2018/02/09

邪馬台国は四国にあった…が確信に!(その6)

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2日目、朝から空は快晴です。宿泊したホテルの前からは澄み切った青空をバックに眉山がクッキリと見えます。徳島市は徳島県の県庁所在地。あまり知られていないことですが、徳島市は今でこそ同じ四国内でも愛媛県の松山市や香川県の高松市より人口が少ない都市ですが、江戸時代には徳島藩の城下町として栄え、幕末には藍産業の発展により国内で人口が上位10位に入るくらいの大きな城下町でした。

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JR徳島駅の駅前の道路標識に「神山」の文字が書かれています。私が注目している地名のところです。そしてその神山に向かう道路が国道438号線です。この国道438号線は徳島県徳島市から香川県坂出市に至る一般国道です。起点は徳島市の本町交差点ですが、この徳島駅前の元町交差点で右折し、西に向かいます。その後、佐那河内村に入ってからは四国山地の山中を西進し、神山町に向かいます。神山町まではバイパス道路なども整備されており走りやすいのですが、そこから先は川井峠や見ノ越など峠区間を中心に国道とは思えないような狭隘で自動車の離合が困難な区間が増えます。剣山の7合目付近にあたる見ノ越の剣山登山口を過ぎたところで起点から重複していた国道439号線と分かれて徳島県つるぎ町を北上、吉野川も越えて香川県側へ向かいます。徳島市と見ノ越の剣山登山口までの区間は国道439号線と重複すると書きましたが、この国道439号線、通称・酷道439号線(ヨサクロード)こそ、魏志倭人伝に書かれた邪馬台国への道順のうち、いまだに最大の謎とされている最後の投馬国から最終目的地である邪馬台国までの「水路を十日、陸路を一月」の“陸路1ヶ月”の道であると、私が推察した道路です。ついにその邪馬台国までの道を目にすることができました。

エッ!邪馬台国は四国にあった?(その4)

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この日は天気がいいので、剣山に行くことになっていたのですが、この神山経由の国道438号線(国道439号線と重複)ではなくて、いったん吉野川沿いの国道192号線を貞光まで走り、そこから左折して国道438号線を見ノ越の剣山登山口に向かうことにしました。

国道438号線は、徳島県徳島市から佐那河内村、神山町を経て、標高1,420メートルの剣山七合目付近を通る「見ノ越」という大きな峠を越えたところにある剣山登山口を過ぎたところで起点から重複していた国道439号線と分かれ、つるぎ町を北上、貞光町で吉野川も越えてさらに北上。県境の三頭峠を越えて香川県に入り、綾歌郡綾歌町を経て香川県坂出市に至る総延長171.9 kmの一般国道です。剣山登山口には徳島市側と貞光町側から行くことができます。

当初は徳島市から神山町経由で見ノ越の剣山登山口まで行こうと計画していたのですが、前日に行者の宮本さんからお聞きした情報によると、徳島市からの国道438号線は神山町から先の区間が先週末に降った雪のため大変に危険な状態のはずだから行かないほうがいいということでしたので、徳島市からだとグルっと遠回りになりますが、貞光町側から見ノ越の剣山登山口を目指すことにしました。神山町訪問は次の機会の楽しみに残しておきます。ちなみに、国道438号線(国道439号線と重複)の神山町より先の徳島県コリトリ~見ノ越間は冬季閉鎖になるのだそうです。まさに酷道ですね。

まずは、徳島市から吉野川に沿って延びる国道192号線を、吉野川を遡るように上流に向かって西進します。この国道192号線は江戸時代には【伊予街道】と呼ばれていました。伊予街道は阿波国の徳島から吉野川の南岸に沿い、石井、川島、穴吹、半田、井川、池田を経て、伊予国(愛媛県)の川之江に至る街道です。現在の国道192号線にほぼ重なり、徳島から池田まではJR徳島線が並走しています。北岸を並行する川北街道との合流点・池田は、讃岐や伊予、土佐に通じる交通の要衝。また、阿波の特産品、藍とたばこを城下に運ぶ重要な輸送路でもありました。

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四国は瀬戸内海や太平洋を利用した海運が盛んで、島内の陸上交通網はさほど発達してこなかった歴史がありますが、それでも旧街道と呼ばれる昔からの道路が幾つかあります。この伊予街道もその1つですが、そのほかにも以下の10の旧街道があります。

【撫養(淡路)街道】 撫養(むや)は現在の徳島県鳴門市の古い呼び名です。徳島から鳴門海峡を渡って淡路島の福良・洲本・由良を通り、海路、紀伊に至る道で、淡路街道とも呼ばれました。現在徳島から淡路島へは鳴門大橋がかかり、国道28号線の神戸淡路鳴門自動車道が通じていますが、神戸に向かう自動車道の道筋とは洲本で分かれ、淡路島の東海岸へ出て南下し、海路、紀州(和歌山県)へ渡ります。

【川北(撫養)街道】 撫養街道から西に延び、吉野川の北岸に沿って徳島県の北部を東西に横断する街道です。現在の徳島県道12号鳴門池田線にほぼ重なり、鍛冶屋原、脇町、郡里、芝生を経て州津の渡しで池田へ渡り、並行している伊予街道 に合流します。撫養から東方面への道とあわせて「撫養街道」とも呼ばれています。鍛冶屋原は阿波三盆、脇町は藍の集散地で、吉野川の水運とともに徳島藩の流通を支える幹線道路でした。

【土佐北街道】 伊予国の川之江から四国の中央を縦断して土佐国(高知県)の高知に至る街道です。土佐の国府と京の都とをつなぐ太政官道として平安時代初期に拓かれましたが、標高1,027mの笹ヶ峰峠などの山地をゆく険しい道のため徐々に衰退。享保3年(1718年)に土佐藩6代藩主の山内豊隆が参勤交代の道として再整備しました。現在の愛媛県道・高知県道5号川之江大豊線がほぼ重なります。

【土佐東街道】 阿波国の徳島から四国南西の海岸線に沿って、日和佐、牟岐を経て甲浦で土佐に入り、野根山を越えて奈半利、安芸を通り土佐国の高知に至る街道です。徳島から甲浦までは国道55号線、野根山を越えて奈半利までは国道493号線、奈半利から再び国道55号線にほぼ重なります。江戸時代中期以前は土佐藩が参勤交代に利用していましたが、上述のように享保3年(1718年)に土佐藩6代藩主の山内豊隆が土佐北街道を再整備したことで、参勤交代の道はそちらに移りました。野根から奈半利に至る山道は「野根山越え」と呼ばれ、古代から開かれていた道のようです。

【高松街道】 讃岐国の高松から同じく讃岐国の琴平へ向かう、主として金毘羅参りのための街道です。現在の国道32号線にほぼ重なり、円座からは高松琴平電鉄琴平線に沿っています。 阿波、東讃岐方面からの参詣者に多く利用されました。滝宮天満宮のある滝宮は、門前町として早くから栄え、金毘羅参りの宿泊地としても賑わいました。

【中村街道】 土佐国の高知から、南海岸に沿って須崎、窪川を経て中村に至る街道です。現在の国道56号線の高知県内部分がほぼ重なります。須崎から、西へ向かう檮原街道が分かれています。街道沿いはかつお漁が盛んだった地域で、土佐藩の特産品であるかつお節を製造していました。

【檮原街道】 高知県の中央部・須崎で中村街道から分かれ、檮原(ゆすはら)を経て、愛媛県北宇和郡鬼北町の山中で北へ向かい大洲に至る大洲街道と、南の宇和島に至る宇和島街道の二道に分かれます。大洲に至る国道197号線とほぼ重なり、鬼北町から宇和島にかけては国道320号線にほぼ重なります。坂本龍馬をはじめとする土佐藩の維新志士が脱藩に使った道と言われ、西予市城川町と高知県高岡郡檮原町との間に位置する九十九曲峠には、その記念碑が建っています。

【志度街道】 阿波国の徳島から吉野川を渡り、大寺を経て大坂峠を越え讃岐国(香川県)へ向かい、四国の北海岸に沿って白鳥、三本松、志度を経て高松に至る街道です。徳島県内から東かがわ市引田までは現在の徳島県道・香川県道1号徳島引田線、その先の香川県内はほぼ現在の国道11号線に相当する道筋です。白鳥(しろとり)は、日本武尊の霊が白鳥となって飛来した伝説の残る、白鳥神社の門前町です。

【高松・丸亀街道】 讃岐国の高松から西へ。国分、坂出、宇多津を経て同じく讃岐国の丸亀に至る街道です。現在の国道11号線に相当する道筋で、丸亀では「高松街道」、高松では「丸亀街道」と呼ばれています。坂出は金毘羅参りの上陸地の一つで、江戸時代は大坂から毎月定期船が通うなど随分と賑わっていました。

【讃岐街道】 讃岐国の丸亀から四国の北海岸に沿って、観音寺、川之江、新居浜、西条を経て小松(現西条市)に至る街道です。現在の国道11号線に相当する道筋で、讃岐内では「伊予街道」と呼んでいました。西条は、四国最高峰の石鎚山の登山口としても賑わいました。この讃岐街道、松山城の北西にある札之辻が起点であるという説もあり、この付近には松山藩の道路元標が建てられています。松山市の札之辻から小松(現西条市)に至るまでの間にある中山川沿いの峠道は「中山越え」あるいは「桜三里」とも呼ばれました。江戸時代に金毘羅参りが盛んになると、伊予国からも多くの参拝者がこの街道を利用して金刀比羅宮を目指したため、金毘羅街道の一つでもありました。この讃岐街道の街道沿いには金刀比羅宮までの道標などが今も残っています。

この他にも支線と呼べる旧街道が幾つもあります。

四国ではこのような旧街道のほかに忘れてはならない歴史のある道路があります。それが『遍路道』です。遍路道とは、四国霊場八十八箇所の霊場寺院間を繋ぎ、巡礼者(お遍路さん)が歩く道のことを言います。四国八十八箇所の霊場をめぐる遍路道は、四国4県にまたがり、空海ゆかりの社寺を巡礼する全長1,400kmにも及ぶ長大な街道です。そのうち愛媛県内には4県の中でも最も長い延長500km以上の遍路道が通っています。

遍路道の原型は中世末期にはできあがっていたと言われています。奈良時代には修験道の修行者や、聖と呼ばれる民間の宗教者が数多く四国の辺地を訪れて修行をしていました。これが四国遍路の祖形だという説がありますが、この人々が歩いた道が現在の遍路道に繋がるかどうかは今のところ不明です。四国霊場八十八箇所を開いたとされる弘法大師空海の入定以後、その修行の跡を辿って平安時代末期頃から真言宗の僧が四国を回るようになります。当初は四国各地の寺院や神社、弘法大師の霊跡などをそれぞれが独自に巡っていたため道筋は一定ではなかったようですが、僧の修行のための四国巡礼が確立されるに従って通る道がある程度固定化し、現在のように四国霊場を結ぶ経路ができていったと考えられています。

近世に入ると貞享4年(1687年)に『四国辺路道指南(みちしるべ)』という案内書が刊行され、四国遍路が一般の人々の間にも広がるようになってきました。明治以降はトンネルや橋の建設などによって遍路道は大きく変化し、現在では一部の山岳寺院への登山道などを除いて、多くが道幅の広い舗装道路になっています。

この遍路道、幹線部分のルートは上記の旧街道とほぼ重なるのですが、霊場寺院の近くになると、歩きでしか通れないような狭い道、舗装されていないような地道や石畳の道等が多く残存していたりもします。基本的に霊場は修験者の修行の場、遍路道は修行の道でもあることから、これが遍路道本来の姿であるとも言えますが、日常生活で山間地や林間地のような道を歩く機会の少ない現代人にとっては、そうした山間部の遍路道を歩く行為は、巡礼行為であるとともに、非日常的体験とも言えます。

この「四国八十八箇所霊場と遍路道」は世界でも注目されるようになってきています。世界一の発行部数を誇る米ニューヨーク・タイムズ紙のホームページに昨年(2015年)1月9日付で『52 Places to Go in 2015』と題して、2015年に行くべき世界の52ヶ所の名所を紹介しているのですが、その52ヶ所の中に日本で唯一「四国」が選ばれて、掲載されています。

『ニューヨーク・タイムズ紙HP『52 Places to Go in 2015』

イタリアのミラノやキューバ、フィラデルフィアなど世界各地の見どころと並び、35番目(これがどういうランキングかは分かりませんが…)に四国遍路や道後温泉などを紹介しています。四国のことを『記念に満ちた日本の最も小さい主要な島(Anniversaries abound on Japan’s smallest main island)』と評し、第45番札所である岩屋寺(愛媛県久万高原町)への遍路道の写真を掲載。四国遍路は88の寺を巡礼するもので、2014年がその霊場開創1,200年の記念の年だったことなどを説明しています。また、「特筆すべき場所」に松山を挙げ、120年の歴史をもつ天然温泉の公衆浴場として道後温泉本館のことを記しています。

こういうこともあって、このところ、四国八十八箇所霊場を巡る遍路道を歩かれている外国人さんの数が急増しているようです。それも欧米人(白人)がほとんどです。私は時々、愛媛県松山市にある実家に帰省しているのですが、実家のすぐ近くに第50番札所の繁多寺(はんたじ)があり、我が家の墓のある墓地の横をその繁多寺に向かう細い遍路道が通っています。そこで、何人もの遍路装束の外国人お遍路さんに遭遇します。巡礼という文化は、むしろ欧米の方々のほうが理解しやすいのかもしれません。そういう意味でも、四国はちょっと日本離れした不思議なところのように思えます。これも古代ユダヤと関係があるのでしょうか?

また、「四国八十八箇所霊場と遍路道」を国連教育科学文化機関(UNESCO)の世界文化遺産に登録しようという動きも活発になっているようです。2016年8月には四国遍路の世界文化遺産登録を目指す四国4県と58市町村、「四国八十八箇所霊場と遍路道」世界遺産登録推進協議会が、登録の前提となる国内暫定リスト入りに向け、構成資産の保護措置や普遍的価値の証明などを盛り込んだ提案書を文化庁に再提出しました。

その前段としての資産保護に向けて、遍路道を次々に国指定の史跡に登録しようとする動きも進んでいます。

まず、徳島県では第20番札所の鶴林寺(かくりんじ)に繋がる“鶴林寺道”と“いわや道”、第21番札所の太龍寺(たいりゅうじ)に繋がる“太龍寺道”、第22番札所の平等寺(びょうどうじ)に繋がる“平等寺道”が既に「阿波遍路道」として国指定の史跡に登録されています(総延長7.25km)。この中でも、特に勝浦町生名(いくな)から標高550mの鷲が尾の山頂にある鶴林寺までの“いわや道”と呼ばれる3.1kmは、地元徳島では「遍路ころがし」と呼ばれるほどの急傾斜の厳しい登山道になっています。史跡登録されているこれらの道には石畳や寺までの距離を示す町石(丁石)、道標、行き倒れた巡礼者を弔った遍路墓などが残り、宿泊施設である通夜堂(つやどう)跡も発掘されています。

さらに徳島県では第20番札所の鶴林寺から第21番札所の太龍寺までのもう一つの遍路道“かも道”、土佐東街道から分かれて第17番札所の恩山寺(おんざんじ)に向かう“恩山寺道”と、恩山寺から第18番札所である立江寺(たつえじ)に向かい再び土佐東街道に合流するまでの区間の“立江寺道”を国指定の史跡に登録するよう文化庁に申請しています。このうち“かも道”は南北朝時代から使われていた四国遍路最古の遍路道とされていて、江戸時代に近道が開拓されたことで人の往来が減り、いったんは廃道となっていました。それを阿南市や住民が整備して復活させたものです。

香川県では第81番札所の白峯寺(しろみねじ)から第82番札所の根香寺(ねごろじ)に至る“根香寺道”が「讃岐遍路道」として国指定の史跡に登録されています。この“根香寺道”は舗装されていない山道であり、道沿いには道標、丁石も数多く残っていて、歴史的な景観を良くとどめています。

愛媛県では第41番札所の龍光寺(りゅうこうじ)から第42番札所の仏木寺(ぶつもくじ)に至るまでの“仏木寺道”と、第59番札所の国分寺(こくぶんじ)から第60番札所の横峰寺(よこみねじ)に至るまでの“横峰寺道”が「伊予遍路道」として国指定の史跡に登録されています。“仏木寺道”も“横峰寺道”も道沿いには江戸時代後期の遍路墓が残るなど旧状をとどめている道です。

高知県でも第35番札所の清滝寺(きよたきじ)から第36番札所の青龍寺(せいりゅうじ) に至るまでの“青龍寺道”が「土佐遍路道」として国指定の史跡に登録されています。この道の沿道には1848年に建立されたものなどを含め、35基の道標や磨崖仏(まがいぶつ)、供養塔などが立ち並んでいます。

私は現在『中山道六十九次』の街道歩きを趣味としてやっていますが、調べてみると、私の故郷四国にもなかなか面白そうな街道や遍路道がたくさんあります。こりゃあこのうちの幾つかをいつか歩いてみなければいけません。



……(その7)に続きます。

執筆者

株式会社ハレックス代表取締役社長 越智正昭

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