと『延喜式神名帳』に載せられた「阿波国麻殖郡 忌部神社」とは言い難く、むしろ、旧麻植郡山川町(現・吉野川市山川町)にある忌部神社(山﨑忌部神社)のほうが、式内忌部神社に相応しいとも思えます。

高越山は近年まで女人禁制の場所だったところだそうで、女人禁制が解かれた今でも、毎年8月18日に行われる十八山会式だけは女人禁制で紫燈大護摩が開かれるのだそうです。平成26年(2014年)12月6日にはこの高越寺の住職とこの寺で働く男性が、寺の近くで雪に閉ざされて遭難し、2人とも亡くなるという事故があったことでも知られています。なんと!、宮本さんは役行者が興したとされる由緒正しき修験道の聖地・高越寺の行者さんなんですね。それも高天原にある!

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もちろん今でも行者さん(山伏)がいるということは私も知っていましたが、実際の行者さんにお会いしたのは初めてのことです。その初めてお会いした行者さんは白い麻の法衣を纏ったとっつきにくそうな人ではなく、阪神タイガースのスタジャンに身を包んだ実に気さくな役場のオジさんでした。私は阪神タイガースのスタジャンにすぐに反応。

私「阪神タイガースファンですか?」
宮「そうです」
私「よく試合を観にいかれるんですか?」
宮「ええ、聖地・甲子園球場に」

徳島から淡路島を経由する高速道路の神戸淡路鳴門自動車道(本州四国連絡道路神戸・鳴門ルート)を使うと、すぐに神戸です。ここ徳島は四国に縁のない方が聞くと意外に思えるほど関西地方に近いんです。特に神戸淡路鳴門自動車道が開通してからは、完全に関西経済圏、文化圏の端っこに組み込まれている感じさえします (ここが同じ四国でも愛媛県との大きな違いです)。これは古代も同じことだったのではないでしょうか。地形的に本州と四国の間に淡路島という“大きな連絡橋”のような島があることに変わりはありませんから。

古事記や日本書紀には「国産み」と呼ばれる日本国の国土(大八島:おおやしま)創世譚を伝える神話が書かれています。イザナギとイザナミの二柱の神は天の橋に立ち、矛で混沌をかき混ぜ、島を作ったというものです。最初に産んだのが「淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま)」で淡路島のこと、次に産んだのが「伊豫之二名島(いよのふたなのしま)」で四国のこと。私はこの大八島創世譚を大和朝廷の勢力圏の拡大の順番だと捉えるならば、最初に淡路島を勢力下に収めたことに大きな意味があるように思います。海で隔たれているように見えて、実は四国、特に徳島と近畿圏は隣同士。近い距離にあるところです。道路網や鉄道網といった交通機関の発達していなかった古代においても、舟さえ使えば簡単に行き来ができるところだったと思います。しかも古代においては舟は大量輸送機関、海は高速道路のようなものでした。陸地で繋がっている“お隣り”よりも近いものだったのではないか…と思われます。徳島の古代史、さらには大和朝廷の成り立ちを紐解く上においては、この徳島の地理的特性を忘れてはいけないと思います。ちなみに、淡路島の「淡路(あわじ)」は「阿波路(あわじ)」、すなわち「阿波への道」が転じたものだとする説もあるようです。

宮本さんの話によると、行者の時には、袈裟と、白い篠懸(すずかけ)という麻の法衣を身に纏い、頭に頭襟(ときん:頭巾)と呼ばれる多角形の小さな帽子のような物を付け、手には錫杖(しゃくじょう)と呼ばれる金属製の杖を持つ、いわゆる山伏の格好になるのだそうです。もちろん、山中での互いの連絡や合図のために、ほら貝を加工した楽器を持って。

私「行者さんって修行のための火渡りの儀式ってやるじゃあないですか。宮本さんもやるんですか?」
宮「もちろん。私は昭和28年生まれの現在64歳ですが、オコーツァンの行者の中ではこれでも若いほうだから、いつも一番初めに火の上を歩かされとるんですわ」
私「熱くないですか?」
宮「そりゃあ熱いですよ。足の裏が真っ赤になります」
私「ヤケド(火傷)なんかしないんですか?」
宮「たまに水ぶくれができたりしますが、たいしたことはないです」

その後も行者のこと、忌部氏のこと、徳島、特にこの麻植郡のことについていろいろと興味深い話を聞かせていただきました。

特に印象的だったのが、徳島県と千葉県の関係です。徳島県の旧国名は「阿波(あわ)国」、千葉県の房総半島の南端部分の旧国名は「安房(あわ)国」。どちらも読み方としては「あわの国」で同じです。実はこれには大きな意味があり、そこに阿波忌部氏が深く関わっているようなんです。

古代、現在の徳島県の北西部の山間地帯は粟の主要な生産地だったために粟国(あわのくに)、南東部の海沿いの地域は長国(ながのくに)と呼ばれていました。のち、7世紀後半に律令制に敷くにあたって長国の領域を含め令制国としての粟国が成立しました。さらに、和銅6年(713年)、元明天皇による好字令で、地名を二字で表記するため「粟」の字が「阿波」に変更されたとされています。

いっぽう、『古語拾遺』によれば、阿波国において穀物や麻を栽培していた天富命(あめのとみのみこと)は、阿波忌部を2つに分け、東国にさらに肥沃な土地を求めて黒潮に乗って船出しました。到着したところが房総半島南端の布良の浜。そこに上陸し、麻・穀を播き殖えて開拓を進めました。良い麻が生育した国は「総国(ふさのくに)」と呼ばれ、穀の木の生育したところは「結城郡」と呼ばれ、阿波忌部の中枢が住んだところは「安房(あわ)郡」と呼ばれました。ちなみに、“総(ふさ)”とは麻の古語です。総国は現在の千葉県を主たる地域とし、茨城県や東京都の一部にわたる律令制以前の旧国名のことです。この総国はその後「上総国(かずさのくに)」と「下総国(しもふさのくに)」の2国に分立し、さらに上総国から安房国(あわのくに)を別けて令制国としての房総三国が成立したとされています。もちろん、「安房(あわ)」は「阿波(あわ)」の名をとって付けられたものです。

ここで注目すべきは上総国と下総国の位置関係です。通常考えれば北にあるほうが“上”で、南にあるほうが“下”となるのですが、上総国と下総国の場合は反対です。これは西にある阿波国から黒潮にのって房総半島南端の布良の浜に上陸し、その後も次々と移住してきた忌部氏族の人達による開拓が外房側から始まり、そのため房総半島の南東側が上総国となり、北西側が下総国となったとされています。ちなみに、律令制において令制国である上総国の一部となり、さらに安房国に分かれる以前、千葉県のこのあたりには安房国造(あわのくにのみやつこ)と長狭国造(ながさのくにのみやつこ)の2つの国造が置かれていました。先ほど、古代、現在の徳島県の北西部の山間地帯は粟国(あわのくに)、南東部の海沿いの地域は長国(ながのくに)と呼ばれていたということを書きましたが、「あわ」と「なが」、ここにもなんらかの関連がありそうです。

また、房総半島最南端部の吾谷山(あづちやま)の山麓に安房神社(千葉県館山市)があります。この安房神社は式内社(名神大社)で安房国一宮。この神社は阿波国(現在の徳島県)から渡ってきた忌部氏(斎部氏)が祖先である天太玉命(あめのふとだまのみこと)を祀るために創建した神社だと言われています。なので、安房神社の主祭神は今でも天太玉命です。

さらに、勝浦(徳島県には勝浦郡勝浦町がある)や白浜(徳島に隣接する高知県安芸郡東洋町)など、徳島県(阿波国)と千葉県(安房国)には共通した地名のところが多いのも特徴です。この地名の共通性は和歌山県にも当てはまり、おそらく、阿波忌部の人達が、さらに肥沃な土地を求めて黒潮に乗り、現在の和歌山県や千葉県に移り住んでいった名残りであると考えられます。おそらく移住した阿波忌部の人々が懐かしがって故郷の地名を付けたのではないでしょうか。

宮本さんによると、千葉県や和歌山県に限らず阿波忌部氏は衣食住に関係する様々な文化を伝播するため日本各地に進出していたようで、全国にその痕跡が残されているのだそうです。で、今でも、その全国各地に分散した阿波忌部氏族の末裔の皆さんとは交流があるようです。

ちなみに、日本の地名を論じるにあたって、絶対に忘れてはならないことがあります。それが『好字二字令』の存在です。奈良時代の初めの和銅6年(713年)に元明天皇が発した勅令が『諸国郡郷名著好字令』。これは、全国の地名を漢字2文字で書きましょうという命令で、『好字二字令』、または単に『好字令』とも呼ばれることもあります。日本の地名は基本的にこの『好字二字令』によって無理に2文字の漢字が当たられたところがほとんどだということです。

それまでの旧国名、郡名や、郷名(郷は現在で言うと町村ほどの大きさ)の表記の多くは、表音文字であった大和言葉(日本に大陸文化が伝来する以前から日本列島で話されていた言語)の地名に表意文字である漢字を無理矢理当てたもので、漢字の当て方も一定しないということが多く、様々な混乱が見られました (なので、漢字の意味からその地方の古代の姿を読み解こうとするのは、ほとんど意味がないことです)。そこで地名の表記を統一しようということで朝廷から発せられた勅命がこの『好字二字令』です。 この『好字二字令』では漢字を当てる際にはできるだけ良い意味を持つ「好字(佳字ともいう)」を用いることが推奨されました。この適用範囲は郡や郷の名称だけではなく、広く小地名や山や川、湖沼などの名称にも及んだとされています。

『好字二字令』では、3文字の地名はともかくとして1字の地名も無理やり2字にさせられてしまいました。これは利便性の向上もさることながら、当時日本から見ると先進国であった唐(中国)に倣うという意味が強くあったようです。中国の地名の多くは「洛陽」や「長安」など良い意味の2字の漢字による名称が用いられていたからです (なお、旧国名については好字二字令より以前に2字に統一しようという別の動きがあったようです)。

中には漢字の当て方に明らかに無理のあるものもあって、通常の音読みや訓読みではとても読めないものや(大和国がその代表)、読みづらいものも散見されます。当てた漢字の音に引きずられて読みが変わった例も多くあります。例えば、群馬県(ぐんまけん)。ここは旧国名では「上野国(こうずけのくに)」と呼ばれていますが、これは『好字二字令』以前は「上毛野国(かみつけのくに)」でした。その上毛野国に「車評(くるまのこおり…「評」は大宝律令によって「郡」となる)と呼ばれていた地域があり、同じく『好字二字令』によってこの郡名「車(くるま)郡」は「群馬(くるま)郡」に改められ、さらに読み方も、その後、群馬(ぐんま)に変わりました。

このように、日本の地名のほとんどは、日本に大陸文化が伝来する以前から日本列島で話されていた言語・大和言葉でどのように呼ばれていたのか…、すなわち、地名の古代の“読み方”のほうにこそ、大きな意味が込められているということを忘れてはいけません。これは古代史解明の基本中の基本です。なので、「阿波」と「安房」、これも「あわ」という音で考えないといけないと言うことです。なるほどぉ~。

宮本さんからお聞きしたのは忌部氏や行者に関する入門編ともいうべき極々表面的なことばかりなのですが、それでもお腹がいっぱいで消化不良に陥りそうでした。昔の人も現代の人も考えていることの基本はあまり変わっていないものですし、世の中の最底辺のインフラ(基盤)である地形と気象もさほど変わっていないので、お話しいただいたことは論理的に考えてみても信じるに値するようなことばかりです。ただ、もしその通りだったとしたら、私達が学校で習ってきた日本の古代史はいったいなんだったんだろう…と思えて来たりもします。どうも、日本史、特に古代史には「表の歴史」と「裏の歴史(真実の歴史)」というものがありそうです。ちなみに、宮本さんが言葉を選んでお話しになられているな…とは、私も感じ取りました。

宮本さんからほかにもいっぱい行者や忌部氏のことについての極々“基礎的なこと”をお聞きしたのですが、この場ではすべてを書き切れないので、この『おちゃめ日記』には、そこでお聞きした話を随所に散りばめながら書いています。

最後に行者の宮本さんから驚きの一言が!

宮「三木信夫さんにお会いになられたことはありますか?」
牧「三木信夫さんって、阿波忌部氏直系当主の三木信夫さんのことですよね。ありません」
宮「三木信夫さんはいつもは大阪の堺のほうにお住まいなんですが、大嘗祭の準備のため、今はこっちに戻ってきているはずです。いらっしゃるか確認してみましょうか?」
牧、私「エッ!そうなんですか! それはありがたい」
宮「いらっしゃったらお会いになりますか?」
牧、私「ええ、もちろん! よろしくお願いします」

天皇陛下が行う宮中祭祀のひとつに「新嘗祭(にいなめさい)」があります。これは収穫祭にあたるもので、毎年11月23日に、天皇陛下が五穀の新穀を天神地祇(てんじんちぎ)に勧め、また、自らもこれを食して、その年の収穫に感謝する天皇陛下にとっては最も重要な儀式のことです。この新嘗祭は宮中三殿の近くにある神嘉殿にて執り行われます。その新嘗祭のうち、即位した天皇が初めて行う新嘗祭のことを特別に「大嘗祭(だいじょうさい)」と呼びます。大嘗祭は即位したばかりの天皇にとって御一代にただ一度の祭儀、新嘗祭で、大規模に執り行うこととなっており、通常の年の新嘗祭が執り行われる神嘉殿とは別の、悠紀殿と主基殿の2殿から成る大嘗宮で執り行われます。律令ではこれを「践祚大嘗祭」と呼び、通常の年の新嘗祭と明確に区別しています。

この大嘗祭の際に天皇陛下がお召しになられる麁服(あらたえ)というお衣装を献上するのは、古代から祭祀を司ってきた忌部氏によって執り行われてきました。その忌部氏というのが、この先の穴吹から剣山のほうに入った奥深い山村の木谷平村(こやだいらそん:現在は美馬市木屋平)に屋敷を構える阿波忌部氏直系の三木家です。その阿波忌部氏直系の第28代当主が三木信夫さんです。

過日、政府から今上天皇陛下の御譲位日を平成31年(2019年)4月30日とし、現在の皇太子様が翌5月1日に新天皇に即位して、その日に新しい元号を施行することで皇室会議で意見集約し、日程が固まったという発表がありました。と言うことは、2年後の2019年には次の大嘗祭が執り行われることになります。その準備のため、三木信夫さんはふだんお住いの大阪府堺市から山深い徳島県木屋平村の屋敷のほうにお戻りになっておられるということのようです。2年後の2019年ということは、その前年の平成30年(2018年)中に麁服(あらたえ)に使う麻を植えて収穫しないといけませんからね。

こうして忌部氏で行者の宮本さんのお計らいで、私達はその翌々日(旅行最終日)の午前11時に三木さんのご自宅(と言っても、国の重要文化財に指定されているお屋敷)でお会いすることができることになりました。これにはもうビックリです!! 阿波忌部氏直系の第28代当主です。宮本さんの言葉を借りると、「天皇陛下と直接お話ができるお方」に会っていただけるということで、突然の想定外のことの発生に喜びとともに緊張も走ります。お客様が来るようで、30分くらいなら…ということでしたが、お会いしていただけるだけでも大変に光栄なことです。

初めてお会いした自ら忌部氏を名乗る方、そして行者(山伏)さんは気さくなとってもいい方でした。スナックのトモちゃんママに感謝、感謝です。



……(その5)に続きます。

執筆者

株式会社ハレックス前代表取締役社長 越智正昭

株式会社ハレックス
前代表取締役社長

越智正昭

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