2018/02/06

邪馬台国は四国にあった…が確信に!(その5)

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徳島県を旅すると、いたるところで日本、特に徳島と古代ユダヤとの繋がりについて書かれたものに遭遇します。このスナックでもこういう本がふつうに雑誌類と並んで置かれていました。私も今回の旅で徳島と古代ユダヤの関係について書かれた本を何冊か購入しました(後述)。それらの本を現在通勤途中の電車の中で読んでいるところですが、メチャメチャ面白いです。これらの本をザッと読んで私なりに解釈したことに、これまで『おちゃめ日記』に掲載してきた「えっ! 邪馬台国は四国にあった?」や「全国の越智さん大集合!」を書くにあたって私がいろいろと日本の古代史に関して推論したことを加えて、以下に示します。もっと詳しく読むと私の解釈も変わるかもしれませんが…。

紀元前13世紀頃(すなわち、今から3,000年以上昔)、神の命令によって奴隷状態のヘブライ人をエジプトから連れ出す使命を受けたモーゼは民を率いてエジプトを脱出し、東方を目指しました(旧約聖書の『出エジプト記』より)。その時に神より授かった神の意思(これが十戒)が記された石板がユダヤの秘宝と呼ばれるものです。ちなみに、モーゼは神の目に適った美しい子で、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教およびバハーイー教など多くの宗教において、もっとも重要な預言者の一人とされています。(新約聖書の『使徒言行録』より)

メソポタミア(現在のイラク・クウェート)南部を占めるバビロニアの南半分の地域には、今から約1万年前の中石器時代以降、シュメール人がチグリス川とユーフラテス川の間に高度な文明をもった都市国家を建設していました。これが初期のメソポタミア文明とされるものです。このシュメール人が一般的にはヘブライ人と呼ばれる人達です。このシュメール人による文明は、紀元前20世紀頃から急激に没落し、シュメール人と呼ばれる人々は忽然と歴史上から姿を消します。

モーゼに率いられたヘブライ人の集団は陸路と海路に分かれて東方を目指して移動しました。モーゼ自身は陸路東方を目指したのですが、40年間彷徨ったあげく、途中で死去してしまいます。いっぽう、海路、東方を目指した集団(先発集団)は約1年半の航海を経て、極東の島国、日本列島に到着しました。当時のシュメール人は優れた航海術を持っており、偏西風と黒潮(海流)を利用すれば、当時の船でも約1年半の航海で、インドやマレー半島経由で日本列島に到着することが可能と思われます。

この紀元前13世紀あたりから、日本列島はそれまでの縄文時代から、弥生時代に突如移ることになります。狩猟採取が主体だったそれまでの社会から一変し、稲作を中心とした農耕文化が興り、製鉄技術や文字といった高度な文明も突如興ってくるわけです。これがシュメール人(ヘブライ人)が海路日本列島にやって来て、それらシュメールの優れた文明を日本列島に伝えたのだとすると、大いに納得するものがあります。また、最初に海路日本列島にやってきたシュメール人(ヘブライ人)が土着の縄文人と交わって(民族の同化)、現在の日本人が生まれたとも考えられます。1万年以上という長きに渡って続いた縄文時代にはずっと約10万人程度だった日本列島の総人口が、弥生時代になると100万人規模にまで一気に急増していることから、相当の数のシュメール人が日本列島に海路やって来たと推定されます。

日本神話に残る神々は、この渡来したシュメール人のことだとする説もあるようです。七福神で有名な「宝船」は、高度な文明を持ったシュメール人が船に乗ってやって来たことに由来するのではないかとも言われています。高度な文明を持っていたことから、それまで日本列島に土着していた縄文人は、ビックリ仰天して、それら船に乗って渡来してきたシュメール人のことを“神”と崇めたとしても何らおかしなことではありません。そうした神のような人々がいっぱいやって来たことから、それまでの自然崇拝と合わさって、「八百万の神」と呼ばれるようになったとも考えられます。イザナギやイザナミという神々は、そうしたシュメール人なのかもしれません。

シュメール人がやって来た場所は、黒潮の流路から考えて、主に九州南部から四国にかけてと推定されます。イスラエルの首都エルサレムが位置する緯度は北緯は31度77分。徳島市は北緯34度07分、四国最南端の足摺岬が北緯32度43分。ほぼ似たような緯度にあり、しかもエルサレムをはじめとしたイスラエルは地中海性気候に区分されることから、四国の瀬戸内海沿岸地域は、特にシュメール人にとって極めて住みやすい楽園のような地であったのではないか…と推測されます。しかもエルサレムは標高が800メートルと言う台地の上にあり(意外と標高が高い)、シュメール人はもともとはそうした高地の民でした。従って、彼等もそうした標高の高いところに住みたがる習性を持っていたと推察されます。それが日本神話に出てくる“高天原”に繋がります。

また、行者(山伏)、これは山中で修行をする修験道の行者のことで、山岳という他界に住んで山の霊力を体に吸収し、他界や現界を繋ぐ者としての自己を引き上げて、それらの霊力を人々に授ける存在とされてきました。その山の霊力とは、実は鉱物資源のことではないかとされています。山伏は高度な鉱山技術や冶金技術などを有したエンジニアだったというわけです。ちなみに、山伏(天狗)は白装束に高い鼻、赤い顔を持つとされていて、どう考えても日本列島に古くから土着していた民ではなく、渡来人(シュメール人)と思われます。鉱山技術や冶金技術など高度な文明・技術を持つ彼等が山に籠ったのはそういう理由があったのかもしれません。

古事記や日本書紀には「国産み」と呼ばれる日本国の国土(大八島:おおやしま)創世譚を伝える神話が書かれています。イザナギとイザナミの二柱の神は天の橋に立ち、矛で混沌をかき混ぜ、島を作ったというものです。最初に産んだのが「淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま)」で淡路島のこと、次に産んだのが「伊豫(伊予)之二名島(いよのふたなのしま)」で四国のこと。胴体が1つで、顔が4つあるとされ、顔のそれぞれには、「愛比賣(えひめ):伊予国」、「飯依比古(いひよりひこ):讃岐国」、「大宜都比賣(おほげつひめ):阿波国」、「建依別(たけよりわけ):土佐国」という名称が付けられました。このように「伊予之二名島」とは“伊”の国と“予”の国があったということで、“伊”の国とは現在の徳島県、香川県、高知県のこと、“予”の国とは現在の愛媛県のこととされています(すなわち、“伊予”は元々は四国全体のことを指すようです)。その後、「隠伎之三子島(おきのみつごのしま):隠岐島」、「筑紫島(つくしのしま):九州」、「伊伎島(いきのしま):壱岐島」、「津島(つしま):対馬」、「佐度島(さどのしま):佐渡島」、「大倭豊秋津島(おほやまととよあきつしま):本州」を順に産んだとされています。

で、この「国産み」とは何か…ということですが、それは支配下に置くということではないかと思われます。すなわち、“征服”。上記の「国産み」の順番はその後大和朝廷を興すことになる“倭国”が、周辺の地域(部族)を征服していった順番ということなのではないでしょうか。海路日本列島に辿り着いたシュメール人も落ち着いて来ると勢力争いが絶えなかったようで、その中で、“倭国”が徐々に力を付けていって周辺国(部族)を征服し、勢力圏を拡大していったと思われます。これからすると、“倭国”は淡路島、そして四国という順番から考えて、徳島県にあったと考えるのが妥当ではないか…と思われます。

“倭国”とは“やまと国”のこと(倭と書いて“やまと”と読みます)。で、その“倭国”の絶対的女王が卑弥呼。“卑弥呼”は中国人による当て字で、正確には“日神子(ひみこ)”、すなわち天照大御神(あまてらすおおみかみ)と同一人物ではないか…という推測も成り立ちます。天照大御神は古事記では大宜都比賣(おほげつひめ)という名称で登場する神です。で、前述の古事記や日本書紀に書かれている「国産み」の話では、「大宜都比売(おほげつひめ):阿波国」とされています。ちなみに、大宜都比賣は日本の穀物や蚕を生み出した起源神とされる神です。その大宜都比賣が祀られている国がこの阿波の国(現在の徳島県)なのか、そしてそのことと忌部氏族との関係、それらを解読すると大和王権成立の謎の一端が解明できそうな気がしてきます。こうなると、邪馬台国は四国、それも阿波国、現在の徳島県にあったとしても何らおかしいことではありません。

ちなみに邪馬台国とは邪馬臺国が正式名称で、元々は「やまと国」と読まれていたと思われます。「やまと国」という名称を耳にした古代中国(魏)人が、その音だけで「邪馬臺国」という漢字をあてたのではないか…と思われます。古代中国人は自分達がこの世の中心であり、その他の国は自分達よりも下の卑しい存在であるという思想を持っていて、「卑弥呼」の“卑”もそうですし、「邪馬臺国」の“邪”もそうですが、わざと貶めるような漢字をあてたように思います。

“やまと”とは、古代ヘブライ語で「ヤー・ウマト」、すなわち「神の選民の国」という意味らしいです。そこにわざと「邪馬臺国」という漢字をあてて、貶めようとするなんて、ふざけるんじゃない!

で、この徳島の地にいた“倭国”の民が、「大倭豊秋津島(おほやまととよあきつしま):本州」征服以降、移り住んだ地が、紀伊水道を挟んだ“大倭”。これが現在の奈良県。ここから大和朝廷が始まります。それは、おそらく、徳島では吉野川の氾濫で毎年のように大きな被害を受けていたのと、奈良のほうが米作りに適していたからではないか…と思われます。そして、西暦684年に発生した南海トラフを震源とした超巨大地震「白鳳地震」が決定的なこととなって、地震で壊滅した徳島の地を捨てて、奈良に集団で大移動することになったと推察されます。

いっぽう、陸路で東方を目指していたシュメール人の大集団は、途中、土着の民による妨害に何度も遭いながらも、戦いや侵略、民族の同化を繰り返しながら徐々に東進を続けました。中国の西、ウイグル、カザフスタンの辺りに弓月国(クンユエ)という国を設立したりしながら、東進を続け、紀元前10世紀頃に現在の中国付近にまで到着したと思われます。そして、紀元前8世紀頃に現在の中国甘粛省あたりに秦という国を興します。この秦がおきた地域の位置関係から、どう考えてみても、秦は西からやって来た渡来人の作った国家ではないかと思われます。

当時の中国は「春秋・戦国時代」で、主に秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓(のちの漢)の7国で覇権争いを行っていました。その中で、最終的に覇権を奪ったのが秦。紀元前241年に趙、楚、魏、韓、燕の五カ国連合軍を「函谷関の戦い」で破り、ついに紀元前221年に中国全土を統一しました。その最初の皇帝が有名な「秦の始皇帝」。始皇帝は度量衡・文字の統一、郡県制の実施など様々な改革を行ったことで知られる名君です。このような当時としては先進的とも思える考え方がどこから急に起きてきたのかというと、始皇帝をはじめとした秦の中枢がシュメール人だったからではないでしょうか。でないと、容易に説明がつきません。余談ですが、この始皇帝、本名が「政」だったのが、今の政治と言う言葉の起源とされています。

秦は始皇帝の死去後急激に衰退し、紀元前206年にあっけなく滅亡してしまいます。すると、先の秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓(のちの漢)の7国のうち秦を除く6国が再び覇権争いが生じ、最終的には西楚の覇王を名乗る項羽と、その項羽から漢中に封建されて漢王となった劉邦との間での内戦が勃発。最終的に劉邦が勝って、漢が中国を統一することになります。ただ、なぜか秦だけは中国の歴史上から忽然と姿を消すわけです。

司馬遷の『史記』の巻百十八「淮南衝山列伝」によると、秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って東方に船出した人物がいて、その人物の名前が徐福。司馬遷の『史記』によると、徐福は「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとの記述があります。その徐福に連れられてやってきた大集団(おそらくシュメール人)が日本の歴史に忽然と登場する秦氏ではないか…とされています。秦氏に関しては、この『おちゃめ日記』でも「大人のお泊まり遠足2016 in 京都祇園祭 (その10)」で少し触れさせていただいています。

大人のお泊まり遠足2016 in 京都祇園祭 (その10)

徐福の出航地については、現在の山東省から浙江省にかけて諸説ありますが、河北省秦皇島、浙江省寧波市あたりが有力とされています。途中、現在の韓国済州島や朝鮮半島の西岸に立寄り、日本に辿り着いたとされています。徐福に関しては青森県から鹿児島県に至るまで、日本各地に様々な伝承が残されています。朝鮮半島経由の経路から考えて、日本海側に多く上陸したのではないかと推察されます。

ちなみに、浙江省寧波市あたりの昔の国名が「越」。なので、徐福が主に連れて行ったのはその「越」の国の人々、すなわち「越人」。その「越人」が流れ着いたところには“越”の字が付いた地名が多く残されているそうで、日本海側の越前、越中、越後もそうではないかと言われています。越智という摩訶不思議な私の苗字、そして愛媛県今治市周辺にある越智郡(私の本籍地)という地名も、もしかしたらその徐福由来の名前なのかもしれません。

全国の越智さん大集合!(その1)

こうして、海路と陸路に分かれて東を目指していたエジプトを追われたシュメール人(ヘブライ人)は、約1,000年の時を経て、紀元前200年頃にこの日本列島の地で合流することになるのですが、同族が合流して喜んだのも束の間、再び部族間で権力抗争を繰り返すようになります。そこで大活躍したのが大国主命(おおくにぬしのみこと)で、出雲の国、今の島根県(ここは日本海側なので、徐福に率いられて後からやって来たシュメール人)を制圧することになります。この時の大国主命の活躍が因幡の白兎の話や、古事記や日本書紀に記載されている「国譲り」の神話に結び付くと考えられます。

ちなみに、日本の歴史上においては古代より続く日本の君主(元首)であり、現代日本においては日本国憲法第1条に定められた日本国および日本国民統合の象徴たる地位である「天皇」。この「天皇」の称号が成立したのは7世紀後半、第42代の文武天皇の時代に制定された大宝律令で「天皇」の称号が法制化された以降のことで、その直前の第40代の天武天皇または第41代の持統天皇の時代からとするのが通説となっています。それ以前は「スメラミコト」「スメラギ」「スメロキ」「スベラギ」等と呼ばれていました。この「スメラミコト」や「スメラギ」に共通する「スメル」。「スメル」とは動詞で、「統める・総める」と書いて「まとめる・治める」という意味の言葉です。このことから、古代においては天皇のことを皇(スメラ)と呼び、民のことを皇人(スメラビト)と呼んでいました。この「スメル」の語源は「シュメール(Sumeru)」だったのではないか…という説もあります。

これらを前知識として『古事記』や『日本書紀』を読み返してみると、日本の古代史が私達がこれまで学校で習ってきたものと全く違ったものに見えてきます。しかも、その古代史解釈のほうがよっぽど納得感があります。先ほど、徳島県を旅すると、いたるところで日本、特に徳島と古代ユダヤとの繋がりについて書かれたものに遭遇する…ということを書きましたが、今回の徳島旅行では、「日本、特に徳島は古代ユダヤと繋がりがあった」という仮説を前提にいろいろなものを見てみようと思っています。



……(その6)に続きます。